ネギが主菜で、何が悪い! 6
彼はその日のことを、生涯忘れない。
「何と、眩い……この子は紛れもなく、王の資質を持っている」
腕に抱いた赤子は布に包まれているが、肌の柔らかな感触がわかった。色素の薄い髪は日の光を受けて金に煌めいている。目が眩みそうになり、彼は気を引き締めた。如何に竜人が頑丈であったとしても、この赤ん坊は落とす訳にはいかない。
まだはっきりと開かれてはいない瞳であるが、それを見るだけでこの老竜人には全ての事情がわかった。竜人の瞳は彼のような黄色、または茶系が中心であり、強い加護を発揮できるものが琥珀色を示す――腕の中にいる赤子は、既に琥珀の瞳をしていた。王と同じ瞳に、永らく静かであった心も揺り動かされる。
竜人は数が少ない。その中で赤子が生まれたことは歓迎すべきである。だが、それが新たな王子となればどうか。既に成人を果たしたアレクセントとの禍根が生まれること、もっと言えば生まれて間もないこの王子が命を狙われることは想像に難くない。
つまりこの小さき者を護るため、隠居生活を送っていた老竜人は呼び出されていた。
「この子を護り育てて欲しい。ロン、頼めるか」
「御意に、この身に代えても必ずや――」
予想通りの命令であった。いつものように家臣は答えようとしたが、王がゆっくりと首を振ることでそれは止められた。苦悩に満ちた顔は、威厳ある君主のものとは言えない。人払いがされていれば、不必要に権威を振りかざすこともなかった。
ここには、子の未来を憂う父親がいるのみ。
「これは王としての命ではない。お前にしか頼めないんだ、ロン爺」
「……わかりましたとも、アグロ。この爺にお任せあれ、必ずやこの子を貴方のような立派な竜人へ育ててみせましょう」
第一王子と折り合いが悪かったこの老竜人は、赤子を連れてしばらく国を離れることとなった。王子を連れて人間の国を渡り歩き、国を捨てた竜人、国を追われた竜人を繋ぎながら十年を越える月日が経過した。
遂には、成長した子と道中に得た赤い幼竜を連れて帰還する。王へ謁見を果たした際は、王子であることの証明などは必要なかった。それ程に、エドワンは現王の面影を強く受け継いでいた。
これからだ。あの時に抱いた赤子は、これから竜人の未来を切り拓く存在となるのだ。これからであるというのに――――
「お、ぉぉぁ、ぁぁ……」
前王から数え、三代に渡り王族の教育係を務めたロンが、絞めつけられたような声を上げる。竜人の勇者として立派な成長を遂げたエドワンは、彼の腕の中でぐったりとして動かない。
白銀の背に突き立った矛は竜人種が持つ攻城兵器の一つであり、魔法的な措置がなされている。肉体が爆発四散せず残っているのは、神から与えられた加護のおかげではあるが、竜人の勇者になどならなければ、エドワンがこのような仕打ちを受けることもなかった。
(何故、何故だ……)
血溜まりを広げる背中を見つめる。早く引き抜いてやりたい気持ちと、そうしてはならぬと冷静な思考が鬩ぎ合う。まだ死んだと決めつけるのは早く、矛を引き抜くことで失われる血液量を考えれば、ただただ見つめる他なかった。
感情が憤怒と絶望を往復しながら、漏れ出るものが喉を傷めつける。言語にならぬそれは、呪詛にも似た行き場のない嘆きであった。絶望へ傾けば、底なしの疲労感により、全てを投げ出したい想いに駆られる――前王が亡くなった時でも、彼はこれ程の失意に陥ることはなかった。
「エドワンに槍を投げたのは……王の、こいつの親父の命令だったのか?」
