無名の勇者がやってきた 6
レティアは町周辺の人たちから“丸い箱”などとも呼ばれている。
中心部にはギルドや闘技場などの公共施設が詰め込まれているが、放射状に延びた通りにそって宿や商業施設が並ぶ形が見られた。中心から離れる程に不便さが増すこともあり、円形に建物が配置される形へ自然となっている。
先の大戦時、王都へと人や物資を繋ぐ城砦都市として機能させるため、ぐるりと壁に囲まれていたその中に目一杯のものが詰め込まれたことが、丸い箱と呼ばれる由縁であった。
住居は湿度を考えて石造りが多いが、一部を除けば窓ガラスのようなものはない。雨露を凌ぐことだけを念頭に設計されているものだから、気の利いた部屋割りなどというものも考えられない。「こんなものは家じゃねぇ、ただの箱だ」とは、誰も彼も一緒くたに詰め込まれた、当時の出稼ぎ傭兵たちの弁だ。
この箱からきちんとした家屋に移り住む、そんなことが大抵の人の夢や目標でもあった。大戦も終結して久しい今となっては、一攫千金などはそうそう起こるものでもなかったが。
今もレティアの人々が夢見る、立派な住宅とはどんなものか。
東の区域、王都方面に続く大通りから、一本外れた位置にあるものがそれに当たる。頑丈さだけが取り柄な不良住宅とはまるで異なり、敷地は広く取られて背も高い。使用人も暮らせるよう間仕切りされているだけでなく、ほとんどの部屋にはガラス窓が備えられている。この窓のおかげで、採光の他に個々の住居に異なる表情が見られるようでもある。財に余裕があらば、わざわざ王都からガラスを取り寄せるなんてトレンドも生まれている次第だ。
その高級住宅街において、ヘジワースは一際広い屋敷を所有していた。明るい屋内では豪奢な家具が目立ちようものだが、招かれた人物は滅多にお目にかかれないようなそれらに目もくれない。
「……申し訳、ございませんでした」
屋敷の主の前で、手足の長い男が何とか謝罪を絞り出していた。ソファーに足を投げ出し大儀そうにしている人物の前で、彼――コーディーは長い足を折りたたんで床に鎮座させられている。こんな言葉を出したところで、ヘジワースが怒りを納めるとは思えなかったが、この状況ではそうする他なかった。
今は言葉を選ぶ余裕もなかった。先程から怖くて仕方がない。ゴゥと音が響けば、窓に誂えられたガラスとともにコーディーの肩が震える。天候はまったくの晴れで、夕刻になり風も穏やかな筈だった。
「謝って何になる。投資した金が返ってくるのか?」
ドスの利いた声でヘジワースは問うた。不摂生丸出しの膨らんだ身体つきからは、過去にギルドで腕を鳴らした猛者だと見抜くことは難しいだろう。実際、咎められる身であるコーディーだが、彼にはさして恐れを抱いてはいない。
「他に出来ることがございません。俺なんかに、高価な武器を与えてくださっていたというのに……」
ただし、外から聞こえてくるあの轟音は恐ろしくて堪らない。気もそぞろに男はもごもごと口を動かした。あれから逃れられるのであれば、頭なぞ幾らでも下げようというものだ。
「何か、勘違いしているようだな」
「勘違い、ですか?」
思わず細い目を瞬かせながら、コーディーは尋ね返す。てっきり投資とは、ギルドで折られた剣のことを指しているとばかりに思い込んでいた。それが違うとなれば、彼は見当を見失ってしまう。
「ヒッ――」
再び聞こえた轟音に、自分でも驚く程情けない声を挙げていた。
「わかるか? あれは今、随分と不機嫌なようだ。レティアに現れるや否や、闘技場のチャンピオンとなった……その矢先に不憫だろう。なぁ、そう思わんか、コーディー」
あれが立派な勇者になるのに、幾らかかったか知っているか? 窓の外、轟音を響かせる人物へ視線を向けて男は発した。
「あ、あぁ……」
見たくなどなかった。だが、ヘジワースの言葉を聞かされては見ずにはいられない。剣を振るう、それだけで屋敷を軋ませる生き物、あれこそがコーディーが尊敬と恐れを同時に抱く存在だ。否、今は恐れ担当が外にいると言ってよいか。
