緑の人、旅に出る 3
王国北部を横断するデジレンス大山脈、その麓には東西に幾つも村や集落が出来上がっている。村々を結ぶように東西へ走るものは、舗装こそされていないが立派な道が出来ていた。永きに渡って人や馬に踏みしめられた跡である。
レジナス王国は首都トトリを中心に再興した国であり、博愛を説く王ですら、未だ国内全土までは設備に手を入れられていない実情がある。レティアやラスパのような交易拠点には多少国庫が開かれているものの、町の運営は貴族を始めとする権力者の資金によって支えられている。
町を発展させるため――そのように説明すれば聞こえはいいが、資金提供者には元金以上のリターンが当然ある。王の手では届かない痒いところに指を伸ばせれば、その者の発言力は増す。
公共施設を始めとした建設業に資金が回されれば、自ずと人が集まりギルドが作られる。鉱山や森への単なる資材調達も“勇者”という称号がつけば、名誉ある仕事となるのだ。
勇者ギルド設立者の思惑は何処かにあれども、権力者には副産物である筈の金と人脈が湧いて湧いて仕方ない。ヴァリスナード様々と高笑いを上げる男がここにも居た。
平民の証である茶髪でありながら、不必要に脂肪が蓄えられた身体は、日頃から元々の地位からは考えられぬ贅の限りを尽くしていることを物語る。その男は名を、ベスパラと言う。気が短く口喧しいところがあり、いつでも怒鳴り散らしていた人物だ。
「ふぐっ――」
誰にでも命令を飛ばせる筈の口が、自由に開くことすら出来ない。高笑いをしている場合では全くない。
カチンと金属がぶつかる音が響けば、ベスパラはせめても抗議の視線を送った。身を捻ることは疾うに試している。結果は残念なもので、縄の食い込みが強くなって肌に赤い痕を広げるに留まった。
昨晩までは名誉にも女にも飽きる程であった彼は、今は自宅のベッドが恋しくて堪らない。
「ふぐぐ――」
これは夢なのだ。目が醒めれば、また成り上がった自分がいる筈だ――男は祈るような気持ちで視線を彷徨わせるが、目に収まるものは裸で椅子に括りつけられた己と、二名の黒衣の者のみ。石造りの地下室は薄暗く、黒い衣装は実にその場に馴染んだ。
「声は上げなくて結構ですよ。さぁ、早く書類にサインをしてください」
少年のような、少女のような声で伝えてくる。そこに幼さはなく、事務的な淡々とした響きだけがある。この者にとってこれは仕事などではなく、単なる作業に過ぎない。鳥の仮面を被った者は、縛られた人物に特に関心を示すこともない。
薄暗きところから這い出た者は、どちらかと言えば、単純作業が上手く進まないために腹立たしさを覚える。高い声の主――カーラは手持ちの“やっとこ”をカチカチと鳴らしては、その音に苛立ちを散らしていた。
「ぶむぉっ――」
「失礼。私は気が長い方じゃないみたいです。」
やっとこで男の小指を捩じ上げ、黒騎士は呟く。慈悲の心でペンを握らせた利き手は残しておいてやったが……悲鳴が聞き苦しかったために、続き薬指を捻った。
「ぶがあ゛あ゛――」
口が塞がれているものだから、ベスパラは鼻を鳴らしながら叫んだ。音声は濁っており、顔の粘膜部分から水分を溢す様は見苦しさの極み。だが、カーラにとっては耳に届く音が変化したので十分だ。幾らか機嫌も直る。
「よしなさい、カーラ」
「こんな作業、早く終わらせ――わかった」
横合いから届く慈悲深い声に黒騎士は余分な責めを取り止めた。眼鏡を指で押し上げる上司が、その下に声音とは正反対に瞳を鋭くしていることに気づいた。
金髪を後ろに流した不健康そうな司教、アジードは大罪人の男へ優しい笑みを見せる。有名な神父を前にして、縛られた男はある噂を思い出していた。
レジナス王国が平和であるのは、私腹を肥やすことに注力する悪人を神の徒が裁いているからだ――実際、幅を利かせ過ぎていた権力者がパッタリと大人しくなったと耳にしていた。馬鹿馬鹿しいことこの上ない戯言だと、この時まで彼は思っていた。
