スープに一味足りないぞ 4
この世界の営みは、魔法と加護によって成り立っている。ピンとこないかもしれないが、亜人、魔人、竜人……これらの種族は生活の中に上手く取り込んでいるものだ。
我々人間種からすれば、魔法と加護に区別がつかないかもしれない。いずれも神の奇跡に違いないが、そのあり方は全く異なっている――火を起こすということを例にとっても、違いがよくわかる。
魔法は、魔力を媒介して行われる奇跡だ。魔力を加工する技術ないしは知恵と、その現象を再現するに足る魔力があればそれでいい。しかし、人間種の魔力では瞬間的に“発火”させるところが精々。注ぎ込まれる魔力によって火の大小に違いはあれども、未来永劫燃え続けるような存在を生みだすとなれば、神の域と言えるだろう。
片や、加護は神から一方的に与えられる恩恵だ。火そのものが与えられていると言っていい。与えた者が拒否しない限り、火はずっと傍らにあり続ける。
アイリス教徒に見られるような異常耐性付加、或いはウィッツ信仰によって得られる身体強化が一般的なものだが、いずれも現象ではなく常時効果を発揮する概念であるのだから、驚きを通り越して恐ろしくすらある。
魔法は現象であり、魔力の量と質に依存して相応の奇跡を起こす。加護は魔法に比べると瞬発力や応用に乏しいが、神から与えられた存在、または概念であるので際限なく使用出来る――
「――というのが、私の知っておる魔法と加護の違いじゃな」
眼前に杖を掲げ、大仰なポーズを取りながら、ティアはドヤ顔で知識を披露していた。濃い藍色をした髪の下、覗く紫の瞳には何とも愉しそうな色が浮かんでいる。語る内容は小難しいものであっても、はしゃぐ姿はまるで子どもにしか見えない。
御者台にいるジオにとっては今更な話であったが、勇者に成り立てのキリカは瞳を輝かせ、何度も頷いた。
「尤も、強過ぎる加護には制約がついて回る。エルのように、剣に類する武器が使えないとかのぅ。万能なんてものは、ないと言ってよいかな」
レティアを離れて数刻が経ち、馬車は王都までの中間地点に達する。日が傾き始めた折り、日中の騒がしさと静けさが入れ替わろうとしているが、馬車の後部は賑やかなままであった。そろそろ野営の準備も視野に入れる頃合いだが、話は尽きない。
(キリカには丁度いい話だが……ティアのやつ、癖が悪化してないか?)
魔法使いという生き物は、神の奇跡や自身の研究成果を語りたがる――ティアもご多分には漏れず、勇者と魔法使いなどというパーティーが如何に贅沢な存在かも含めて、熱弁を振るっていた。
魔法適性はあれど、魔力が及ばない者が吟遊詩人になるという噂は、案外的を得ているのではないかとジオはぼんやりと思った。
ともあれ、ティアの話はルファイド信仰の強い故郷でも、大人が辟易としていた内容だけに心配が勝つ。おしゃべりが苦手な彼は黙って見守るしかないのだが――
「えっとー、つまり、どういうことっすか? 折角のお話なんすけど、私に関係はないような」
胸中で「それ見たことか」とネギの勇者は溢す。魔法や加護に興味を持つキリカは別として、料理人のカンナには現実味のない話ではないか。三つ編みと一緒に、彼女が首を傾げる姿が浮かんでしまう。
「関係は大ありじゃよ? ヌシが使っているのは火の加護なんじゃから」
「うん?」
益々首を傾けて、カンナは疑問を表現していた。よくわからないという表情をされては、ずっと熱の籠った調子で語り続けていた魔法使いも一段トーンを落として話さざるを得ない――出会ったことも何かの縁であれば、諭さずにはいられない。
「さっきも言ったとおり、加護は常時効果を及ぼすもの。任意で切り替えられるものもあるが、ヌシ――カンナの場合、火はどうなっているんかね?」
