チャンピオンは、目指さない。
人間を優に超える巨体をした獣が落ちる。元より人間離れした身体能力を示すトリルは、地面に落ちたところで大したダメージもない。
だが、濃紺色の瞳を見開いて、金色の獣は驚愕した様を表していた――何せ、落下した先には闘神の加護を得た拳が待っている。緑色の光に吸い込まれるように、硬い拳が背中に突き立つことを覚えれば、このような表情になろうものだ。
「――――っ!?」
衝撃に背を反り返らせ、ヤマイヌの化け物は咆哮を上げる。いつの間にか手甲が備えられていたジオの一撃は、胸に打ち込まれた時のものとは比較にもならない。
トリルの声は耳に障るものであったが、赤毛の少女も吟遊詩人の青年も、それには構わずに視線を注いだ。ここレティアでは誰もが認める勇者である黄金剣士、それが民に猛威を振るうなど誰が想像したであろうか。闘技場のチャンピオンである彼の者を止めらることが出来る人物など、それこそ想像することも難しい。
それでも勇者同士の闘いを見守る二人の人物は、緑の鎧を纏ったあの少年ならばと期待する。ネギの勇者などという出処もよくわからぬ少年であったが、その力は折り紙つきだ。
「どっせいやぁ!」
炸裂した拳を更に突き上げ、勇者である少年が叫ぶ。同時、放たれた魔力が衝撃を伴って獣をぞんざいに吹き飛ばした。高く舞い上がった金色の化け物は、天井付近にまで到達した後に、地面へと向かって一直線に落下する。さしもの黄金剣士も、この高度から身を叩きつけられては二度目の呻き声を堪えることも出来なかった。
「これは凄い! 既に闘技場の体すらなしていないこの状況、だが、いや、だからこそわたーしは口を閉じてなどいられない。ネギの勇者が黄金剣士を再び地面へと沈めたーーっ!」
会場内で意識のあるものはほぼ皆無。それでもリバーハインドは魔導器を通して声を張らざるを得なかった。常識外の闘いが目の前で繰り広げられれば、吟遊詩人として黙っていることなど出来ない。
「ジオーっ、そこだーっ!」
実況を耳にした赤髪の少女は、後押しするために声援を送る。自分がこんなに大声を出すことがあるとは、キリカは思いもしなかった。まして、それが勇者という存在に向けてなのだから不思議である。胸の奥に沸いたこの感情が何であるかも知れないが、少女はひたすらにジオという変わり者の勇者に向けて叫んだ。
「……アンタさ、それだけの力があるのに、どうして人を護ることをしない? それにその魔法、誰から学んだ?」
周囲とは対照的に、ジオは冷ややかに言葉を漏らした。アイリス神もウィッツ神も、精神操作の魔法を授けることはない。
大の字で倒れた獣は、呼吸もままならない状態だ。しばらく身動きが取れないことを悟れば、自由になる口元を動かすしかない。
「私……ハ、勇者、ダ。勇者トハ、力、ヲ示ス存在ダ」
人を護ることが使命などではない。呼吸がままならずとも、この獣は咆えた。
勇者とは持てる力を行使する者だ。その力の矛先が大抵は魔物へ向けられる、その程度しか認めない。むしろ、人の為にと力を振るったことで彼の父親は身を磨り潰してしまった――力は思うがままに使うべきである。誰かを護ることで、何が得られるというのか――トリルは、勇者であった父親からかくあるべしと叩き込まれている。
半端にでも抵抗が出来ることは悲劇、それは彼が自身へとかけてやりたかった言葉なのではないか。
「ダカラ、私ハ負ケテハ、ナラナイ!」
「アンタ、バカかっ!」
再び魔力の波を感じ取った緑の勇者は、それに対抗すべく内にある全ての魔力を動員してみせた。