「いやぁ、部下がすみません。私は、傷めつけろ、などと命令していないんですよ。そうですよね、カーラ? 私はベスパラさんに協力してもらえるよう、説得しなさいと、そのように言いましたよね?」
「勿論。私が勝手に解釈したことだ」
「ふ、ふ――」
痛みに呼吸が荒くなったベスパラであるが、希望の光が見えてきた。鳥の仮面をつけた者が首を捻ると、脇へと退いた。ともすれば、この拷問じみた茶番劇も終わる筈だ。アイリスに仕える神父が非道を行う筈はない。
「さて、まずはその指を直して差し上げましょう。ええ、欠けた歯車が取り換えられるように、すっかり貴方の指も直りますよ」
中位調整との呪文は、水色の光を捻じれた指へと届け、説明通りに直してしまった。
「――――っ!?」
傷が癒されたと思った男は、違和感を覚えて音もなく唸った。その二本の指は、一度も陽を浴びたこともないような白さを示す――まるで新品と取り換えられたかのようであった。
「さあ、カーラ。引き続きお願いします」
「了解した。今度こそ、説得を成功してみせよう」
「んー、んーーーっ!」
男は一度は止まった涙を流し、やめてくれと懇願した。控えたと思った黒騎士は、次の説得の準備をしていたに過ぎない。今は、回転式のノコギリを手にしている。
「おやぁベスパラさん、すみません。カーラは私の説明を時々、間違って解釈してしまうようですね」
肩を竦め「まいったまいった」と博愛の神の徒は告げる。
(こいつら、正気か!?)
滲む視界に収まった者は人間ではない、そのように男は直感した。小さな集落の取りまとめから、ここまでのし上がってきた。誰も自分に逆らうことは出来ない――ここまで己を追い詰める者は、黒衣を着た二人は悪魔か何かなのだとしか思えない。
「あぁ、私としたことが、いけません。貴方を痛がらせることが目的ではないのですが、カーラはこの様子。せめて痛みをとってさしあげましょう」
アジードが感覚奪取と呟く様を、ベスパラは疑うような目で見た。ひょっとすれば、己の耳は先程の魔法で飾りか何かに代えられたのかもしれないとすら思った。神父は今、鳥の仮面を止めるつもりがないことを暗に伝えるのだ。
「アジードの話す内容は難しくてな。間違っていたら、すまない。今度こそ正解であるよう、主神に祈れ」
「――――――っ」
淡々と、木材に切れ目を入れる作業のようにカーラはのこぎりを走らせる。左の中指から肘関節の手前まで、縄に当たる直前まで一直線に引かれた。尚恐ろしいことに彼は、痛みを感じなかった。ただ、脳は仮にこのように裂かれればどうなるかをシミュレートして、激しく身悶えさせた。
「はい、静粛に。主神は静寂を尊びます。私も、豚のような悲鳴を喜ぶ趣味はありません。静かに首を振って答えなさい」
赤い水たまりが作られる中、今度は左腕が魔法によって丸ごと取り換えられた。喚いたところで、人間の声ではこの神父の姿をした者には届かない。
(こいつは、悪魔だ)
脂汗は流れ続けるが、無理にでも震えは止めてみせた。アジード神父の眼鏡の奥、瞳は丸きり笑ってなどいない。下手なことはせずに、相手の土俵で話を聴くべきだ。
答えを間違えれば、脳髄を丸ごと新しいものに入れ替えられるかもしれないのだ。
「貴方、ここ数年で一気にのし上がった。従事する者たちへの指示も、大したものです。国への貢献も、確かにありましたな」
「……」
ベスパラはゆっくりと首を縦に振る。
問われたことはそのまま真実だ。彼は大量の人手を基にここまでのし上がってきた。一代で築いた財は余りに大きく、手放すことは惜しい。既に反抗の意思はなく、後はどの程度まで財産が残せるか、神父とのやり取りに重きを置こうと思考を切り替える。
アイリス神は同族殺しを嫌っている。如何にアジードの頭がイカれていたとしても、加護を喪失してまで命を奪うことはない筈だ。
「新しく町を造る、大いに結構――」
ですが、と神父は続けた。