緑色の鎧を着た人間が、不意にそう漏らした。瞬時にロンの黄色がかった瞳が鋭さを得た。
「気軽に口を開くな。貴様にこの子の何がわかる、王の何がわかる!」
感情が憤怒へと振り切られ、彼は思わず怒鳴っていた。腕にエドワンを抱いたままでは殴りかかることも出来ず、さりとて納まりつかぬ感情は言葉となって堰き出した。
強き竜人でありながら、人間種との争いを避ける現王のこと。その王に生き写しでありながら、第二王子という身分のため国を追われていた赤子のこと。兄でありながら、アレクセントは事ある毎に内外を問わず戦を、あわよくばその隙に乗じてエドワンを抹殺しようと企んでいたこと――岩をも動かす濁流が如く語られた。
「今回も、人間とは会食だけをする筈だった。それをこうして中立地帯まで軍を引っ張ってきたのは、第一王子が謀ったから……だとしても、だとしてもこの子は、エドワンは兄や王が争わぬようにと真っ直ぐに役目を――」
「……そうか」
ジオは黙って語られた言葉を聞いた。幼少の頃より偉大なる父の顔を知らず、竜人種の勇者となるべく奔走していたエドワンは、まるでどこぞのネギの勇者だ。道理で、敵対したくない訳だと納得をすれば、目を腫らした老人に背を向けた。
「んで、あいつらは悪い方の王子の配下だな」
「その通りだが……おい待て、どうする気だ!」
ネギの勇者、その背面の鎧がせり上がって少年の頭を呑み込んだ。緑の冑に包まれた人間が首をロンへと向ける。
「ぶっ飛ばしていいのか、確認がしたかった。多分、今の俺は手加減をしないから」
「ぉ――」
思わず言葉を老竜人は呑み込んだ。振り返った者は、吊り上げられた瞳から涙のような緑色光を零す化け物であった――泣いているような怒っているような、およそ人らしからぬ姿には圧倒されてしまう。
先兵となる蜥蜴人は、百から数を用意した。更には戦闘に長けた竜人と竜がそれぞれ四――如何に溶岩竜に勝った緑色鬼といえども、無事では済まないだろう。老人は止めるために言葉を出そうとしたが、緑の化け物が睨む先、その光景を見ては迷いに迷った。
「あいつ一人に背負わせる訳にはいかんだろ」
「……そうか、アレもエドワン様との結びつきは強かったな」
老人は忘れていた。百を越える軍勢が未だに辿りついていないことは、冷静に考えれば不自然極まりない。この違和感も、白銀騎士が倒れたことにばかり気を取られて気づかずにいた。
謝罪の意味を込めて、一体で奮戦する赤い竜へ視線を馳せた。纏わりつく蜥蜴人を振り払いつつも、その身に生える矢の数は増えていく一方だ。
「じゃぁ爺さんは、トトリへ急げ。ジオの名を出せば、検問も躱せる筈だ」
低い声で、緑の化け物は唸る。右の拳を固めたそれは、身を屈めて今にも撃ち放たれんばかりに震えていた。
「ま、待たれよっ」
「……今になって同族の命が惜しくなったか? 何であれ、止めてくれるなよ。俺は割と機嫌が悪い」
煮え滾る想いを堪えるのは、いい加減に限界が近い。ジオは敵に向けるべき緑色の眼をロンに照準づける。赤い竜を死なせたくない彼は、場合よってはこの老竜人をトトリまで殴り飛ばしてやろうかとすら思っていた。
「違う、違うぞ――上から何かが来る!」
「何っ?」
必死の形相で竜人は言葉を紡いだ。
隣人である蜥蜴人や同胞である竜人が屠られること、それには憐憫を抱かないでもない。だが、この老人にとってはエドワンの命の方が優先される――上空から降り立つ緑色光を放つものを見れば、何よりも愛しい子を守るためだけに意識の全ては割かれた。