獣は身体が動かずとも、体内に根づく魔力は文句も言わずに働き続ける。白い煙が吐き出されるのもこれで二度目だ。精神操作により、正気を奪う――その程度では済まさない。黄金剣士は、会場全ての人間へ魔法という名の牙を伸ばしてジオに迫る。
今度の魔法は目くらましのためではない。既に意識を落としている人間へ向けられたそれは、進行速度に重きが置かれている。濃度は薄いが、駆けるよりも早く舞台を突き抜けて観客席にまで押し寄せる。気を失っている今ならば、止めとなり得る。
人を護る者が勇者であると言うならば、護ってみせろ。言葉にもならないが、相対する少年勇者へは喉元に刃を押しあてたつもりでいた。
黄金剣士の意図を理解したジオは、黒い瞳から一段光を消してぐるりと周囲を見た。売られた喧嘩、などではない。人を護るべき勇者が人の命を盾に取る、それは三代目ネギの勇者を名乗る彼には到底理解の出来ない行動であった。
「こ、これは、またしても白い煙が舞台を、会場全体を包むかの如く広がっていく!」
何度驚けばいいのか。勇者という存在の異常さに目を見開きながら、吟遊詩人は語る。それでも、心配というものはなかった。彼の位置からは、緑の勇者が行動を起こす様が見えていたからだ。
「見渡す限りに感覚接続っ!」
広範囲魔法は、何も黄金剣士のみに与えられたものではない。ジオは視界に収めた人、それら全てに淡い光を届けた――その奇跡は術者の感覚・特性を強制的に共有せしめる。煙よりもやや早く、光は人々へもたらされていた。
「ぉ、ぉぉっ……何ともない」
まとった光をまじまじと見ながら、キリカが口を開く。それは不思議な感覚であった。先程は煙を受ければ気怠さがあった。それが今では気怠さ以上に、強い意志を覚える。ジオの抵抗力すらそっくりそのまま共有させられているが、同時に獣へ向けた想いに、小さな胸が締め付けられた。
「――――っ!」
客席の様子は意に介さず、獣は咆える。人質に取れなくとも、立ち上がるための時間は稼ぎ切った。目の前の勇者が魔力を空にしていると目星がつけば、そこに勝機を見出せる。
無手ではあったが、身を起こして次の手を準備すればよい。
「……受け取れ」
「貴様、何ノ真似ダ?」
つま先に金色斬馬剣がぶつかり、黄金剣士は唸った。武器を取り溢したのはこれで二度目だ、それでも蹴ってこちらに寄越すとは何事か。眼前の勇者には限りなく見くびられている、そのようにも思うが、彼が見せる瞳が示しているものが何であるかは全く理解出来ない。
「勇者だから偉いのではない、人を救うから偉いのだ――とは、俺の親父の言葉だ」
小さな声で、ジオは父が語ったらしきものを伝える。獣の姿となった勇者に何を言いたいか、それは本人もよくわかっていない。それでも、口にすべきだと直感が告げている。
「アンタが描いた勇者像がどんなものかは、正直わからない。だが俺にとっての勇者像ってのは、そんなもんだ。俺自身、親父の受け売りだけで勇者をやっているんだから、偉そうなことは言えない。それでもアンタが間違ってるってことは、言わなきゃならん」
「ソレガ剣ヲ渡スコトト、ドンナ関係ガアル?」
語る勇者と問う勇者。お互いの境遇は知りようもなければ、理解も出来ない。だが二人とも自身が描く勇者像に間違いがないと認識していることは共通していた。
「言い訳の一つも残らない程、全力で否定してやる。だから、アンタは全力でかかってこい……それが、勇者を継いだ俺の、三代目ネギの勇者として出来ることだ」
父から継いだものは、決して力ではない――独学でここまできた少年の瞳に宿るものは怒りではなかった。この獣すらも救ってみせねば、自ら勇者を名乗ることもおこがましく思える。
「何ヲ、青臭イコトヲ。ソレデ負ケタラ、貴様ハドウスル?」
