肉でも魚でも持ってこい 1
暗がりの中を歩いている。吹き抜ける風の音へ、恐怖を覚えた。
背の高い木々に囲まれたここは、多分森だ。多分とついたのは何故か? 額の先に痺れるような感覚があり、視界は白黒――三つ編みを触る自分の手は見えているのに、触れていることには実感がない。
(夢、か……)
何となく言葉を出したが、これも霧のように散ってしまった。夢だとわかるが、これが何であるかはよくわからない。そもそもレティア育ちの自分が、こんなところへに行くことがあっただろうか。
どうせ夢なのだ。まだまだ惰眠を貪りたいのだから、考えることはやめよう――――
カンナは呆けるままに、森を歩いた。
歩くにつれ、風以外にも実に多様な音に包まれていることへと気づく。踏まれた草、肌に当たった葉、虫の羽音に動物の唸り声。果ては魔物の息遣いすらも含まれていたが、彼女には理解が出来ていなかった。
それもその筈、触れていた三つ編みは現在に比べて短く、背丈はずっと低い。夢の中で、彼女は小さな子どもに戻っていた。
(なんすかね、この感じ)
片方の靴をなくしたカンナは、不規則なリズムで進む。目的地など、幼い彼女には検討もつかない。ただ、町に居たままでは到底手に入らないものを求めて、歩き続けた。
恐怖を覚えたが、止まる訳にはいかない。何が彼女を突き動かしたか、そんなものは当人にもわからなかった。だが、子どもの足でよくぞこの森まで来たものだ――見る者が見たならば、そう称えただろう。
「……珍しイ」
しかしかけられた言葉は、このようなものだった。褒めたと言えば、褒めたか。態々、魔物が棲む森へ幼子が足を踏み入れてくれたとあれば、声を発した生き物は、この人間の子どもを歓迎する。
(なんすか、これ)
振り返った少女は、その大きなものへ首を傾げる。カンナは大人になるまでは魔物を見たことがなく、小さな姿ではこの魔物も周囲の木と区別もつかなかった。子どもから見れば、トロールはそれ程にも大きな存在だった。
「おぉ、神ヨ」
痩せてはいるが、この人間の子どもは逃げ出す気配もない。魔物は、自身が信奉する神へと感謝した。大きな勇者ギルドを擁するレティア、その町が目と鼻の先とあっては、魔物に安心などはない。今も命からがら逃げ切ったところ、身体はボロボロであった。
(これ……私、知ってる)
どうせ夢だと、考えることすら放棄した。体を握り締められ、眼前には大口を開けたトロール。傷ついた体を癒すため、栄養の補給を行おうとするのは当然と言えば当然。
恐怖を感じていた風が、いつの間にか止まっている。そう、知っている。夢だ夢だと思っていたが、どうやら随分昔の記憶らしいと思い至る。料理に没頭するために蓋をした記憶が再生されていた。
何も考えずとも、この場面が近づいたことで魔物の不快な匂いが蘇った。頭で忘れていても、身体はそのことを覚えている。
(魔物の唸り声って独特っすね)
この手負いの魔物が出していた呼吸音、それが風の正体だったか。それでも、カンナは不揃いの牙が頭に迫る様を、他人事のように見送っていた。
(この後、どうなったんすかね?)
幼き頃の自分、その行く末を案じ始めた時、再び大きな風音が鳴り響く。白黒に見えていた世界は、その全てが黒に塗り潰された。
「――はっ」
身を起こし、カンナは首を左右に振って辺りを見回す。強い風が吹いたような、厭な音が聞こえた気がしのだ。背中を伝う汗から受けた感触に身震いする。
「どうした、姉ちゃん?」
「何でもないっす……どうやら、悪い夢でも見ていたようっすね」
勢いよく跳ねたからか、同じベッドに潜り込んできていたキリカが起きてしまった。カーテンの隙間から覗く空はまだ暗い、少女を早朝に起こしたことへの申し訳なさが勝つ。
「あたしは、もう少し寝るぞ」
「え、ああ――キリカちゃ……もう寝てる」
力尽きるように頭から倒れたかと思えば、すぐ様すやすやと寝息すら聞こえ始めていた。カンナ自身、寝つきは悪い部類ではない。だが、寝ると宣言して瞬時に眠れるのは、一種の才能ではないかとも思う。
「昨日は、はしゃいでたっすからねぇ」
昨夜の晩餐の様子を思い出し、カンナは呟く。
大きな屋敷であったが、ヴァリスナードの他には二人の使用人しか見られなかった。ジュラスという女騎士がいたものの、少々寂しい――などと思う暇もなかった。
料理が出揃う前から酒に手をつけた屋敷の主は、一層機嫌よく語り始める。最初は遠慮がちだったこの料理人も、ジオやティアと話している内に気づけば酒を口にしていた。
途中、モータリアが上機嫌に話しかけてきたような気はするが、普段以上に飲んだおかげで、まるきり記憶がない。
(んー……やっぱ、お酒は怖いっす)
胃にムカつきはあるが、頭痛はない。手間暇をかけて作られた酒は悪酔いしないと聞かされていたが、今日この時までは深酒をするモータリアの妄言だと思っていた。
「ふふふ、苦しゅうないぞ」
すっかり寝入った少女は寝返りを打ちながら、こんな言葉を口にしていた。悪い飲み方にはなっていなかったが、ずっと酔っぱらいの相手をさせられていたキリカは大変だっただろうにと、労いたくもなる。
眠りにつくことが才能であれば、この少女の朗らかさは一体何か――町では親以外には懐かないことで有名だったが、懐かなかったのは彼女ではなく、レティアの人たちなのだとカンナは結論づけていた。