「……むむむ」
確かに己が持つこれは「火の加護」に違いがない。どうして言われても困るが、物心ついた頃には自在に火を操れるようになっていた――よくよく考えれば、途方もない存在と共に暮らしていたのか――今更ながら、そら恐ろしい想いをカンナは抱き始める。
「ティア、姉ちゃんが唸っているぞっ」
「あーこれこれ、そう怖い顔をするでないわ。加護は己の可能性を広げてくれるものとも言ったろうよ。神がその力を必要と思ったか、神に愛されてしまったか――いずれにせよ、悪いもんではない」
ところで敬意を持ってティアさんと呼べ、と藍色の髪の少女が赤髪の少女を睨んでいた。魔女の人柄がわかれば、睨んでいる姿も可愛いものに思えなくもない。唸ったところであるが、何とはなしに微笑ましい気持にもなる。
だが、この料理人にしてみれば、火の加護は彼女の存在とイコールと言ってもよいものだ。その核心に一足飛びで迫られたようでありつつ、ふわっとした気分でもあって落ち着かない――端的に言えば、よくわからない、である。
「……キリカちゃんは、わかるっすか?」
彼女から見れば、二人とも幼い少女だ。ちんぷんかんぷんな大人が自分だけとは思いたくない。素直に尋ねたところ、勇者を名乗るこの赤髪の少女は、薄いを胸張って堂々としてみせた。
(ここが、勇者としての腕の見せどころだぞ)
差し込む夕日に目を細めながら、ジオは弟子が何と答えるかを黙って待っていた。悩める者に如何様に応えるか、勇者は試されている。場合によっては、話が得意でなくとも出しゃばらないといけないかもしれない。
「わからん!」
「はぁ、そうっすか……」
ガクリと首を項垂れれば、カンナはそれこそどうすればいいかもわからなくなる。道中の険悪さを回避しようと、魔法や加護について、ちょっとした出来心で尋ねてしまったことがいけなかった。
魔女の本分と思って聞けば、さっきからこの調子で、何を言っているかもわからない。本当にそれこそ、どうしてこうなったという想いがカンナの胸から溢れつつもあった。
「魔法はわからんけど、加護は感じる……だろ? だって、神を信じて得た力なんだから、存在を疑問に思うこともないじゃないか」
肩に手を添えられ、出された言葉は非常に明快であった。カンナが顔を上げると、向かいに座る魔女は「そのとおり」としたり顔で頷いているし、語った少女の顔は何も疑わない真っ直ぐなものだった。
「ティアが言うように、一方的に与えられるものだけど、決して悪いものじゃない。加護は誰でも得られるが、どう使うかは人それぞれ――らしいぞ?」
「そうじゃな……火の加護は相当に珍しいもんで、騒ぎ立てる輩もおろうよ。だがな、大事なんは加護を恐れないということじゃ」
彼は誰の返答も期待していなかったが、その言葉に続けて魔女は神妙に語った。
「知らなかった。オマエただの偉そうなやつじゃなかったんだな」
勇者に成り立てのキリカとしては、関心の高い話ばかりだった。彼女にしてみれば、ティアは師匠へ図々しくも近づく幼女にしか見えていなかったのだから、驚きも一入だ。
「ふっ――私の賢さを本能的に悟るのは、まぁウィッツ信者らしい。じゃがな、私はヌシよりも年上じゃぞ。もっと崇め奉れ」
「嘘だろ? オマエ、ちんちくりんじゃないか」
(どうなることかと思ったが、何とかまとまったか……)
幼馴染みのお陰で話が拗れそうになったが、背中越しに感じる空気は軽くなったとジオは思う。実際、幼女二人が話す雰囲気に険はない。更には、カンナが「違いないっす」と呟いていることを耳にして胸を撫で下ろした。