振られるは、馬を斬り落とすためにと造られた剣だ。尚恐ろしいのはそれを容易く振るっていることではない。余りに大きな身体のため、手に収められた大剣がロングソードと錯覚する程にしか見えない。まるで同じ人間種には思えない。それこそ、吟遊詩人の謳う英雄譚から抜け出したような存在がそこにいる。
「兄貴は、掴まれた剣がピクリとも動かなかったと、言っていた」
後から聞かされた話をここで繰り返す。トリルはとんでもない力を持った勇者だ。それを指だけで止める人物を相手にさせられたのかと考えれば、よくまぁ剣を折られただけで済んだものだとは思う。だが、そのことで黄金剣士を本気にさせてしまったのだから、何としたものか。あの素振りは己に向いている訳ではないと重々承知しているが、ネギの勇者には不平の一つでもぶつけねばやっていられない。
「戯れに剣を突き付けたら、虚仮にされたってな? 剣先を掴むだけで完全に動きを止めてしまうなんて、そら相手は化け物よ。運が悪かったのかもな……でもなぁ、そいつぁいけねぇ。ウチの倅がここまでの名声を得るまでには、掛かった金と時間なんて計算もしたかねぇ」
「旦那が言う損失ってのが、ようやくわかりました。わかりましたけど、それで俺にどうしろっておっしゃるんですか?」
トリルの怒りを納めるために斬られろ、まさかそんなことは言われはないだろうが、それに近い無理難題が吹っ掛けられるのではないか。そんな予感がしていた。ゴロツキをしていた頃から、彼の予感はよく当たる。
「倅が負けるとは思えないが、圧勝せねば失われた信用は取り戻せまいて。その辺の連中が何を言おうが構わんが、アイリス教の神父に睨まれでもしたら面倒だ。だからコーディー、お前ラザロんとこへ行ってこい」
こんな時のために落ち目の勇者を飼っているんだからな。そう呟く男の目つきは、幾分かギルド時代の姿を彷彿とさせるもので、コーディーは一度首を縦に振ってそれに応えた。
「ほう、これがレティアの闘技場ですか。立派なものですなー」
夕刻になり、西の空には赤色が差し込んでいる。赤く照らされながら、半裸の男は感心の台詞を溢しては目の前の建物を見上げていた。隣では緑の全身鎧を纏った少年がそれに倣って見上げているが、腕組みをして黙ったままであった。
(ようやくここまで辿り着いたのね)
愚痴も溜め息も堪え、ギルドの名物受付嬢は胸を撫で下ろしていた。
読み書きアバカスが出来るだけでは一癖も二癖もあるギルドの猛者たちの相手は出来ない。途中で口を挟むことはあったが、約束の時刻まで案内を務め上げる辺り、ラフィーネは優秀であった。途中、再び子どもや犬猫に囲まれる場面で泣きかけていたのだが、それこそ口にしていないので誰にも気づかれもしかなった。
ともあれ、折角間に合ったのに立ち止まっていては仕方ない。ギルドの運営、延いては町の安全を守る彼女は仕事の総仕上げに取り掛かる。
「さて、ここに来るまでに簡単な説明はしましたが、詳しくは係の者に尋ねてください。準備はいいですか? 恐らくは、実力のチェックが入ると思いますので」
裏で冷徹と揶揄される厳しい表情に戻り、彼女は一呼吸に告げる。黄金剣士に指名されたとしても、最低限の実力を見せねば舞台にすら上がることは出来ない。時期によって多少変わるが、その内容はゴブリンに勝てるかどうかだ。端的に言えば、魔物より強いかが試されている訳なのだが。
(今更、ジオさんがゴブリンに負けるとも思えないけど……)
チラリと横目で盗み見たところでは、立派な鎧こそ着ているが、単なる少年にしか思えない。黄金剣士の従者やラザロとのやり取りを見た今では、ただの少年ではないことはわかる。だが、相手が闘技場での現チャンピオンとあれば心配は尽きない。
「考え事ですかな」
「いえ、何も――」
ないと答えようとしたところで、言葉を呑んだ。否定したくとも、ラフィーネは自分が考え込んでいたのだと気づく。 半ば無意識に柔らかな金髪に触れながら、中年の男へ瞳を向けた。
「私の顔に、何かついていますかな?」
一目でわかる屈強な身体つき、体格からは想像もつかない優し気な笑みを、オッサンと呼ばれた男は浮かべている。
レティアのギルドで見てきた男たちはどこか殺伐としたものを含んでいるが、二人にはそれがない。始めこそ、勇者らしからぬと思いはしたが、二人して頭にバカがつくような真っ直ぐな人たちだと今ではわかっているつもりだ。