「新しい物を造る度に、古い村を丸ごと平らげるのは感心できない……働けない老人も、年端も行かぬ少女も、丸ごと消えるとなれば看過できません。アイリス神のお嘆きになる姿が浮かべば、私は熱狂的信者として行動せねばならぬでしょう」
「――っ!」
声は出さず、ベスパラは必死に首を左右へやる。だが、ゆったりと大仰にアジードが首を横へ振っては、私腹を肥やした人間の抗議を打ち消した。
「懺悔の機会を差し上げましょう。この契約書に、ご自身の意志で署名なさい――ああ、そんな顔をなさらず。強制ではないのです。えぇ、決してね。私は誰にも命令はしません。そうですよね。カーラ?」
「勿論。アジード神父は人に選択の余地を残す」
黒騎士は声を弾ずませながら答えた。体躯の小さな者が小首を傾げながらそうするのは、愛嬌があるように見えないこともない。ただ、相変わらず仮面の下の素顔は窺えない。
「ベスパラさん、御心配は無用ですよ。貴方がどのように選択されようとも、私は貴方を殺せと命じませんし、そもそもカーラに人を殺すという意識はありません……まぁ、結果的に命が失われるようなことになったとしても、我々に殺意はないのです。同族殺しとはみなされません。慈悲深い主神は私たちに神命に応え続けなさいと、仰ってくださるでしょう」
本業の説教よりも饒舌に、憐れなる迷い子は神の御心を説いた。その微笑みに虚偽はなく、心の底から神を信じていると断じることが出来る。れっきとした階級制度が敷かれるこの世界で、選択が可能なことはどれ程幸運であるか。
「さぁ、お選びなさい。貴方に委ねましょうとも。ただし、その首が横に振られれば、どうなるか……それは私にもわかりません」
「――――っ!!」
何度も首を縦に振り、空いた右手で男は目も通していない書類にサインした。絶対に逆らうことは出来ない。
主神の名を出した時に見せた表情、そこには強い感情があった。アイリスが唾棄すべしと言った行為を、アイリスのためだからこそ行う――こんな真っ直ぐに愚かなことをする者に逆らってはならない。
「ご決断ありがとうございます。ところで、貴方の左腕ですが――おやおや」
既に男は、白目を向いて意識を落としていた。安全な位置から民へ指示ばかりをしてきた男には、刺激があまりに強すぎた。
「さて、作業も終わったことだ。ここで報告してもいいか?」
説教を終えた神父はこくりと首肯する。そこには何とも満足気な表情が浮かべられていた。また一人熱心な信徒が増えたのであるから、喜ぶなという方が無理な話だ。
「ラスパに、勇者崩れの荒くれが集められようとしている。闘神の加護を得た勇者、その従者へと差し向けられる可能性が高い。緑の勇者もそちらへ向かっているようだが、どうする?」
教会が――否、黒騎士が持つ情報網は広く、深く根が張られている。三か月前から、闘神の加護を持つ勇者の動向にも手は伸ばされていた。
「ただの人間相手なら、有事ではありません。放っておきなさい、我々は神の御意志に応えることで忙しいのですから」
「その通りだアジード……了解したよ。闘神の加護は素晴らしく強い。あの少年にはもっと、もっと、もーーっと強くなってもらわないとね」
闘神というフレーズに、笑うように怒るように、カーラは声を震わせて頷いた。
デジレンス大山脈は東西に険しく聳えるが、連なる緩やかなものが南へ向けても伸ばされていた。この山に沿って北上する道が、レティアとラスパを繋いでいる。
周辺は小さな村や集落が点在しており、初夏や秋は農作物運搬に、春には物見遊山する者が立ち寄る宿場として機能する。贅沢は出来ないが、暮らしぶりは悲観するものでもなかった。余所者は銭を落とすだけでなく、外の話を聴かせてくれるとあれば、喜んで迎え入れるというものだ。
「ようこそ、シンセへ。お疲れでしょう、宿はもう決まっていますか?」
目指していた集落についたのは、もうすっかり暗くなった頃合いであった。簡単な柵が見えれば、二人は馬を降りて歩む。入り口と思しきところには松明が掲げられている。そちらへと差し掛かれば、皮鎧を着た青年がにこやかに話しかけて来ていた。