声のよく通る少年は、大きめの独り言のように呟いた後で、キリカの言葉を自身も噛み締めていた。誰の返答も期待しなかったのは、己へ言い聞かせたかったからだ。
(当たり前の力だからこそ、その使い方を試されている。誤った使い方をすれば、俺も勇者としての力を喪う、か)
一個人には過ぎる力を、どうしてルファイド神は与えたのか。そもそも、勇者とは一体何なのか。
遥か昔より存在しているが、弱き人間種を護るために魔物を倒す“勇者然とした者”は、吟遊詩人が語る英雄譚でしか知ることが出来ない。時代が変わったと言えばそれまでだが。だからこそ、自分が父のように勇者らしい勇者を目指した――少年は再び自身のことを考える。
人を救う者が勇者ならば、闘うことだけが務めではない筈だ。加護の意味を知らない迷い子に教え諭すこともまた勇者のすべきことと、炎の料理人を前にして思う。
やはり力の使い方を知らないこと、己の在り方を疑うことは、悲劇に繋がる――ここのところ、気の抜けていたジオであったが、ここに至って少し考えの整理が出来たようでもあった。
(黄金剣士の一件で一番傷ついているのは、実は俺だったりするんだろうな……)
多くの制約を抱えながらも、人々を救うために魔と闘い続ける。それは素晴らしいことだと疑うことはなかった。にもかかわらず、黄金剣士は「何の見返りも得られない」と嘆いた。
ジオ自身は、見返りが欲しい訳ではない。ただ、人間には過ぎた力を持つ身としては、確信が欲しかった――トリルという青年に向かって告げた言葉に偽りはない。偽りがないだけに、勇者という存在については、幼き頃に思い描いたものを盲信していると言ってもいい。
勇者ギルドは牙なき民に剣を与えた。だが、ギルドがあるがために勇者が乱立もしている。結果、英雄譚に謳われる勇者らしい勇者など見たことはない。否、もっと簡単に言えば、勇者という存在が曖昧になっている。英雄譚とギルド、まさに理想と現実が混在している。
人を助けることを否定する勇者がいたこと、自分のためにしか力を使えないまでに追い込まれた勇者がいたこと、その者へ抱いた想いを、ジオは未だ上手く言葉で表せない。
無理にでも表現するなら“哀しい”であろうか。
理想は語れるが、ジオ自身も勇者の実態が何であるかはよくわかっていない。父の武勲を語る吟遊詩人などはおらず、聞かせてくれたのはオッサンやヴァリスナードといった当事者たちだ。どこまでが真実かもわからない。
それでも、幼き頃に憧れた英雄には違いない。ジオという少年が悩むとすれば、父が何を想っていたか。この一点に尽きる。
多くの人を救った父を誇らしく思うが、その結末がアレでは、割に合わないんじゃないか――まだ年若い彼は、父の死を納得出来ずにいる。アイリス信仰者であれば耐性のあった病に、父が倒れたことを知ったのは、勇者となってからだ。
それでも親父は納得していた、とジオは目を細くして遠くを睨み据える。
親父が勇者になったことは間違っていない。俺も親父のような勇者でありたいと思っている……だが、多くの人にとって勇者という存在は――――
「どうした?」
肩に触れるものがあり、ジオは思考を中断させた。
「別にぃ。こちらの輪に入れないままで、小難しそうな顔をしておったからの。うん、構ってやりに来たぞ」
感謝せい、そう告げたティアは隣に座る。ぴったりと身を寄せてくる割りに、帽子は目深に被って顔を見せない。
「オマエなぁ――」
いつものように、ぶっきらぼうに言葉を出すところであったが、ふと彼はそれを呑み込んだ――再会してからしばらく経った今。ようやく、彼女が自分の幼馴染みであったことに符号がいった。