「どうする? 子どもの頃、強烈に、どうしようもなく憧れたものが追えなくなったとしたら、考えるまでもなく終わりだろ。勇者になった時から、俺は死ぬまで走り続けると決めているんだ。青臭くて結構、何故なら――」
俺は、ネギの勇者だ。
青臭くて何が悪いと、少年は真っ直ぐに相手を見据えた。剣を構えたことで、黄金剣士が完成する――どこが身の丈に合わない剣だ、加護を発揮したトリルはバカでかい剣をただのロングソード程度に扱っている。
(ちょっと格好つけすぎたか? 金ピカ斬馬剣は、獣化とセットの力だな)
一撃の威力は自身の方が上、そう見積もってみるも、ジオとトリルではリーチが圧倒的に違う。今更真正面から蹴り込んだところで、あの巨体を一撃で沈め切るイメージはわかなかった。全力で否定すると決めたのだから、圧倒してやらねばならない。
「オ喋リハ、モウイイカ? 剣ヲ持タセタコトヲ、後悔シロ」
斬馬剣を両手で握るトリル。片足に重心を預け、残る足は持ち上げられている。一点に剣を打ち込むためのフォームは、さながら他国で流行する球技のそれである――この足が下ろされた時が、決着の時だ。人間の比ではない重量が、剣に乗ってスウィングされる、インパクト時の威力は絶大――本来は投げ込まれる球を打ち返すために特化した構えである。その的が人間大とあれば、外すことなどない。
対するジオは、ヘジワースの屋敷とはまた違った想いを持って拳を握る。オッサンが期待したものは、人を護る勇者としての力であって、人を殺す力ではない。静かに拳を固めると、魔力とは異なる力が込められ、鎧がカタカタと震える。
「ところでアンタさ、グリオって名前、知っているか?」
「緑色鬼カ、狩ッタ魔物ガ、ソノ名ヲ口ニシテイタナ。魔物ガ怯エル程ノ存在ラシイガ」
「あー……やっぱり?」
定番となった問いを、ジオはここでも投げかけた。父の栄誉を確認するためのものであったが、今ここで語ったことは別の意味を持つ。
「来い、緑色鬼の名の由来、教えてやるよ」
鎧が震える度合いで力を込めた拳を引き、ジオは相手へかかってこいと言ってのける。挑発と呼べるものかも疑わしいが、トリルは言葉に従って浮いた足を踏み込む。
「問答の末、勇者同士の争いも、これで決着か!」
実況の声が響くなか、金色斬馬剣が横薙ぎに振るわれた。お互いに手を伸ばせば触れ合える距離にあるなかでも、全体重のかけられた剣の方が速く、後ろに飛びのいたところで、長大な剣は獲物を逃さない。
「死ネィっ!」
この距離での負けはない。自身の勝利を確信した獣は喜びにも似た感情を口元に浮かべて咆えた。
「死なねぇ、よ!」
右手は引き絞ったまま、ジオも叫ぶ――蠢動するのは反対側の手甲も同様。幾多の魔が振るった猛威を退けた左を相手のシンボルへと打ち付けた。金属同士がぶつかり、派手な音が会場を貫く。
「激突! 金色斬馬剣が緑の手甲に突き立った、ネギの勇者の身体が沈む!?」
リバーハインドの実況は正確だ。衝撃からか、ジオの足が地面に食い込んでいたことを見逃しはしない。そのことで劣勢と判断した彼は、吟遊詩人として多くの英雄譚を見聞きしていることがよくわかる。だが、彼にも知らない英雄はいる。
「貴様っ!」
「なんと……」
全力で剣を打ち込んだ筈のトリルは、ただ眼前の出来事に戸惑った。遅れてリバーハインドも言葉を漏らす。幾つもある英雄譚の中でも、こんなものは知らない――当然だ。ルファイド神の奇跡は精霊の手により、永らく秘匿されてきている。
「鬼だ……鬼が、いる」
客席に居たキリカは、ネギの勇者を狙った大剣があらぬ方向へと滑っていく様を見ていた。だが、剣の行方よりも変貌した少年の姿に、思わず声を上げていた。ラフィーネを抱く腕に、知らずの内に力が込められる。