「あ、ああ……」
思わず、ジオは頭を掻きながら曖昧な言葉を出していた。鎧のない己が他人にどのように映っているかがわからない。今、彼のシンボルは左腕に単なる篭手として収まっているが、少々心許ない気分であった。
「宿はもう決まっているの。エランの宿、空いているかしら」
少年が所在なく立ち尽くしていると、ティアが代わって話し始める。話し言葉は少女――否、成人した女性のような口ぶりで、藍色の髪も夜になれば黒色に映った。
「うちをご指名でしたか。それなら丁度一部屋空いていますがー、その、一番高い部屋なんですね」
宿屋の息子だったらしく、青年は「僕はエスタと言います」と名乗れば一層愛想よく話す。ただ、少年少女の二人づれには少々見合わない部屋であることに、語りには少しばかり躊躇もみられた。
「元々、その部屋に泊まるつもりだったの。ここの温泉はお気に入りで……フラティラリアって名前に記憶は?」
「あ――貴女がそうでしたか。母が言う格好とは違っていたので、お得意様に気づかず、すみません。いつもありがとうございます」
さぁ、案内しましょう。篭手のつけられた手を伸ばし、エスタは松明を一つ掴んでは歩き始めた。羽振りのいい客が訪ねてきたことを知ると、言い淀むことは最早なかった。
ちょっと失礼、と入口の裏手で椅子に座っていた人物へ二三言会話をすると、これまた皮の鎧を着た男が欠伸をしながら立ち上がる。
門番にしては気が抜けているが、目的としてはお客を出迎えることに主眼が置かれている。どこの宿に泊まろうとも、集落全体で利益を上げようとシンセでは若者が交代で番をする制度が設けられていた。
「……何をしとるかの、さっさといくぞ?」
「ああ、うん」
灯りに照らされ、いつもの口調で幼馴染が語りかける。一瞬ばかりジオの目には彼女が別人に見えた。相変わらず曖昧な返事をしながら、その後を追う。
「ここな、レティアからもラスパからも中途半端な位置なんじゃよ。じゃから、料金も高い……その分サービスがいいから、こうして羽を伸ばしに来るんじゃな」
「あんまり大きな声で言うもんじゃないよ」
ティアが年頃の少女のように笑えば、少年は横に並び注意の声を上げる。どうにも昔からこの娘は妙なところで人目を気にしない。
「かー、昔のエルに戻ったかと思えば、そうじゃった。ヌシは筋金入りの堅物じゃったわ」
「そりゃそうだよ。神官の家に生まれたら、そうなるってば。やれば出来るんだから、丁寧に話しなよ」
「可愛くないのう……お姉さんがご機嫌なんじゃから、水を差すでないわい」
お姉さんと言っても、実際には一歳しか変わらない。だが、興醒めするような言葉を態々出す必要もないと、ジオは引っ込めた。
「仲がいいんですね。ご家族ですか?」
「……そうですね。最愛の家族ですよ」
「ちょっ――ティア?」
腕に伝わる女の子の柔らかな感触に、思わず少年は戸惑いを示した。視線を下げれば、腕を抱き込む形でじゃれつかれている。
やめろと喉元までせり上がった言葉を、彼はどうにか呑み込んだ。にこやかな表情をした青年の手前ということもあったが、何より幼馴染みの屈託ない笑みを曇らせたくはなかった。
(調子が狂う。いや、狂うんじゃなくて……)
鎧を脱いで過ごすことは久しくなく、勇者であることが当たり前に成り過ぎていた。このようなことが人間らしい日常であったことを、勇者の息子として生きる少年が気づくことはない――否、違和感のようなものに気づいたところで、漠然とし過ぎて形にならない。
「いいですね。今日はお客さんが多いんですが、殺伐とした人たちばかりで。お二人を見ていると、何か、いいなって思います……あ、お客さんを悪く言ったことは内緒にしてくださいね」
「褒められると嬉しいもんじゃな。ようし、今日はありったけの銭を落としてやろうぞ」