偉大な勇者の息子として生まれたこの少年は、同年代に比べようがない程、度を越えた真面目に育った。ケンカはしてはならない、人には優しくせねばならない。まるで加護による制約のようでもあった。
まして、父親が傍にいなければ、子どもたちの間では格好の的にもなる。父が吟遊詩人が語ることもない勇者だったことは、残念ながらより一層に影響した――ホラ吹き、棄て子だと言われることも多かった。
そんな時は蹲って遠くを見ていたが、いつでも彼女がこうして傍に居てくれた。それは勇者になるまで続いていたことを、ジオは思い出していた。
「――いや、ありがとなティア」
「な、なんじゃ、急に真っ直ぐ見つめて礼なぞ……前を向け、前を!」
ぐぬぬ、などと唸りながらティアは帽子を一層深く被り直している。昔から見つめると怒られるのが常であったが、疑問でならない。お礼を言ってもそっけなくされたからか、ジオは多少のイラツキとともに、ついつい幼少の頃のような気分に戻ってしまう。
「オマエさ、昔から妙なところで恥ずかしがるけどよ。何か、余計に酷くなってないか?」
「うるさい! 覗くな、触ろうとするな」
手を伸ばしたところ、ぺしっ、とティアに叩かれてしまう。手甲の上からであるので、痛みはない。しかし、彼女から身を寄せて来ているのにこの仕打ちはないだろう。表情は変わらないが、少年のこめかみの血管が浮き上がる。
「思い出した。オマエ、結構勝手なヤツだったよな……俺も勝手にさせてもらうぞ」
「ちょ、やめ――」
是が非でも顔を見てやろうと躍起になれば、拍子抜けする程にあっさりと帽子が取り上げられた。
「ああ、なんだ……その、つい。俺、大人気なかったわ」
バッチリと瞳が合った。それと同時に何故かはわからないが、非常に申し訳ない気分に陥る。魔女のトレードマークである帽子を手渡すが、特に応答はなかった。
頬を赤くしていた少女の瞳はあちらこちらへ泳いでいる。それがジオの視線と交錯した途端、顔全体が赤くなり、次いで真っ青に変わる。瞳は一層忙しなく彷徨い続けた。
グリデルタも表情豊かな人物であったが、ティアのそれは気の毒な程落差が激しい変化だった。あわわわ、と狼狽する声が聞こえてきそうでもある。
「ごめん。謝罪ついでに思い出した。オマエ、人と目を合わせるの、本当にダメだったよな……そうだったよね?」
あまりの出来事に、馬車すら停めて謝ってしまうジオ。そう言えば、オッサンから一番最初に教えられたことは“人の嫌がることはしない”だったな、などと冷静に振り返っている――ティアを見つめたままであるが。
人間、追い詰められると大変よろしくない。いつまでも見つめられ続けたものだから、逃げ場のない少女は紫の瞳をぴたりと止め、幼馴染に向けて呟いた。
「――ったのに」
「ん? 何だって?」
小さな声であったので、ジオは聞き返す。更に近付こうとしてしまうのだが、これもやはり、よろしくない。果たして、ティアの頬に血の気が一気に戻った。
「やめてって言ったのに――って、言ってるでしょ!」
溶岩竜の如く、全身を赤く染めては感情を爆発させた。魔女が叫べば、理論も工程も全てをすっ飛ばし、問答無用で状況を覆す奇跡を起こす。魔法を手足のように扱えることが、魔法使いと呼ばれる所以だ。
「あ――」
音を発することが精一杯だ。彼女の頬に赤みとは別の色が刻まれていることを、勇者は見た。
白色の三角形のような紋様だが、それに気づいたところで既に遅い。外套の下にある肌にも文字が浮かび上がっているが、そのことを知る人物は彼女以外にはいなかった。瞳の紫が一層濃くなったことをジオが確認する頃には、魔法が成立している――言葉を発しきる前に、その動きは完全に封じられた。
(やばい、全部止まってるんじゃないか?)