考えれば考える程に、勇者という人種は変わり者なのだと思う。まだ成人前にもかかわらずそれを目指すキリカ、真面目そうに見えて抜けているネギの勇者、どちらも一般の枠から外れた人種だが、愛すべき人たちだ。
「どんな夢を見てるんすかね?」
口元に笑みを浮かべるキリカへ、布団を掛け直す。ついでに赤髪を撫でつけたところで、厭な音が響いた。
「――っ!?」
ゴウと響いた風音に、思わず身は固くなった。あれは夢だと自分に言い聞かせるが、魔物独特の匂いが鼻をつく。
「あれは、あれは、夢っすよ……」
再び汗が流れる気がした。薄暗がりであっても視界には色がついているし、ここは森などではない。わかっている、わかっているが、生々しい感触は過去に体験したものであると自身が直感してしまっている。
再び大きな風音が鳴るが、キリカは相変わらずで起きる気配もない。ひょっとしたら、この音すらも己の錯覚なのではないかとすら思い始めた。
「自分は、ただの平民の筈なんすけどねぇ」
誰に向けているかもわからなかったが、つい口をついた。またしても響く音の正体、不可解な夢の正体を探るべく、カンナは白衣を掴んで外へ出ることにした。
ネギの勇者の朝は早い。勇者としての鍛練を欠かさない彼は、やはり早朝から動き出していた。
「ふん!」
掛け声とともに木の枝を掴む腕に力が込められば、ジオの顎が拳よりも高い位置へと移動する。上り切ったのも束の間、腕はまた伸ばし切られる。この動作をひたすら繰り返す――端的に言えば、懸垂だ。
まだ日差しも差し込む前であるが、既に汗が噴き出しており、上半身裸になったジオの背中を流れていく。シンボルである緑色の鎧の代わりに、足首には緑色の鉄球があった――重量は相当にあるらしく、ジオが腕を伸縮させる度に、枝はミシミシと音を立てていた。
「やっとるな、ネギ坊主」
「じっちゃん、朝早いんだな!」
応えながら、ジオは颯爽と地面へと降り立った。単調なトレーニングも嫌いではないが、鍛練は相手がいる方がより楽しい――少年勇者が闘いを望んだことに呼応し、緑色の鉄塊は契約者を呑み込んだ。その一瞬後には、いつもの全身鎧が出来上がる。
大抵の勇者は、神より授けられし剣をシンボルとする。だが、剣を扱うことの出来ないルファイド教の勇者は、この生長鎧と名付けられた逸品をシンボルとしていた。
「親父の鎧も、すっかり使いこなしとるな」
「いや、まだだ。こんな大雑把では、使える内に入らないと思う」
ヴァリスナードの笑顔とは対称的に、ジオは硬い表情を見せた。
生長鎧は、持ち主の意志に沿った形になると彼は聞かされている。だが、この少年勇者では鎧の形状を模ることで手一杯だ。オッサンに尋ねた――ゴブリンの異形種を倒した後――ところ、二代目ネギの勇者は鎧を時には盾に、時には刃へと変えたと。同じネギの勇者だといっても、父子の熟練度には天と地程の開きがある。
普段から纏っている鎧は、彼の父親が長年をかけて記憶、定着をさせた形だ。最早、変形する鎧という概念として存在している。緑色鬼と恐れられるあの形態は、そこにジオがアレンジを加えたに過ぎない。生長鎧の真価は、持ち主の意志に呼応すること――その結果が化け物じみた形態では、己の未熟さばかりに目が入ってしまう。
「父親を追いかけ過ぎんでも、いいと思うぞ? いつも言うておるが――」
「俺は俺、だろ? 親父に成りたい訳じゃない、親父のような勇者に成りたいんだ……だが壊すしか能ない俺は、この俺の内面は、緑色鬼が如き醜いものなんじゃないか」
父は多くの魔を斬ったという、それに比べ己はどうか? これまで打ち砕いてきた魔物の感触が思い出され、握った拳を少年はまじまじと見つめる。
(真に、あやつにそっくりだな)
悩む若者に、かつての親友の姿が重なった。当時のヴァリスナードは若く、ネギの勇者の生真面目さを煩わしく思うこともあった。闘神の加護などという厄介な力を持てば、他人からは凡そかけ離れた存在となる――歳を重ねた今ならば、よくわかる。
大英雄と呼ばれる男は、少しばかり困った顔をしてみせたが、すぐにいつもの人好きする笑顔へと戻った。そもそも考え込むことが好きではない。表情を変える頃には、老人にしては大きな平手でネギの勇者を力強く張ってみせた。
パンと乾いた音が派手に響けば、その勢いたるや、ジオは前へとつんのめってしまう。
「痛っ!? 何だよじっちゃん、俺は今――」
抗議の言葉を出しかけた少年であったが、長柄の物が鼻先へと突き付けられたことで思わず黙る。いつでもヴァリスナードは唐突だ。悩む暇を与えてもらえないことは、幸せなことだろうとも、ジオは思う。
「今は、鍛錬だろ? さっさと構えやれ」
「元よりそのつもりだ。俺はもっともっと強くならねばならない」
黄金剣士へそうしたように、向けられた獲物を強く握る――しかし手は空を切り、掴んだ筈の物は頬を軽くなぞっていった。
「……硬いなぁ。もっと気楽に考えてもいいんだぞ?」
どんなに考えたところで、まだまだ儂には勝てないんだからな。不敵に笑うヴァリスナードは突き出した武器を引き、横方向へと薙ぎ払いにかかった。
大きな風音を立てて、金属片がジオへと迫る。目のいい少年は、それが穂先を潰した槍であるとわかっていた。突き刺さることがないとはいえど、こんなスピードで迫るもの、まともに喰らう訳にはいかない。
(あんたに勝てる奴がいるなら、是非拝んでみたいわ!)