エスタのにこやかな表情に、ティアは一層気分を良くしたようであった。今青年から語られたものは、商売抜きの感想だった。笑顔は宿屋の息子としてでなく、個人で出されているとなれば、魔女も素の言葉遣いで話した。
「確かに、この時間にしては少々騒がしいか」
通り過ぎた他の宿、内側の灯りも強く喧噪が漏れ出ていた。“殺伐”という言葉を耳に、ジオは勇者らしい表情になっては辺りを見回す。路地の裏には酒瓶を抱えて眠る男――その身体は鈍色の鎧が身につけられている。
恐らく勇者ギルドに属するものだろうと少年勇者は推察するも、不可解に思っていた。小麦収穫に伴う依頼に駆け付けるにしては、少々物々しい。眠る男の装備品は短刀やナイフが中心。
これらは対魔物というよりは、人を想定したものなのではないか。不穏さを覚えれば、篭手に留められた生長鎧がチリチリと蠢き出す。
「お客さん?」
「何でもないぞ。なぁ、エル?」
「あ、ああ……何でもない。何でも、ないよ」
魔女の睨みに、瞳を青年へと戻す。一瞬ばかり漏れ出したものは、それこそ殺伐としたものだった。ティアの笑顔を崩してしまったことを反省しつつ、ジオは平静に振る舞うことに努めた。
「今日は、そこら中に鎧の人がいるのぅ。観光客にも見えん。エスタさん、近々戦争でも起こるのじゃろうか?」
少年の右腕に絡んだままの魔女は、あくまでも世情に疎そうな顔をしてとぼけてみせた。掴んだ腕には力を少し込める。
「戦争、ですか。そんな噂は今のところ……ただあの連中、マイロっていう勇者を担ぐ人たちには注意が必要かもしれないです。絡まれると、結構しつこいって噂ですよ」
それこそ大きな声では言えないんですけどね、とエスタは困ったような表情をしてみせる。店に泊っているいないに関わらず、客の話をすることは商売人としてはご法度だ。
「直ちに戦争がないなら、いい。変なことを尋ねてすまなんだ」
魔女らしい表情を潜め、ティアは話を打ち切った。
「ごめん」
「構わん」
短いやり取りの中に、込められたものは何であったか。人差し指を口元に当てた少女を見れば、ジオはこめかみを指で解しながら宿屋の息子へ視線を向けた。目が合えば、愛想のいいエスタは何やら話し始める。
「フラティラリアさんはー、お忍びでこちらに来られるお嬢さんでしたね、鎧の連中が居ては心配でしょう。お兄さんもさっきの怖い顔、大事な妹さんを守ろうとしてのことですよね?」
「……そんなところです」
人の好い笑みを向けられ、ジオは柔らかな表情で返した。
エランの宿を目前に、魔女は眉間に皺を寄せた。らしいと言えばらしいが、この後の台詞を聞けば、幼馴染の少年としては額に手を当てて呻いてもしまう。
「ありがとうエスタさん。ただね――これが弟。私が姉だ」
ニタァと嗤う姿に、青年は思わず「すみません」と呟いていた。個人としての振る舞いはここまでだ。宿の扉を開けば、エスタは商売人の顔になる。
「ようこそ、エランの宿へ。精一杯のおもてなしをさせていただきますので、ごゆるりとお身体とお心をお休めください」
「ご苦労、非常に愉しみだ」
益々口角を上げてティアは笑った。だがそこに険はなく、年相応の顔が無防備にも晒されていた。
「はぁー……」
湯気に視界を邪魔されながら、ジオは弛み切った息を長く吐く。
腹も膨れ、十分に満たされた感を持っていたが、熱い湯に身を落とすと、これまた異なった感慨が湧き上がる。
既に鎧は解いている。温泉に身を落とすとなれば、衣服は愚か、十二の頃からずっと身に付けていた篭手すら剥がされた。
案内された部屋から扉二枚で繋がったここは、丁寧に手入れがされていることを十分に感じ取らせる。足元に敷かれた石は湿度が高い風呂場にあっても、苔の一つも見えない。彼が身を沈めるスペースも、一家族がまとめて入っても尚余りある広さが用意されていた。
「ふいぃ」
頭に乗せたタオルの位置を直しつつ、再度ジオは気の抜けた息を吐く。