いい加減瞳を逸らさねばとも思うところであったが、身体が言うことを聞いてくれない。かろうじて状況を考える頭だけは残っているものの、全部が全部動かないので息苦しい。と同時に、何処か懐かしい気分でもある。
(……そうだった。俺、よくティアの実験台にされてたわ)
丁度今のように「動きを止める魔法を思いついた」と言われれば、その度にジオは魔法に付き合ってあげていた――こう言えば聞こえがいいが、首をどっちに振っても強制的に魔法の標的にされるので、無駄な抵抗をしなかったというのが実情だ。
「おい、ちんちくりん! ジオに何するんだ!」
馬車が止まったこと、ついでにジオも止まったことを見据え、その弟子は御者台に跳び移っていた。赤い風を連れて現れた彼女を見て、魔女は感嘆の声を漏らす。
「エルが弟子を取るなどどういうことと思うたが、なかなか面白い娘じゃ。あーっと、このバカはお仕置きで動きを止めているだけじゃ。気にせずともよい」
帽子を被り直し、ティアは平然と語った。言葉どおり、お仕置きをしたと自覚している。ついカッとなってしまったが、絶妙な匙加減で死ぬことはない。絶妙過ぎて、本当に死なないかどうかは、本人にもよくわかっていなかったが。
「えぇい、いいから元に戻せ! 可哀想だろ?」
「そうは言うてもな。私の魔法は強いからのぅ……簡単には解けんぞ、童女」
ふっ、と鼻を鳴らしてティアは嗤った。魔法を解こうと思えば解けるが、使った魔力が勿体なく思えてしまう。魔力の運用に頭を悩ませる魔法使いという人種は、派手に見えても貧乏性な人物が多い。
「嘘つけ、ならこっちにも考えがあるぞっ」
不安定な足場で構えを取るキリカ。その姿を見れば、やはりティアはほくそ笑む。こんな状況でもなければ、早々に拝めるものでもなかったと、魔力の無駄遣いの言い訳もしてみせる――そう、ウィッツ神の加護を間近で拝めることは僥倖だ。
(俺はいつものことだが、キリカはやっぱり優しいな)
すっかり慣れっ子となったジオは、動きを封じられても動じることなく二人のやり取りを眺めていた。ティアならば自分以外に無茶はしないとわかる。何より、彼自身もキリカの修行の成果が見たかった。
「あたしが信奉するはウィッツ神。誓いの神が授ける獣化の力、身を以て知れ!」
どっせいや、と妙な掛け声とともに赤風の勇者は拳を高く振り上げる。腕の振りに呼応して赤い風が舞い上がれば、その身を変質させた。
「何とまぁ……」
現れた異形の者へ、ティアは驚きの声を上げた。ウィッツ神は獣を愛する神――その信奉者は神が特に愛する狼にその身を変える。
「どうだー!」
尖った牙を剥き出しに、少女は勝ち誇る。ゆらりと振れる尻尾、頭に生えた耳、いずれも赤い毛に覆われていた。
「何とまぁ……可愛い姿じゃな」
思わずティアは素直な感想を口にしてみせる。牙、爪、尾に耳と、獣に変貌したと言えばしているのだが、他の部分はキリカそのまま。狼というよりは仔犬のような出で立ちは、愛くるしさ全開であった。
「わ、おーん」
唸る獣の少女。拳は胸と顔、互いに違う高さで掲げられている。
(それ、猫のポーズだぞ、キリカ)
依然動きを止められたジオも、眼前でのやり取りに心の中でツッコミを入れた。
「行くぞ、邪悪な魔女! お前の悪行も、この二代目赤風の勇者が――――ん?」
ヒーロー色の強い英雄譚に感化でもされたか、巨悪を前にした英雄のような口振りを披露する。それも束の間、名乗りの途中でも台詞を途切らせた。視線は遥か前方へ、何かを感じとったか、耳や尻尾がピクリと立ち上がっていた。
「ちょ、ちょっと、これ何なんすか!」
「私としたことが。悪ふざけが過ぎたかのぅ」
今まで黙っていたカンナが、焦りとともに口を開く。それに対する言葉はゆったりとしたものであったが、ティアも追って事態に気づいた。馬車を止めてからここまでの短い間に、一行は何者かに囲まれていた。
「でっかい、トカゲっすか?」
視線をぐるりと回せば、鱗に覆われた生き物が七、八体は瞳に収められた。先の割れた舌を這わせるそれらは、彼女の言うもののようにも思える。だが、人間の大人を越える体躯を備えたそれらは、トカゲと呼ぶには大き過ぎた。
「蜥蜴人か。トカゲには違いないが、こいつらは案外狂暴じゃからなぁ」
魔女は立ち上がり、杖を翳す。レティアからトトリにかけて、蜥蜴人が現れるとは聞いたことがなかった。一体二体ならばいざ知らず、住処を離れて複数の個体が移動しているとなると、気をつけねばならない。
「蜥蜴人って、肉食じゃないか! あたしの力だと、どのくらいやれるかわからんぞ。早くジオにかけた魔法を解け!」
(肉食!?)