(何もないとは、言いたくないわね)
軽く瞳を閉じ、彼女は決意する。それが職務の範囲外であることもよくわかっているが、黙っていることが勇者に関わる者としての正解とは思えない。
「今からでも、その、魔法使いのお仲間を呼びませんか?」
「……勇者様に、加勢させるってことですか」
神妙な顔つきになったオッサンを見て、ラフィーネは頷く。
魔法剣などの武具の精製や魔法付加、または予め補助魔法での身体強化を頼めるのではないか。黄金剣の他、強力な加護を持つトリルと闘う前に準備はどれ程してもし過ぎることはないだろう。
「ふむぅ」
彼女の考えがわかったからこそ、中年の男は険しい顔になる。ジオがまだぼんやりとしていることを幸いと、控えめにラフィーネを手招きして呼び寄せた。
「言い難いのですが、シャロ様はそういった類の魔法が大の苦手でして……」
「ですが、ですが――」
「喩え、魔法が使えたとしても、我が主は断ることでしょう。正式に挑まれては、逃げられないんです。あの人は勇者ですから」
長年この町で働く彼女であれば、抜け道もわかるのかもしれない。しかしこれは既に、町中のケンカで片づけられる範囲ではなくなっている。単なるケンカであれば、ジオは迷うことなくトンズラしていた筈だ。従者としては、主の意は最大限に汲み取ってみせたい。
「ありがとうございます。主君を案じられるのは、やはり嬉しいものですな」
「それ、丁寧に見えて、二の句を告げさせないやつですよ」
これまで堪えていた溜め息を吐き、ラフィーネはこれ以上の提案を諦めることにした。
幾ら無謀だと言っても、聞きはしないだろう。男の意地やプライドなどというものは、これっぽっちも理解出来ないが、こんなに屈託のない笑顔を見せられては、もう続けられる言葉がなかった。
コツコツと、鉄靴が敷き詰められた石を打つ。ジオはその音を耳にしながら薄暗い通路を一人進んでいた。
「突進から、加護で姿勢を安定……いや、そうじゃないよな」
いよいよ実力チェックという頃合いになっても、心ここにあらずという様子で勇者は考え耽る。受付で簡単な説明を受けていたが、当の本人は上の空でまるで聞いていなかった。魔法や回復アイテムの類は禁じられていることはラフィーネから事前に聞かされていたため、説明の間もこの調子で考え込んでいた。
今、彼の頭の中では、赤毛の男がとった動きが繰り返し再生されている。目の前から急に消えたかと思えば、いつの間にやら転がされる――ハッキリいって完敗だった。
オッサンが語る父の武勲、その中には人間同士の争いを収めたというものがあった。ラザロとの力比べでヒントを掴みつつあると言っても、対人戦が苦手なことには変わりない。やはり己はまだまだ未熟なのだと思えば、胸の奥に何かが滾る。
「勇者様、あまりぼんやりしませぬように!」
「ん、明るくなったと思ったら……もう着いてたか」
客席からの声に、いつの間にか通路を出ていたと気づく。オッサンがこのような忠告をすることは珍しく、ネギの勇者は組んでいた腕を解いて眼前を見据えた。
幾らゴブリンが相手であっても、クラブを頭に叩きつけられてはダメージを受けてしまう。まして、今のジオは鎧を取り上げられてしまっているのだから、気を抜いていては黄金剣士との闘い以前に終わってしまう。
円形をした建物の中央、石で出来たリングがそこにあった。広さはゴブリンどころかドラゴンと組み合っても十分なものを備えている。舞台の周りは地面が剥き出しの状態で、ジオが立つ位置とリング、真反対側を結ぶように通路が舗装されている程度。
あちらから敵が出てくるのか、と目を凝らしてはみるが、相手側のエントランスも暗がりになっているからよくは見えない。
「鎧がないと、締まらんなぁ」
とぼとぼと舞台へ向けて歩きながら、少年はぼやく。気を引き締めようにも、こう焦らされると他に思考が持っていかれてしまうではないか。
ルール改定により、全身鎧が禁止となりました。そのように説明をされると、素直なジオは何の疑いもなくオッサンに緑の鎧を預けていた。重りがなくなったことはいいことかもしれないが、常日頃身に着けているものがないと落ち着かないものだ。所在なさを隠すためにズボンの紐を締め直す。