背中は浴槽に預けながら、腰は壁よりも少し離れたところに置かれている。半ば寝転がるに近い姿勢をとっているのは、ただ座るだけでは全身を浸すことが出来ないからだ。それも、小さな子どもが溺れぬように宿が配慮に配慮を尽くした結果であった。
「旨い飯、熱い風呂、至れり尽くせり……ここが極楽浄土だったか」
んあー、と誰憚らず声を上げながら、少年は信奉する神へ感謝を捧げた。化生する度に「旨いものを寄越せ、宴を開いて神をもてなせ」などと宣うルファイドの気持ちも、多少は理解出来た気がする。
日頃、加護を与えているらしい神へは非難めいた視線を向けているが、成る程とも思った。十分に満たされながら、独りであることに若干の侘しさも覚える――一見我儘に見えるルファイド神であったが、独占ではなく他者と悦びを共有しようとしたものであったのかもしれない。
「贅沢だ、贅沢過ぎる」
ぶつぶつと戒めのような音を少年は漏らした。独りになり、口調はいつもの勇者らしいものへと戻る。
食事は、豆を代表する穀類を煮込んだスープが中心の生活だった。十二の頃から外で寝泊まりをすることが主であった。それが、こうして手の込んだ食事と風呂に身を委ねる、何とも贅沢に過ぎる話だ。
「あー……ティアが何と言おうとも、先に風呂を譲ってやればよかったか」
エランの宿には、他の客たちも入れる大浴場があった。むしろ、そちらが一般的だ。ジオが身を浸す湯は、一部屋のためだけに引かれてきた特別仕様だ。大金を求められるだけの価値はあると、少年は首元まで湯に埋めながら納得していた。
『高い銭払ってるんだ、好き好んで大浴場に行くこともないじゃろうて』
風呂はどこも一緒だと思っていたこと、体験もせずに知識だけで大浴場へ向かおうとしていた己の浅識を少年はこっそりと嘆く。
宿につくや、幼馴染みがポンチョの下から出した革袋が大きな音を立てていた。高い金属音の正体は、袋の中身が金貨ばかりであったことに由来する。
「まー、気前のよいことだ」
貨幣価値を知らない彼は、呑気に呟く。恐らく高いのだろうなという程度の思いであったが、実際はレティアで二か月丸々暮らせる程度の金額が支払われていた。
冗談のように「お前も一緒に入ったら?」と言っていたが、今では真面目に告げてもよかったかとすら思えた。独り占めをするには、味わったことのない贅沢に震え出しそうにもなるものだ。
「何、ヌシが悦んでくれるなら、幾らでも払おうものじゃ」
「いやぁ、流石に悪いだろう?」
「気にするでない。どれ、少し横を詰めろ」
あいよ、という言葉が反射的に出かかった。
温泉はそれ程深くもないが、流石に彼女の背丈では縁から踏み込むのには苦労をする。段が作られているが、そこはジオの背中が預けられているので、通るのは憚られる。
だが、そうじゃないだろと、彼の心が騒ぐ。
「おい、退かないか。一緒に入ろうと言ったのはヌシじゃろうて」
「……は?」
声のした方へ向けた首が、固まる。
「おい、また今のエルに戻ってるじゃないか。その間抜け面も愛嬌があって嫌いじゃないが、先程までの素直な、可愛いエルの方がより好ましいものぞ」
「ぉ、ぁ、ぇ……」
意味を為さない音を出しながら、ジオは少女を見ていた。
夜にも関わらず、贅を凝らした部屋は魔導器による灯りが焚かれている。魔法的措置に齎された白色光が、白い肌を照らし出す。
「ほれ、早う詰めろ。一緒に風呂に入るんじゃろ?」
「――――っ」
頭に血が上る。それとは裏腹に少年は顔を白くしていた。
一緒に風呂を入ろうなどは、幼い頃の記憶そのままの少女へ向けたものだ。彼女は身の半分程をタオルに包れているが、明らかに姿が異なった。
(嘘だ、詐欺だ……)
背丈こそ変わらぬが、布はヘソより上に起伏を作っている。女性らしい曲線――有り体に言えば胸があった。
よくよく考えれば、再会してからは野暮ったいローブやポンチョ姿しかジオは目にしていない。次の瞬間には、先程腕に絡んだ柔らかさの正体に思い至り、顔を真っ赤にして唸った。
「詰めるか、バカ! お前、年を考えろ、男と一緒に風呂に入るやつがあるか!!」