舞台の外、砂地に立つ緑の異形は、地面に足を沈めている。だがそれは、黄金剣士の一撃によるものではない。緑の鉄靴から突き出た鎖のようなものが、地面に根を下ろしているからである。姿勢が固定された他に、変化があった――守りに使われていた左手甲も肥大化し、丸みを帯びた盾のような姿へと変わっていた。
「何ダ、ソレハ? 否――何ダ、貴様ハ?」
剣が滑り、完全に体勢を崩した金色の獣が疑問を吐く。相対した少年勇者は既に魔力を使い果たしている筈だ、魔力もなしに何らかの効果を発揮する鎧など見たことも聞いたこともない。
まして、緑のものは彼の顔にまで侵蝕してきており、少年の見た目は明らかに変貌していた。鼻先の尖ったフォルムは、鋼の獣にも見える。人外と言って差し支えない姿であったが、何よりも緑の光を放つ瞳が恐ろしい。
口のない獣であるのに、目と思しきところにひび割れた鋭い穴が空いている。その眦は縦に割れており、滾滾と湧く緑色光が涙のように流れ出る。それでいて、尖った瞳は向かう相手へ限りない憤怒を感じ取らせる。
「俺は剣が使えない。だが、この鎧が、ルファイド神より借り受けたシンボルが、ネギの勇者にはある!」
言葉とともに緑の獣は足を運び、呆然とする相手の膝を踏みつけた。体格差のある相手であったが、これで目線は同じくする。続き、引き絞られた腕に緑の光を纏わせる。
幾重にも節くれ立った異形の右手を、ネギの勇者は間もなく放った――その軌道に迷いはなく、金色の獣は守りへ意識を向ける暇もなしに口腔内へ招き込んでいた。
「――――っ!?」
赤い飛沫を上げながら、黄金剣士は咆哮した。強烈な一撃であったが、それでも倒れることなどしない。自分は負けてはならないのだ。相手の姿に面食らったが、この程度では強靭なこの肉体は崩れない。
恐ろしい鬼が出たものと思ったが、いつの間にやら姿はただの少年のものへと戻っている。無防備なその頭は、素手でも十分にカチ割ることが出来――――
「終わりだ。アンタの加護を断ち切った」
相性が悪かったな、そう溢すジオの右手にはネギが握られている。
「ど、どうしたことかっ! 黄金剣士、拳を振り上げたまま動けない――否、動いた」
吟遊詩人には、さぞ不思議な光景に映った筈だ。追撃すれば勝てるであろうトリルが、目元口元から血を吹いて膝元から崩れていくのだ。獣としての姿を保てなく――否、獣化の加護を断ち切られた黄金剣士は人の身へと戻り、地面へと沈んだ。
「オッサンやシャロにきつく禁じられていたよ。“犬にネギを食わせるな”ってな……俺の受けた加護は強すぎて、血液どころか体内の魔力までも無茶苦茶にしちまうらしい」
人間には回復効果が得られるネギも、犬や猫のような生き物には致命的な毒性を持つ。犬猫に好かれても、手持ちの食べ物が与えられないジオは、随分とこの加護を厄介だと思っていた。
「私は、負け、負け……」
人へ戻ったトリルにはその毒性も及ばない。実況が勝利を告げているが、この男の耳には聞こえていない様子でうわ言を繰り返している。ネギの勇者として、黄金剣士を全力で否定する、その仕上げにジオは努めて酷薄に口を開いた。
「アンタの、負けだ」
「――っ!?」
力の篭らない手で、トリルという青年は地面を引っ掻く。見開かれた瞳は様々な感情に塗れ、揺れている。
「貴様、これで勝ったと思うなよ? 黄金剣士を倒したんだ、王都から危険人物扱いされるんだ! 何が人を護るだ、結局護るべき人間からは何の見返りも得られんじゃないか。人に追われて人生を過ごすなんて、何なんだよ……私も、親父も――」
「知らねぇよ。俺は人を護る、その結果で敵を作ったとしても、そんなものは未来の俺が何とかするさ。ここで逃げたらな、過去の俺、偉大な勇者に憧れた、幼き頃の俺自身に見下げ果てられちまう。そっちの方が、俺はよっぽど怖いさ」