「本当に、気をつけてくださいね!」
「……勇者が守るべき人たちに心配されてちゃ、世話ないな」
頭を掻きそうになった手を握り締め、高く掲げて声にジオは応えた。剣も鎧もないが、自分は勇者なのだからと、拳と同様に気を引き締める。
“今回の闘技場は、どこかおかしい感じがします”ラフィーネの言葉を思い出していると、ようやく暗がりから魔物が姿を見せ始めていた。舞台周辺に備えつけられた灯りを金属が照り返し、ジオは片目を閉じながら相手を待った。
「ちょ、ちょっと何よあれ。汚いわよっ!」
現れた魔物に向けて、観客席から声が上がる。本来ならばこの力試しも興行にと、審判や客が入るのだが、今この場にはほかには人はいない。
彼女らの叫びは誰にも届くことはなかった。これは見世物ではないと、この状況が全てを物語っている。勇者に対峙しているものは身の丈はゴブリンの異業種ヘスよりも高く、人間種の倍程はあった。
「あんまり前に出ると、落ちますぞ?」
対照的にオッサンは冷静な様をしている。勇者よりも、金髪を振り乱して柵から身を乗り出すラフィーネの方が大変だと言わんばかりであった。
「――――っ!!」
魔物が咆えた。顔面までを覆う銀色の冑に篭り、声はくぐもったものとなっている。巨躯に纏われた全身鎧、盾や鎖つき鉄球まで全て銀色で揃えられている。肌も見えないフルプレートであるが、この生き物がゴブリンでないことは一目でわかる。
興奮状態にでもあるのか、魔物は獲物を振り回しながら舞台へと進み始めた。壁や地面のそこかしこへぶつかりながらも、鉄球は勢いを増して徐々に勇者へと迫る。
「オークにこれだけの装備を揃えるなんて、闘技場ってのは随分と潤ってるんだなぁ」
暴れ狂う魔物を前に、ジオはぼそりと感想を漏らす。貨幣価値をよく知りもしない彼であるが、流石にこれらの装備品が安くないことくらいはわかる。焦る外野には悪いが、ようやく頭がスッキリとしてきたところでもあった。
「どうして、ジオさんは笑ってるの?」
丸腰で魔物を相手にするこの状況に、気でも触れたのか。振り返ってみると、従者の男は平然としている。
「勇者様は、魔物討伐のプロフェッショナルですから。結末はこちらに戻ってご覧なさいな」
「そんな落ち着いていられる状況ですか!」
「そんな状況だからですよ。我らが勇者は護るべき人からの応援を糧としていますので」
「……わかりました」
にっこりと微笑まれれば、ギルドの受付嬢の立場ではこれ以上の言葉もない。勧められるままラフィーネは観客席の最前列へと戻る。どう考えても、あの化け物を相手に余裕などというものは出てこない筈だ。
「勇者様、美人のお姉さんも応援しておりますぞ! ほら、ラフィーネ殿も」
「が、がんばれーっ!」
急に水を向けられたものだから、何も考えず叫んでしまった。ここまでの大きな声は、普段彼女が出すことはない。慣れないことをした所為か、耳まで真っ赤になっている。
普段であれば決してしないことのオンパレードだ。本人も不思議に思うところであるが、彼らといると、こうすることの方が当然のように感じられてしまう。今や勝利のみを願う彼女は、大きな魔物に立ち向かう勇者の背中を見守っていた。
「オッサンめ。美人からの応援じゃなくても、俺は頑張るぞ?」
悪態を吐きながらも、勇者は口元が緩むことを止められない。
誰かに応援された時に湧き上がるこの力を、何と表現したらよいか。これまでであれば、魔物に向けた怒りを力に変えてきたジオであった。凄まじい力が湧いても、頭に血が上った状態では短絡的な攻撃しかできなかった。しかし今ならばイーシアでのような、頭を使った戦い方が取れるのではないか。
「――――っ!!」
「何でも出来そうな気がするが、あんまり考えてはいられないか……」
舞台にまで到達したオークが再び吠えれば、猶予も残り少ない。轟音と風を伴って、鉄球が魔物を中心に回り続けている。せめて手甲だけでもあれば、受け止められる自信があった。
(なら、受け止める以外のやり方だな)
想うが早いか、ジオは地面に利き腕を突き姿勢を低いものへと変えた。鉄の塊が迫る土壇場になると、腹も決まる。ぶっつけ本番でも、やってみせようというものだ。