「わっはっはー」
「シャロ、お前は何でこんなところにいる?」
空から降って来た薄い藍色の髪をした少女へ、緑色鬼が不機嫌そうに問いかけた。ロンとしては、殺気断つ人間種の勇者がか弱きものを殴り殺してしまうのではないかと心配もした。しかし、それは場違いであるとすぐにわかる。
腰元まで伸ばされたごく薄い藍色の髪は、日光を受けて緑色に映る。柔らかな頬は成人前の少女のものであるが、紅い瞳は人外の魔力を備えている証――宙に浮かぶこの娘は、竜人でも御し切れない存在であると知れた。
「ルファイドに呼ばれたからさ。それよりも、ジオ……お前、そのままの姿でトカゲの群れに突っ込む気か?」
突然現れた精霊は、全身を緑色の金属で固めた少年をキツく睨む。その姿は愛らしい少女には似つかわしいものではなく、ロンは黙って事の成り行きを見守った。
こうしている間にもエディンには矢が突き立てられている。事態が改善されないことに焦れた緑色の化け物は、大儀そうに返答してみせた。
「当たり前だ。俺は、一騎打ちを邪魔した奴らが気に喰わない、ふざけてやがる。今から蜥蜴人を、竜を、竜人をこの手で――痛っ!?」
「何と……」
思わずロンは目を見開いた。進化の加護を得たエディンすら殴り倒した化け物が、小さな少女に頭頂部をどやしつけられている、その光景は何とも衝撃的なものであった。
「こんのバカチン!」
頬を上気させてシャロが怒鳴る。鎧に身を包む勇者を殴るなど大それたものであるが、そこにあったのは不出来な弟を叱る姉の姿であった。
「お前な、根絶やしが望みか? なら、今から私が地面をひっくり返してさっくりと鏖殺してきてやる。酷い眼をしているから、一度鏡を見てみろ、その上で人を護る勇者を名乗れるんなら、堂々と名乗ってみやがれ!」
「……お、ぉぉ」
体勢は殴られた時のまま、呻くジオからは頭を覆う金属が解かれた。汗に塗れた額が外気を浴びて、幾分か頭も冷える。
尤も、目尻に涙を溜める姉の姿を見ては、怒りよりも申し訳なさが勝るのだが。
「お前、焦り過ぎだ。よくよく考えろ、このドラゴンプリンスは、お前のネギを食べたんだろ? 兆候が出てるじゃないか」
「あ――」
「ジオは本当にバカだなぁ、お姉ちゃんはやっぱり心配だ」
眉をヘの字にしたシャロが溜め息交じりに語る。真ん丸に目を見開くジオ少年は、何かを思い出したらしかった。
「あの、一体何を忘れていたのですかな?」
置いてけぼりをくらっていた老竜人は、恐る恐るといった様子で語りかける。取り合えず緑色鬼が竜人種を根絶やしにしようとする事態は避けられた、そのように理解するが、疑問は次から次へとやってくる。それより何より、エドワンがどうなるのかが案じられる。
「おじいちゃん、安心しなっせ。そこのプリンスは死なないよ」
「すまん、爺さん。俺が信奉する神はちっと特殊でな、精霊を勇者に付けてしまうくらいには力があるんだ――ああ、こいつはポンコツだけど、精霊なんだよ」
「はぁ……」
生返事をロンは溢した。一体それが何だというのだろうか。「お姉ちゃんはポンコツじゃないぞっ」などとシャロが抗議の声を上げていたが、それには構わずジオは続ける。
「闘神の加護は余りに強いから、受け取れるのは勇者である俺だけ……の筈なんだがな。どうやらネギの勇者を信じてくれる人には、程度はかなり落ちるが闘神の加護が得られるんだよ。オッサ――俺の従者がそうなんだが、即死級の外傷でなければ、まぁ何とかなる」