必死に、それはもう必死にジオは言葉を飛ばす。我に返れば視線も彼女からは切っていた。
「あぁ? ヌシ、詰まらんことをいいおるのぅ……一緒に入るって言ったろうが。勇者が嘘吐くのか?」
「あんなもん、冗談に決まっているだろうが。都合よく勇者と幼馴染を切り替えるんじゃねぇよ、とっとと出てけ!」
可愛くないとの言葉に、勇者は怒気も露わにして叫んだ。その態度に、ティアも表情を魔女らしくして睨む。
「嘘つけ。言った時はそこそこ本気だったろうが――アレか。ヌシな、エルな、今この時点で急に私を女だと自覚したんだろ。何か? おっぱいか? あぁっ!?」
ジオのものよりも大きく、声が張られた。最早、不機嫌極まれり。
幼馴染みの反応には、裏切られた感すらあった。ジオが二人旅の最中に見せた顔は、自身を特別な存在として扱ってくれているようにも思えた。だがそれが、本当に妹に見せるような、家族へ向けたものであったと思い至れば、ティアは犬歯を剥いて吠える。
「ち、違――」
「喧しいわ! えぇえぇ、そうでしょうな。そうでしょうとも、お前が大事なのは勇者として扱ってくれる家族なんだろうよ。それ、私じゃなくて、伯父に向けたもんだろうが! 乙女らしい期待して損したわ、やっぱり私はどうしようもなく魔女だった。お前も勇者らしく生きて、勇者らしく死ね!」
ふん、と顔が背けられるが、赤らんだ顔の横を雫が流れていく。余りの剣幕であったのでつい視線を戻すが、とてつもない罪悪感に駆られた。幾ら鈍い少年であっても、流石に涙までは見間違えることはない。
自身が彼女へ向ける想いは、故郷に置いて来た家族へ注ぐものと同じくして、それ以上でもそれ以下でもなかった。だが、果たしてそれだけで済まして良い話だったのだろうか――昔から彼女の泣き顔は、ジオの胸に必要以上に刺さる。
ぺたぺたと素足が石を打つ音が響けば、立ち去ろうとする小さな背中が見えれば、鎧を脱いだ少年は自分勝手な戸惑いを断ち切らねばならぬと頭を振った。
「ちょ、え、バカじゃろ?」
ゴチっ――鈍くも大きな音に、ティアは落胆も忘れて振り返った。白色に濁った湯に赤が混ざる。浴槽の淵、硬い石へ幼馴染みが額を打ち付けているではないか。
「何なんじゃ、ヌシ、何を考えとるんじゃ!」
先程までとは異なる怒りを口にしつつ、その音韻で癒しを届ける。精霊が用いるものと比べれば、二段も三段も落ちるが、速やかに割れた額を塞ぎにかかった。
「何も、考えてなかった。すまん」
額を石に押し当てたまま、少年は呻く。衝撃は手足の指先まで走ったかのように、全身をピリピリと打った。女性の裸身に現を抜かしてはならない――そんな手前の理想を、リハビリの場に連れて来てしまったことを猛省した。
ティアに見捨てられる筈はないと、それに甘えていた。彼女がどのように扱って欲しがっているか、それに応えられるかは置いて、理解出来た筈だった。無意識にも意識的にもそれを排除していたと、気づけば反省の念が押し寄せる。
「はぁ……バカじゃバカじゃと思っておったが、底なしじゃったな。私はもう怒らんから、引き続きゆっくり湯で身体を休めろ」
私は先に寝てるよ。ティアは溜め息を吐き、元来た道を戻ろうとする。
「待て」
「はぁっ? 可愛いエルの言うことなら、聞いてやりたいが。このまま突っ立って話に付き合わされるのはバカらしいものぞ」
振り返りはしたものの、呆れは隠すこともしない。その幼馴染みに向けて少年は言葉を続ける。
「入ってけ、折角の良い湯治場、だろ?」
出された言葉に、尚も呆れは増した。
「バカ言え、勇者様は女と風呂なんか入らんのだろ」
「大丈夫だ。俺には、これがある!」
口元に不敵な笑みを浮かべ、先程まで額に乗せていたタオルをぐるりと巻いた。勇者らしく堂々と言ってみせるが、目隠しをしただけである。
「ヌシ、何がしたいんじゃ?」
「……わからん。が、取り敢えず風呂入れ。風邪でも引いてしまったら、それこそバカらしい」