「……ぐ、ぐぅ――ぁ、あぁぁっ」
音こそしなかったが、黄金剣士の心につかえていた何かがポキリと折れた。
顔を伏せ、周囲へ憚かることもせずにトリルは嗚咽を漏らす。彼の行いはともかくとして、誰もこの男の苦悩に答える人物がいなかったと知ると、ジオはやるせない想いに駆られた。シャロに非難されるとわかっても、憎み切ることが出来そうにない。
(俺には親父がいない。だが、オッサンやシャロがいてくれた。だが、こいつは……)
泣きながら“母さん”と呟く青年を見て、少年勇者の腹は決まった。やはりネギの勇者は、人を護らねばならない。
「立て。それで、罪を償え――じゃないや。えっと、その、なんだ……」
肩には優しく手を置いたものの、告げようとした言葉の冒頭は突き放したものになってしまった。自分は本当に、闘う以外に能がない。今更ながら、もう少し早く、人々と人間らしいやり取りをしておくべきだったとジオは思う。
オッサンならば、何と言うだろうか。父ではなく、人との間で生きてきた男の優しさを思い浮かべ、勇者は再び口を開いた。
「償っても尚、アンタがその力で悪行を積むってのなら、そん時は俺が殴りに行ってやるよ……人を護ることに力を注ぎ切る、そんな勇者が存在することを、ネギを見る度思い出してくれ」
上手く話せたかは、少年にはよくわからない。だが、青年の肩の震えが小さくなったこと、実況席や観客席から拍手が届けられたことで、悪くはなかったかと思うことにした。
大小異なる剣が振るわれる。大きく湾曲した二刀は、斬ることに特化しており連撃をもって迫る。木から削り出されたそれは、殺傷するための造りではないが、当たりどころによっては当然人を死に至らしめる。
舞台の光源に照らされるなか、繰り広げられたこの闘いは開始から永らくコーディーの優勢で進められていた。
「よっ、と」
声に出すことで、勝機を自身で認める。剣を向けられた者は、口にしたものと同じく軽やかに飛び上がり、手足の長い男を通り越した。通った跡には、小さな赤い風が追いかける様が見られた。
「はい終わりー、あたしの勝ちだ」
トン、とがら空きの背中を赤髪の少女が叩く。衝撃こそ優しいものであったが、双剣の持ち主は武器を放って両手を上げて降参の意を示した。直後、歓声と拍手が巻き起こる。
「決着、決着です! 黄金剣士の事件から一月、闘技場の再開に相応しい一戦でした。華麗な連撃をいなしきったラザロの娘は流石、見事に勝利を収めています。吟遊詩人のわたーしとしては、彼女に二つ名を与えたいところですね」
拳を掲げて観衆に応えるキリカであったが、実況の言葉に少々不服を覚える。この間にギルドへ登録を済ませた彼女は、既に勇者としての名前を決めているのだ――ネギの勇者と名乗ろうとして却下されたことは、もう記憶の彼方であるが。
「ようく聴けー、あたしは二代目“赤風の勇者”だー! 父に代わり、誰にでも挑み、誰からの挑戦でも受ける!」
より高く拳を掲げた少女へと、一層の歓声が起こった。余り敗者を晒すのは父の流儀に悖るので、足早に退場せしめる。通路を辿り、裏手へ戻ろうかというところで、客席にいる緑の鎧を着た少年と目が合えば、思わず笑みを浮かべた。
「あー……緊張したぁ」
舞台を後に、人目が付かなくなったところで、キリカはふへぇ、と息を吐く。父が倒れ、ネギの勇者が決闘を繰り広げてから、しばしの時が経つ。
黄金剣士の投獄の後、黒い騎士たちが王都から現れていた。ヘジワースが裏で行っていたことが明るみにだされても、貧民街で噂を聞いていたキリカにすれば「あ、やっぱり?」程度のものであった。不可解に思うことがあるとすれば、トリルが“首を撥ねた”と証言したものの、その遺体が見つからなかったことであろうか。