こんな胡散臭い勇者、信じる者が少ないから俺も忘れてたわ。苦笑いを浮かべながら、少年は説明をしていた。
「つまり、若は助かる!?」
思わず矛の刺さったままのエドワンを抱く腕に力が篭る。既に涙は枯れる程に流されたが、哀しみとは異なるものが頬を濡らした。
「押さえておくがよかろうぞ」
「は、はいっ」
精霊の言葉に従順過ぎる程の返事をする間に、王子の命を蝕む武器は小さな手によって引き抜かれた。勢いで血が噴き出すも、柔らかな緑色光に包まれて傷口は塞がっていった。白銀の鎧の下には綺麗な肌が見える。
「癒しの魔法はかけたが、傷を塞いだだけだ。血は失われているし、目を覚ましたら旨いものでも食べさせてやることだな」
感謝をと溢す老竜人には目も暮れず、シャロは語った。既にそちらへの興味は失われている。
視線は難しい顔をして腕を組むジオに向けられていた。人間の勇者の癖に、他の種族に気をかけるこの少年の優しさは嫌いではない。だが黄金剣士の一件を例にとっても、他人を気にして危機に陥るのはとても褒められたものではない。
「さてジオ、ドラゴンプリンスは一命を取り留めたぞ。お前、これでも皆殺しがしたいか? さっきも言ったが、それが望みだと言うなら私がやってやる」
いつになく真面目な顔をして、精霊は諭す。
「改めて問おう――お前は一体何者だ? グリオに憧れるだけの力自慢か、魔物から人間を護る勇者か、それとも、感情に振り回される緑色の鬼か?」
「……わからん」
それまで黙っていたジオであるが、視線はシャロから切られていた。エドワンが卑怯にも背後から刺されたことに、我を忘れた。だが、この竜騎士が既に峠を越えた今となっては、その相棒を死なせる訳にはいかないと思えてならない――傲慢さを自覚した上で、彼は姉の紅い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺は、人々を護る勇者でありたい。勇者としてきちんとやれているかは、やはりわからない。人間の勇者であるのに、今もあの赤いやつを助けたくて仕方ないんだ……それでも、俺は、親父が人生の全てを賭してやり遂げた、ネギの勇者でありたい」
拳を再度固め、ジオは前を向く。到頭赤い竜が地に伏せた。緑色鬼と呼ばれる姿を解いた彼は、この場を人間側の勇者としてどう納めるかで頭を回す。
「良き哉。邪魔するヤツらは全員、そのままの姿で殴り倒してこい!」
シャロはある程度納得のいった様子で、若き勇者に声をかける。長い髪を揺らしながら、今にも飛び出い気持ちを抑えてみせる。エドワンは傷が治っても、体内には癖のある魔力が残存していた。もうしばしは、精霊の手による癒しが必要だ。
「何だ、手伝ってくれないのか? ああいや、シャロに竜人を根絶やしにしてもらいたい訳ではなくてな……断っておくが、俺も今更皆殺しなんてやるつもりはないぞ?」
もごもごと口を動かしている内に、少年の身体は緑色の柔らかな光に包み込まれる。魔力が尽きていることには変わりないが、肉体的な疲労は消え去っていた。姉は視線を竜騎士に向けたままで、癒しの魔法を唱えている最中――とっとと一人で行って来いということだ。
「あー、わかった。取り敢えず、竜人の兄ちゃんのことは頼んだぞ? 俺は四の五の言わずに、争いを納めてくるから……それでよろしいか?」
「うむ、満足。とっとと行って、アっちゃんにジオが竜よりも強いところを見せつけてやるんだ!」
オーケイと短く答えて、ジオは蜥蜴人の群れへと駆け出した。
(ところで、アっちゃんて誰だ?)