姿勢を保ったままで駆け出すと、勇者の身体が緑色の光に包まれる。淡い発光はルファイド神の加護が得られた証――移動速度を爆発的に上げ、鉄球に直撃する寸前でその姿を消失させた。
「――ッ?」
冑の下から息を吐く音が周囲へ伝わる。闘いの最中に動揺するなど、下の下もいいところだ。それでも戸惑いを隠せないのは何故か。人間が忽然と姿を消したからであろうか。
戸惑いの正体は己に対してのものであった。さっぱりとわからない、というよりも自失に近い状況にあった。
動く相手へわざわざ鉄球を振り下ろすことはしない。右手に鎖を握り、縦回転をさせたまま胴体を撫でてやるつもりでいたのだ。それが幾人もひき肉へと変えた自慢の武器に手応えはなく、標的の姿すら見えない。
しかし、地面を打つ音が響いたし、石製の舞台は人間の拳程度ではあるが、窪みが出来ている。鉄球は人間を抉り取ったに違いない。
興奮剤を打たれていたこの魔物は、自分が幻覚を見ているのだと思い込むことでこの不可解さを処理しようとした。人間は既にミンチになっているが、それを知覚出来ていないだけなのだ、と。薬でラリっている、そう結論付けられねば困る。そうでなければ、全くもって理解の範疇を越えてしまう。
これ程の重武装をした自分の身体が、何故浮き上がっているのか。
「痛いぞ、歯ぁ食いしばれ!」
やっぱり幻覚の類ではないか。聞こえてきた音にオークは確信を持った。一体、小さな人間がどのようにして己の顔を殴ろうと――その考えは途中であったが、勇者の右ストレートで真っ直ぐに撃ち抜かれた。
声を上げることのなかった魔物の変わりに、舞台を囲む壁が軋んだ音を立てる。一連の流れを見ていたラフィーネであったが、まず初めに思いついた言葉は“審判や観客がいなくてよかった”である。
「何よ、あれ。ピンチかと思ったら、全然じゃない。勇者は一体何をしたの!?」
我が目を疑いたくなり、オッサンへ解説をつい求めてしまう。巨躯を誇る魔物が、水平に吹き飛び壁へ突き刺さった。鎧を合わせれば一体重量はどれ程であったのか、想像もしたくない。
「昼間に見たことの再現、ですな。説明するだけなら簡単ですぞ」
つまり、とオッサンは続ける。全力で走って、相手の目前で進行方向を直角に曲げる。次に走って得た勢いを殺して、その場に留まってから無防備な相手を蹴り上げて宙に浮かべる。後は浮かんだ相手を殴りつければ、それで終わり。
「それって、ラザロさんが昼間に見せた技じゃないの……」
「ですな。しかし、勇者様はラザロ氏程の技量がなかったので、全ては腕力で強引に再現してみせていましたが」
いやー、私も驚きました。そのようにオッサンは笑っているが、腕一本で拳奴ラザロのお株を奪うなんてどうしたものか。長年ギルドの受付嬢をしてきた彼女であったが、こんな戦い方は見たことも聞いたこともない。
「再現って言いますけど、そんな方法でいいんですか?」
「従者としては、主に口を挟むことなど出来ますまい。それに――」
「……はい?」
言葉途中で中年の男は、指を指す。きっとその先に答えがあるのだろうと、ラフィーネは身体を正面へと再び戻した。
「こうだ、これだ! 出来たぞオッサン!」
彼女の視線の先では、興奮を隠せない様子のジオが観客席へと走り寄ってきていた。巨体に鎧を着込んだオークを吹き飛ばしたことよりも、この少年勇者はラザロという男の真似事が出来たことが余程嬉しかったようである。
「あんな表情の主に何か言うのは、野暮ってものかと」
「何ていうか、その、はい」
適当ではあったが返事をしつつ、ラフィーネは戸惑いを表情に出さないことに必死になった。彼らに常識は通用しない――そう頭では理解しているが「これまでの心配は何だったのか」と叫び出したくもなるが、それこそ野暮なことだろう。
「素直に喜ぶって、いいことですね」
氷の女と呼ばれ続けて、自分はすっかりそうなのだと思い込んでいた。レティアの華と称えられても、ここ最近は嫌味にすら思えていた。
だが、彼らのように屈託なく笑ってみたい。愛想笑い以外は忘れていたが、隣のよく笑う中年に倣って、ラフィーネはにっこりと微笑んでみせた。