キリカの言葉を耳にした料理人は、身を固くした。この街道は時に魔物が出ることもあるとは知っている。だからこそ勇者と共に移動をしていた。勇者がいるならば何が出ても平気だろうと思っていたのだ。
だが、それはあくまでも知識によるものだ。実際に目の当たりにした、二足歩行のトカゲ人間は生理的な嫌悪感を彼女へと与えていた。震えるカンナは自身の身に炎を纏わせることを思いつく。
「よせ童女、下手に不安を煽るでないわ。カンナが不安になるじゃろうが」
「む――」
「ティアさん……」
握り締めた拳へ、ティアの小さな手が触れていた。咄嗟に加護をと思ったところであったが、ここで見境なく火を出していれば、馬車がどうなったものかわかったものではない――そのような計算があったかはともかく、小さな魔女が冷静であったことで、カンナは恐慌状態に陥り切らずに済んだ。
「考えてもみよ。蜥蜴人は群れを成すが、それにしては数が少ない」
何か意図や思惑があるものぞ、と紫の瞳をした魔女が言えば、他の二人も倣って周りを見回す。日が傾く折に、平地では人間大の存在を隠せるようなものもない。間もなく、蜥蜴人を先導する者の姿が見つかった。
「はっはー、思ったよりも冷静なお嬢ちゃんだ! ここで会ったが百年目というやつよ」
胡散臭い声と共に、現れた人物は蜥蜴人を押し退けながら一行の前に出る。体格はよいが、髭面でボロを纏った男であった。粗野な瞳は、因縁のあるティアへ向けて燃えている。
今朝方、レティアで流行る薬を追ってコーディーとティアの前へ出た人物である。その男の登場に、魔女も表情を変えていた。
「……ヌシ、人違いをしておらんか?」
見たことないぞ、と全く覚えのない表情を幼女は浮かべていた。
「テメェ、ふざけてんのか!」
男が口から飛沫を飛ばしながら叫ぶ。油断していたとは言え、動きを止め、果ては殺されかけたことを彼は忘れはしない。だが、当のティアは今も平然としていた。こうしている間も「ふざけてなどおらんのだがのぅ」と口にしていた。
「あ、あの、ティアさん!」
一人緊張に耐えられなかったカンナが叫ぶ。火の加護を持っていること以外、戦闘能力もない料理人である彼女だ。だが、この加護があることがポイントでもある。持たざる者にはわからない、否、彼女自身持たざる者に含まれるから人間種への脅威には敏感に反応してみせる。
「……こやつ、ただのロリコンではなかったか」
彼女の言葉に、ティアは魔女らしい表情をして眼前の男を見据えた。
同時に記憶が蘇る。男は言っていた「俺は小さな女の子が大好物」と――それはただの少女愛好者の言ではない。
黒い煙が身体から放たれれば、周囲の蜥蜴人が男へ平伏してもみせる。煙の中から現れたものは、蜥蜴人と変わらぬもの。だが、強い加護を受ける彼女らにはそれがより上位の存在であると理解していた。
「ティア、こいつ――」
「竜人種か……ちと面倒じゃな」
声もないカンナを置き去りに、二人の幼女は言葉を交わしていた。トカゲのような鱗に覆われた生き物、だが額より生える角がそれらとは一線を画すことを告げている。
「潜伏業務の間、つまらない町にいながらも、幼子を食うことを我慢していたんだ。そろそろ人をというところで、今朝方に俺を虚仮にしたガキと再会する――エギレア神は、見捨ててなどいなかった!」
仮初の姿に比べ、倍程も膨れ上がった竜人の男は、縦に伸びる瞳孔を大きく広げて少女たちを見据える。禁欲の末、解き放たれた欲望を今ここで満たせるとあれば、瞳は血走らせざるを得ない。
「ティアさん!」