「やるじゃないか、赤風の勇者」
「おぉジオ、見てたか? 名乗ってしまったぞ、あたしが赤風の勇者だってさ、だってさー!」
事務所へと通じる扉、その前にネギの勇者がいる。それを視界に収めた少女はボサボサの赤髪を振って駆け寄る。
彼女にとって嬉しいことが幾つかあった。その一つは、目の前にいる緑の鎧を来た少年の存在だ。
「ピーちゃんはどうした、まだ帰らんか?」
「もう少しだな、オッサンの傷は大分よくなったらしいし。その内、戻って来るだろ」
硬い鎧に抱きついて、少女は笑みを向けた。旅から旅へ流れるネギの勇者であったが、仲間の傷が癒えるまではカナン亭に留まることがわかった。優しい勇者としばらくの間一緒に居られること、それは少女にとって嬉しいことだ。
他にも嬉しいことはある。ルファイド神の加護こそ得られないが、この一月ジオに張り付いたおかげで、キリカは父と同じく信奉するウィッツ神の加護を相当に扱えるようになっていた。闘技場のデビューで勝利を収めたこと、目標が達成できたので、今度はネギの勇者が魔物討伐に連れていくという約束を果たしてくれる筈だ。
「キリカ、俺なんかよりも早く報告すべき相手がいるだろ?」
「そうだった! ジオ、約束は忘れるなよ、あたしを冒険に連れていくんだぞ?」
前も見ずに、少女は走る。苦笑いを浮かべるジオはきちんと約束は守るだろうが、それがいつになるのか気になって仕方がない。本当は問い詰めてやりたいところだ。しかし今日はもっと優先されることがあった。
階段を上り、事務所で待つ人物の元へと急ぐ。上り切れば、屋内であっても地下より明るく目が少し眩んだ。そのことには構わず、キリカは目一杯に地面を蹴って飛び込んだ。
見えずとも、飛び出してしまえばいい。ウィッツ神の信奉者は誓いを破らない――彼女を護ると誓った男は、必ず抱き留めてくれる。
「パパーーっ!」
「お、とっ。何だ、随分とご機嫌じゃないか」
「嬉しい、うれしいよ」
杖を放り出して、ラザロは愛娘を受け止める。語ることは苦手な彼であるが、キリカがこれ程にも嬉しそうな顔をしているのであれば、付き合おうというものだ。
嬉しいことがあった。
ヘジワースが見つからなかったことから、その周辺で起こった事件の全てを、黄金剣士が自ら被ったのだ。それが良いことかどうかなど、キリカにはわからない。だが、父が一緒に居てくれることが、何よりも嬉しくて堪らない。
「だって、パパが帰ってきたんだもの」
「……」
娘の笑顔に、ラザロはどのように応えるか、少しばかり迷った。
もう以前のように闘うことは出来ない。罪には問われないが、これまで犯した咎が消える訳ではないし、その罪悪感は誰にも語ることは出来ない。だが、ネギの勇者が生きて己に出来ることで償えと言った。
ならば自分に出来ることは、このキリカを立派な勇者へと育て上げることしかない――否、自分には娘が残されている。黙考の末、いつものようにラザロはキリカを肩に担ぎ上げた。
「ただいま、キリカ」
娘の元へと戻ることの出来た彼は、拳のみに従う奴隷ではない。
最早、チャンピオンは目指さない。
次回、傷ついた仲間は、まだ戻って来ない。
代わりの者を寄越したぞ、とシャロから連絡が入るが、この人物の癖がまた強い。
丁度その頃、王都に出る用事を持つ人物が、ネギの勇者に依頼をかける。
王都で行われる料理コンテストに出るため、護衛を頼む――豊かな食事に目がないジオは、初めての直接依頼を受けたこともあって、心躍る。
第三話「ネギと炎の料理人」に続く。