そんな疑問も残ったが、白銀の竜騎士が生きているのであればそれでいい。事態を収拾すべく、ネギの勇者は右の拳を振り被り、慌ただしい戦場へと繰り出した。
「カンナ、こんなところで油を売っておったのか?」
黒い眼鏡をかけたメイド――ティアが本日のシェフへ呼びかけていた。
台詞は非難めいているが、その声音は柔らかいものだった。彼女が押すサービスワゴンにはサラダを盛りつけた皿が乗せられている。もう厨房では一段落が済んでいることは、この状況から理解出来た。
「なんじゃ、何か悪いもんでも食べたのか?」
「あー、いや……」
思わず口ごもるシェフ。下から心配気に見上げてくる少女に対して、どう言葉を返そうかと困惑していた。
可愛らしい――彼女の胸中を率直に表現すれば、こうだ。
ティアを見てそう感じていたが、これを口にするとなると“元の魔女らしい表情”に戻ってしまうのではないかと、躊躇される。許されるなら、もう少しこの愛らしい少女を眺めていたいものだ。
食材は予定外だわ、料理人は揃わないわ、いざ蓋を開けたらメインの肉が一癖も二癖もあるものだわ……散々なトラブルのなかで闘い抜いた指揮官は疲れていた。ついでに軽薄な料理人が隙を見つけてはちょっかいを出してくることにも、頭を悩まされていた。
先程もシャロが急にいなくなったものだから、料理の説明も兼ねてカンナが会食の場へと肉料理を運んでいた。貴族王族が居並ぶなか、さらさらと口上を垂れて帰る、そんな作戦を立ててもいたが、二人の王から質問や謝辞が続いていたので逃げるに逃げられなかった。披露を通り越して、最早憔悴に近い。
「おい、聴いとるのか?」
片眉を下げながら、メイドは繰り返す。様子のおかしさに気づいてはいたが、料理を運ぶ役目のあった彼女は、シェフの衝動的な行動への反応を遅らせてしまった。
「ティ、ティアさん、ちょっとお願いっす!」
ティアの目の前が暗くなった。顔の辺りに柔らかい何かが押しつけられてのものだ。感触としては悪くないが、顔を覆われているので呼吸がしづらい。加えて、眼鏡が押されるので少々痛い。
「あー、癒されるっす……」
あはー、と弛緩し切った表情をカンナは浮かべていた。元から子ども好きな彼女だ。さして歳の変わらない相手を子ども扱いしてはいけないとよくわかっていたが、メイド姿のティアは愛らしくて堪らない――正直、ただの料理人の目には、魔女の格好は変に映っていた。
もう、殴るなら殴ってくれてもいい。緊張状態が続きに続いた女料理人は、もうどうにでもなれ、と癒しを求めに求めた。幼女のような姿をしているが、胸はメイド服に押さえられていても十分なサイズが見られ、同性であっても抱き心地がいい。
そこそこに時間が経過したが、しばらく経っても殴られることはない。可愛いメイドをたっぷりと堪能出来た。
「……もういいか? そろそろサラダを運ばんとな」
「あ、はいっす。ありがとっす」
正直怒鳴られるだろうと覚悟をしていただけに、彼女の台詞にはやや拍子抜けしてしまった。呆然としている間に、ティアは「よっこいしょ」と腕を押し上げてカートを押して進み出す。
「カンナは昨日からよぅ頑張っておるからな、特別じゃぞ。私は女に抱き締められて喜ぶ趣味はないんじゃからな? いや、誰彼構わずではないってことだ」
むすっとした表情は浮かべるものの、やはり声の調子は悪くない。それ以上は何を言うでもなく、メイドは廊下を曲がって姿が見えなくなった。
(案外、話のわかる人っすよね……私の方が年上なんすけど)
恐るべし、魔女。声に出すと、流石に怒られそうであったので、カンナは心の中だけで呟いた。
「さって、戻ろうか――どっちに?」
急に現実に戻って来た感を覚えた。