くいくい、と手招きがされれば、ティアは眉間に皺を寄せたまま湯に浸かる。貸し切りの温泉であるが、それなりに育ちのいい彼女は湯にタオルや髪をつけぬよう、身体を包んでいたもので頭をぐるりと巻いた。
入れと言い切っても葛藤があったか、目隠しをした生真面目な少年は耐えるように腕組みをしている。そんな姿を見てしまえば、イタズラっ子のように口元を歪めて少女は固くされた身に寄り掛かった。
わざと胸を押し当ててみれば、震えるようにしてジオは少しばかり身を捩るが、反応が面白いのでティアは益々口元を歪める。
「無理してるんじゃないか? それも勇者としての矜持か?」
「俺の理想とする勇者は、女にだらしなくしない……とは思うが、大事な家族を前にしたら無理もする」
ふん、と鼻から息を吐き出しつつ、少年は意固地に語った。
「正直なところ、女扱いしてなかった。するべきなんだろうが、考えたこともなかった。すま――いや、自分勝手に謝りたいんじゃないんだ、その……」
迷った挙句、結局は「ありがとう」とジオは告げる。
目はタオルに塞がれているので、見えはしない。しかし、幼馴染が足を伸ばして寛ぎ始めたと感じられれば、肩からは力が抜かれた。
「ヌシ、見えてるんじゃないか?」
「俺には心眼があるからな!」
「……どこまでが本気かわからんぞ」
やれやれといった様子でティアは首を振る。身を動かせばその分だけ水面は揺れる、成る程、何となく動きはこうしてバレるものかと納得した。
湯に身を浸せば、頑なになった少女の心も解れていく。ついでに眉間の皺も弛まり、伸びをしては温泉を満喫し始める。
「唐突だけど、ティアはさ、俺の何処がいいのさ?」
「……内緒じゃ。ヌシが私に全てを捧げるというなら、教えてやらんでもないぞ」
くふふ、と魔女が冗談めかして笑ってみせる。だが、ネギの勇者から望むような台詞が出されることはないともわかっている。
「すまん。勇者である内は、無理だ。俺が勇者を辞めたら、考えさせてくれ」
「じゃろうな」
予想通りの答えが戻り、ティアの瞳は閉じられた。真面目過ぎる少年だ。だからこそ想いの向け甲斐がある。絶対に口にしてなるものかと思うが、不意に幼き頃の場面を思い出しては口元柔らかな表情にもなる。
あれこれ語りたいところでもあるが、これ以上は我儘ですらなくなる。ともなれば、幼馴染の少女は最後に一つだけ提案を試みた。二人旅は直に終わるとあれば、少女らしくするのもここまでだろう。
「エルは、死ぬまで勇者をするんじゃろう。じゃからな、死んだら好きにさせてもらうぞ。これは頼みでも何でもなく宣言だ。勝手に貰って行くからな」
「……死体をいじられるのは、ちょっと」
「身が朽ちたとしても有効活用は出来るが、そうじゃない――お前の心を、魂を貰うと言っておる」
真剣な願いに、ネギの勇者としては愚か、幼馴染として応えたくもなった。目はタオルに覆われたままであるが、ジオは彼女の方へ顔を向ける。
「いいよ。それで喜んでくれるなら、死んだ後は好きにしてくれたらいい。役に立つかわからないけど、残りは全部あげる」
ティアの好意にはどう応えればよいかわからない。せめても真摯であろうと、少年はそのような台詞を吐いた。意識もしていないが、彼女が好きだと言ってくれたエルらしい口調であった。
「約束、したからな? 嫌がっても、全部、全部貰うから!」
ザバリ――湯が大きく揺れることをジオは感じた。横に居た少女が立ち上がったらしい。
動きを察することは出来るが、声が揺れる理由や心情までは人間として未熟な勇者には推し量ることもままならない。
「身体を洗う……そうだ、先にヌシを洗ってやろうか?」
特に震える様子もなく、毅然とした魔女らしいからかうような声が響いた。
「いや、流石にそれは勘弁してくれ」
ティアも女であると意識をしてしまった後だ、無邪気にじゃれ合える気はしない。
この後もしばらくは魔女の攻勢が続くかと思えば、ジオは頭まで湯に沈めてみせた。