忘れていた恐慌状態へと戻り、料理人の女性は悲鳴にも似た声を上げる。竜人などという生き物は、英雄譚の中でしか聞いたことがない。それも大抵は、人間の勇者を苦しめる存在として謳われている。
「大丈夫」
それは、どちらの言葉であったか。
「そう、大丈夫だ。俺の胃袋は、オマエラ仲良く収めてやれる」
鱗に覆われた男は、言葉に応えたものの、出されたその意味など介せずに少女らへと距離を詰める。人外のこの生き物の足は速く、ものの一駆けで馬車へと肉薄していた。
ひっ、と小さな言葉をカンナが溢す。位置的には、先頭に立つティアまたはキリカが異業種の毒牙にかかる。一瞬先を予測して、瞳をきつく瞑った。
「いただきま――――」
言葉の途中でガバリと口を開く竜人は、これ以上言葉を成す余裕がなかった。
「うん、大丈夫だな」
キリカの声が、瞳を瞑ったままのカンナへと届く。開きたくもなかったが、このように自分よりも幼い少女が言うとなれば、見ずにはいられない。
蜥蜴人はともかくとして、竜人種は雑食だ。それが好んで人間の、しかも女児を食うことを好むとなれば、人間種を護る者は何を棄ててもその力を働かせる。
「……え」
この言葉こそ、誰のものであったか。恐らくは、カンナと竜人種、双方のものであった。
「ティアも人が悪い。とうに魔法を解いていたんじゃないか」
「いや? 私の魔法は強力だと言ったろ。解いたとすれば、単純にあいつの力が強かった。それだけじゃな」
赤髪の方の問いに、藍色の髪をした方が答える。敵対する竜人を前に、このようなやり取りは間延びしているに相違ない。だが、鋭い牙を備えたその口腔内に、緑の手甲が食い込んでいるとなれば、話は別だ。
「オマエ、この子を、ティアを食うと言ったか?」
先程まで身に受けていた呪縛を置き去りにして、ネギの勇者は何者よりも速く拳を突き立てていた。
「――――っ」
口に拳を突き入れられた竜人の男は、声を出すこともままならない。うーうーと喚くに留まったが、異物が間もなく引き抜かれると、それは形になった。
「貴様、緑色鬼っ」
驚きに目を開く、鱗と角を生やした生き物。が、与えられた猶予は短く、この言葉を漏らすだけで貴重な時間は消費されてしまった。讃えるのであれば、それは口を損傷しても言葉を形に出来た頑強さに贈られる。
「――っ!?」
大きく振りかぶられた緑の右腕が、音もなくその腹に突き立てば、何事かを漏らしていた竜人が吹き飛ぶ。その様を、蜥蜴人が視線で追いかけるが、随分と長く瞳は追い続けることとなった。
「あの……ネギの勇者って、何なんすか?」
一連の動きを、カンナは唖然とした表情で見ていた。出た言葉がこんなものになることも無理はない。勇者という存在は子どもでも知っている。それについては、神から与えられた宝剣を以って闘う存在であった筈だ――素手で人間よりも大きな生き物を殴り飛ばす、こんなものの存在は聞かされていない。
「ネギの勇者。それは、強き者だ!」
犬耳を生やしたままの姿で、キリカが自分のことのように誇る。
「強き者、か。むしろ優しき者の方が良いのだが……今は問うまいて」
魔女は笑う。ニヤリとしたものではなく、嬉しそうに笑った。
「ティア、ずるいぞ?」
赤髪の少女が言うことは、尤もだ。皆が皆、竜人を前に危ういところであった。そこへ拳を振るった勇者が口にしたのは、ティアという少女が食われてしまうことへの憤怒であった。弟子は口を尖らせて幼さの残る魔女へと不満を溢す。
「そう言うてくれるな。これも、幼馴染の特権よ」
脅威が去った瞬間、勇者が賭け寄った先は非力な依頼人の元であった。それでも、ティアは満足のいったような顔で頷いていた。