現在、彼女は十字路に立っている。城はどこを見ても、同じようにしか見えない――緊張状態で料理を運んでいたため、どこから歩いて来たかをすっかりと失念しているではないか。
「あっははー、シェフが迷子で戻れないとか、笑えないっすねぇ」
首筋に寒気を覚え、思わず身震いをした。こんな時こそ、冷静に考えねばならないことはよくわかっている。
「サラダが運ばれて行ったし、チーズはもう用意出来てる筈。後はコーヒーを出すくらいっすかね。ドルチェは……師匠任せでいいかなぁ」
食卓の雰囲気から察するに、調理の上でこれ以上の工夫は必要ないと思われる。肉料理も歓迎されていた。
思い返せば「ネギで肉の臭みを取るんだ!」とシャロに言われた時には、どうしたものかと唸ったものだ。手足の長い男の扱う巷で評判の胡散臭い薬、そんな前情報がなければネギを信じることも出来なかっただろう。
「もう、料理で出来ることは、全部やったっすね」
会食の結果がどうなるかはわからない。だが、和やかに語り合う王様を見ていると、何となく安心があった。今回話がまとまらずとも、次回に持ち越せるのだと。
政治には疎いカンナであるが、両国の王が打ち解け合ったように感じていた。家庭料理の延長線上のようなコースであったが、味は絶賛され、実際に笑顔で迎え入れられた――やはり、料理人として出来ることは、もう全てやり尽くしたと確信する。
「で、どうやって戻るっすかね」
うーん、と悩んでみせる。彼女自身にはやり切った感があったが、初めてシェフを任された現場にいられないというのも、締まりがないものだ。
「お邪魔するっす」
ガチャリ、と手近な扉を開く。やや手狭な空間に机と椅子、壁には絵画が掛けられているが、静かなものだ。密会するなら、丁度良いものに思える。
迷った彼女は、結局手当り次第に扉を開ける作戦を立てた。中に人が居たら、謝って厨房の位置を教えてもらおう、そういう魂胆であった。実に行き当たりばったりだったが、本人の中では立派な作戦であった。
「国の秘密とか知ってしまったら、どうなるんすかねー」
知らないところに、まして城の中に一人という状況は、王の前に出た時とはまた異なる緊張をもたらしていた。心細さがあったため、独り言などを呟きながら次の扉へ。先程の部屋とよく似た間取りの小さな部屋だった。
「武器庫とかに入ったら、流石に怒られ……この火薬に火をつけてやろうか! と脅したら逃げれるっすかねー」
そんなことにはなりませんように、と呟きながらカンナは進む。最悪の場合、外へ飛び出して炎を出せば、誰かが見つけてくれるかもしれない――新たな作戦を思いつくも、人の気配が感じられたため、次なる扉に手をかけた。
「あの、すみませんっす――」
やっと厨房に戻れると安心していた彼女は、ノックはしたものの、返事を待たずして扉を開けていた。当然、中に居た人たちと目が合ってしまう。
一人は鎧を着た大男だった。金髪をオールバックにしており、眉が薄いことも手伝って何とも険しい表情に映る。確か、竜人の王子がこんな背格好だとカンナは聞かされていた。
もう一人は恐らく人間だ。背丈は低く、性別は不明。アイリス教の黒騎士の標準的な装束を纏っている。料理人が違和感を覚えたとすれば、黒い頭巾を被ったその上から白い鳥の仮面をつけていることか――ともかく、何とも奇妙な印象を受ける。
「道を、間違えてしまったんすねぇ……」
あはは、と乾いた笑いを浮かべながら、カンナはゆっくり後退し始めた。
奇妙と言えば、この二人の取り合わせだ。会食中である竜人の王子とアイリス教の黒騎士が、人目を憚るようにして椅子と机しかない小さな部屋で話をしていた。少しばかり前に彼女が何となく思った“密会に丁度良い部屋”で二人は話し合っている。厨房の位置など、とても尋ねられたものではない。
(本当に、余計なところに首を突っ込んじゃったっすよ!)