胸中で毒づくことがジオの精一杯であった。眼前の遊び相手は、先の大戦終結にかかわった大英雄だ。頭にある大きな傷、その下に据えられた瞳は鋭い。こんな眼孔を見せる人物が、ただの老人の訳はない――少年勇者には、油断する余裕も始めからなかった。
「ふっ」
息を吐きながら、横薙ぎに振るわれたものへ左手を合わせる。無手であるので、動きは大雑把であっても慎重さはなくさない。弾くだけなら、この後も繰り返しになってしまう。
槍を下方へ流すよう、極力衝撃を殺す。子どもの頃から、何度かこの英雄の動きを見ることが出来ていた。理想の英雄が父であるならば、手本とした英雄はヴァリスナードである――それこそ何度となく、この槍捌きはイメージしてきていた。
加えて、今のジオはレティアの英雄から力の使い方、そのヒントを得ていた。槍を大きく弾くようなことはしない。手の甲が振れた瞬間、そのまま手を返せば、相手の獲物は彼の手中に収まるという寸法だ。
「どうだ!」
嬉しさの余り、笑みを作って顔を上げた。加護による制限を受けるネギの勇者は、素手のまま人間を圧倒できるようにならねばならないと息巻く。
吟遊詩人に謳われることのない彼であるが、魔物や竜人の間では名が知られる程度には強さを持ち合わせている。この左手は、レティアの黄金剣士すら掻い潜ることも許しはしなかった。
「お見事」
にやりと、黒い鎧を纏った男は笑う。しかし、彼こそは数々に謳われてきた大英雄だ。バカ力で掴まれたことで、一瞬は動きを止められたことは確か。だが、「さてどうしてやろうか」などと少年が呟いている内に、今度はヴァリスナードが手首を返してみせた。
「お――」
ぐるりと視界が回り、ジオは自分でも自覚出来る程間抜けな声を上げていた。
「掴んだら、すぐ動く」
「……わかった!」
背中を強かに打ち付けた勇者であったが、出された声音は明るいものだった。キリカがこの場に居れば、年相応以上に少年らしい返事をする彼を見て驚いたことだろう。軽くいなされたことは悔しくもある。それでも己が越えるべき壁の高さ、その越え甲斐を再認すれば高揚の方が勝っていた。
「じっちゃん、もう一回!」
足を蹴上げた反動で、ジオは飛び起きる。嬉々とした表情を浮かべる少年は、単純に手合わせを楽しんでいた――先程の悩みとは何だったのか――ティア辺りが居れば、そう呟いていた筈だ。
「ネギ坊主、続きはまた今度だ」
「え? じっちゃん、コンテストまでは暇だって言ってたじゃないか」
そりゃないぜ、と溢すジオであったが、ヴァリスナードの指が示す方を見て、真面目腐った顔に戻ってしまう。寝間着姿の女性が所在なさ気に立っていた。
「お、お邪魔してしまって、すいませんっす」
「……ああ、カンナさんか」
再びいつもの気の抜けた表情をジオは浮かべる。失礼かとは思うが、癖のある言葉遣いを聞くまでは、不躾だがかなり永く見つめてしまっていた――寝間着姿に調理服を肩からかけ、三つ編みを解いた彼女は、まるで別人のように映っていた。
依頼人をさておき、鍛錬に現を抜かしているなどもっての他である。さて大英雄に何と返事をしようかと視線を戻すが、そこに彼の姿はなかった。
「女は待たすもんじゃないぞ」
既に背を向けていたヴァリスナードは、ひらひらと手を振りながら屋敷へと戻っていた。
ネギの勇者と対峙しても尚、周囲へ目を配る老人を何と称したものか。素直に驚嘆の念を送りたいジオ少年であったが、好色でも知られるヴァリスナードの物言いに、微妙にであるが引っかかりを覚えていた。