こうしている間にも、大男の瞳は一層険しさを増していく。逃げねば――考えるよりも早く、カンナは扉を押して廊下へ飛び出した。
どんな危機的状況であっても、青い炎は使うべきではない。その信条に間違いはないが、咄嗟の判断としては愚かであった。廊下に出た途端に口元を塞がれることになる。
「――――っ!?」
声が出ない。
廊下に備えつけられた鏡を見れば、背の高い黒ずくめの人物が彼女を拘束する姿が映っている。鏡の奥の方では、仮面の黒騎士が緩慢に肩を竦めていた。この顔まで隠された人物は、今まで姿を見せなかった第三者だ。
(こいつ、どこから?)
カンナの疑問に応えられる者はいない。黒ずくめは人であるのかも疑わしい程、身じろぎもしない。残った二人の人物は何やら話し合っている。
「こんな小娘、殺してしまっても構わないだろう――何? 炎の加護、エギレア神の信奉者だと……一向に構わん。神がくだらぬ制約などを用いるから、竜人は闘えぬ腑抜けになったのだ」
男が一人で話しているようにも見えるが、仮面の方が小声でカンナの位置からは聞き取れないだけだ。ただ竜人の第一王子は声が大きく、危機が迫っていることを教えてくれていた。
大柄な竜人が腰の物を抜きながら、カンナへゆったりと歩み寄る。戦闘狂ではあるが、闘わない者をいたぶる趣味のないアレクセントは、無表情のまま口を開いた。
「おい、カーラ――どうして拘束を解いた?」
女料理人が地面にへたり込んでいる。密談の相手を見るが、無言で指を差すのみ。その先にはメイド服を着た幼女が立っていた。
(面倒だが……目撃者が増えたところで、根こそぎ刈り取ればいい)
これから父殺しの果てに戦争を企てる野心家は、胸元から小さなナイフを取り出し、そのままメイドへ投げ放った。
真っ直ぐに、ただし矢よりも速く幼女の心臓目がけて飛び出し――空中で静止した。
「……面倒だ、面倒だぞ」
無表情を崩し、竜人は煩わしさを露わにした。ゆったりと近づいてくるメイドは、彼を恐れる姿は見せない。取り上げた眼鏡をぞんざいに投げ捨てると、そこには紫の色があった。瞳は随分と不機嫌であることを示しており、煩わしい想いはアレクセントの抱いたものに勝るとも劣らない。
「お前、今日は災難ばっかりじゃな。まぁ、炎の加護を無暗に使わなかったことは、私から褒めてしんぜよう。早うこっちへ来い」
「あ、あ、ティアさん――」
四つん這いのまま、魔女の元を目指す料理人、その頭の上を何かが通過して行く。向きを逆転させた投げナイフであるが、紫の光を携え速度は竜人が投げた時のものを上回る。
視線をティアへと戻せば、袖捲りをした部分から白い光が見て取れた。頬や額にも同様に浮かぶそれらは文字らしいが、生憎とカンナには読むことが出来なかった。
「加護ではなく魔法か。カーラ、お前は手を出すな」
魔法使いは希少な存在だ。過去に一人殺めたことはあるが、なかなかに血沸く戦闘であったことを、戦闘狂の竜人は思い出す。肌に鱗を額に角を、口元には笑みを生じさせて、男は駆けた。
(面倒に違いはないが、面白くもある)
直立の魔女がどれ程の力を持った者か、興味は尽きない。すぐに鎮圧出来れば力の証明に、時間がかかれば兵も集まるが、その時はこの女を王族に狼藉を働いた下郎として見せしめに出来る。力ある者が無残に散りゆく姿は、彼に悦楽を与える。
「やれやれ、私の力はエルを助ける為にあると言うに……」
カンナを背後へやりながら、ティアは紫の瞳を一層輝かせる――魔女たる由縁“災いの神”に与えられし加護を解き放つ準備は万端であった。




