旅路の果てに【エピローグ】
ムドラ・ヴォークリッサとの決着後から、何も映らぬ黒一色の空間をジオは揺蕩っていた。
(ようやく、終わったか)
前後左右どころか上下もわからない。力を使い果たしてしまい、項垂れたままふわふわと漂い続ける。
待っている人がいる。帰らなければと思うが、正直なところ気力すら尽きていた。魔神を滅ぼしたという偉業を味わう余裕もない。
体力も魔力もない。気力もない。ないない尽くしだ。しばらくはもう何もしたくない――それがジオの正直な気持ちだった。
(流石に疲れた。ちぃっとばかし休んでも、罰は当たらんよな……。なぁ、親父?)
瞳を閉じて頭がぼんやりするに任せる。
こんなときでも考えてしまうことは、父ならばどう思うだろうか、そればかりである。立派かどうかはわからないが、まぁ、それなりにやれたんじゃないだろうか。そのように思い、道中をジオは振り返った。
(カーラは妹と会えただろうか。アジード神父は迷わず逝けただろうか)
疲れ切っていても人を気にかけるのは勇者の性か。十二の年から勇者をしているが、思えば今回の旅はなかなかに永いものだった。
地方でのゴブリン討伐からグリデルタと出会い、アジード神父との因縁が生まれた。
カナン亭を始めとするレティアの人々との出会い。弟子を持つようになったし、とても腕のいい料理人を護ったりもした。人それぞれの悩みと出会ったし、料理とはこんなにもおいしいものだったと気づいた。
他の神に選ばれた勇者とも闘った。騒がしい従者や、お喋りな友が出来た。真っ直ぐなやつらだ。
妹を得て、失った。
ヴァリスナードを助けることは出来なかったが、家族を護ることは出来た。あの生真面目な黒騎士とはもう少し語らってみたい。
異なる信仰を持ちながら、わかり合えた者がいた。決してわかり合えぬ者もいた。酷い怒りと哀しみを持つ者とも出会い、大切なものが奪われた。
更には、若かりし頃の父と闘った。絶望の淵で、大切なものが何であったかを思い出した。護るべきものは、人々の笑顔だとわかった。愛する人が涙するなら、何をしてでも止めてみせたい。
ネギの勇者となり、嘆きを正面から受け止めた。救えたかはわからないが、僅かでも力にはなれる筈だ。
そして、魔神を滅ぼした。
(ちょっとは勇者らしいことが出来た、か。今思ってみれば上々じゃないか)
等身大の自分で、でも理想の自分に近づけるよう少しの無理をしてみせただけ。
祈りの言葉は、ありたいように、あるがままに。不細工な足掻きであっても、シャーロットやヴァリスナードが微笑んでくれたとしたら、こんなに嬉しいことはない。
(親父にも……、見てもらいたかった)
もう十分だろうに、こんなにも望んでしまう。俺は何と傲慢な生き物なのか――誰もいないからと、ジオは人前で見せぬ顔をしていた。
それも少しの間。抗いがたい眠気に意識は落ちていった。
『ネギの勇者って、何ですか?』
最終話「語り継がれるべきは祈ギ」
エピローグ―旅路の果てに―
どのくらい眠っていただろうか。
とても懐かしい想いがあった。父に背負われ、物見遊山した頃を夢に見ていた気がする。
「――ヴァドス、ジオグラフィカエルヴァドス」
名前を呼ばれてジオは眼を醒ましてしまった。
(そういえば、ルファイド神が迎えに来るって言ってたか)
次に会った時には願いを叶えてもらう。そんな約束も待っていたが、水を差された気分だ。自分の立場はさておき、悪態を吐いてやろうとその顔が上げられる。
「ぉ――」
相手の顔を見ても、否、顔を見たからこそ言葉が出ない。
そこにいたのは神ではなかった。
白のなかに斑に黒が混ざった、ジオとは対照的な髪色。すっかり年老いた男であるが、くすんだ緑の瞳に優しい色が浮かべられている。
懐かしい。夢で見たことがどうでもよくなる程、どうしようもなく懐かしい。
「……わかるか?」
疲れ切ったジオを労わって、老人は遠慮がちに声をかけている。
「わ、かる……、わか、るよ」
喉が震えてまともな音にならない。もう、訳がわからない。それでもずっと待たす訳にはいかないと、改めて言葉を紡ぐ。
「わかるよ――お父さん」
自ら出した台詞を耳で聞き、ジオの視界が滲む。
ルファイドの試練で出会った、若き日の父に思うところはあった。しかしそんなものとは比べ物にならない。この眼差しだ。哀しさを奥に秘めた優しい瞳。それを前に、ジオの心はすっかりと子どものそれへと戻る。
一つ頷きを挟み、老人はゆっくりと問うた。
「今回の旅は、楽しかったか?」
「……よかったよ。行く先々で、そう多くもなかったけど笑顔が見られたんだ。それに――」
いつかのやり取りをなぞっているようだった。
そういえば父はここで言葉を詰まらせた。逆の立場になり、ジオは感慨深い想いを抱きながら続ける。
「それに、家族が出来たよ。ティアだ。フラティラリアが僕の奥さんになってくれた」
「そうか……、グラフォードの娘と。おめでとう」
淡白な台詞回しになってしまったのは、彼が驚いているからだ。
息子の腕は傷だらけ、髪にも瞳の片方にも白が多分に差し込んでいる。今にして思えば、ルファイドに呼ばれた先で出会ったあの少年がジオであったとわかる。あれから年を重ねた訳でもないのに、すっかりと草臥れているのはどういう訳か。
勇者を続けることの過酷さを思えば、心配は強くなる。しかし、ジオが涙を浮かべる程喜んでいることと同様、この老人も嬉しさを噛み締めている。祝福すべしと鷹揚に頷いた姿に、偽りはない。
「心配しないで、お父さん!」
「うん?」
不意に、ジオが右の拳を握って大きな声を上げた。
「しばらくファディアの里に引っ込むつもりだけど、勇者は続けるよ。あのとき、ルファイド神の試練のときに、お父さんが教えてくれたから」
「……そうか」
闘い続ける人生へ息子の背を押してしまった。父は少し表情を曇らせたが――
「ヴァリスのじっちゃんと比べちゃならんけど、僕には頼りになる友がいるんだ」
「おおっ」
「それに、ティアは僕よりよっぽど強かったりするから。多分、旅にもついて来てくれる。どうだお父さん、僕は家族と一緒にいられるんだ!」
「……それは素晴らしいことだな」
立派な青年になったというのに、子どものように無邪気な笑顔がそこにある。心配は無用だったかと、老人もつられて破顔してみせた。
幼い頃と変わらぬ愛しき笑みを前に、つい右手を伸ばしてしまう。
「あ――」
「どうした。痛かったか? 俺は力加減がわからんのだ。碌に頭を撫でてやれなかった父を許して欲しい」
痛くなどない。頭を撫でる手には力みがまるでない。頭皮に触れるか触れないか、髪をふわりとおさえるだけのものだ。
「違う、違うんだ……」
生前、一度だけ頭を撫でてくれたことを覚えている。あの撫で方は、死を前に力の入らぬものだとばかりジオは思っていた。だが、違った。これがそうなのだ。
「僕と同じだったんだってわかったら、何だ……、その、嬉しくて。いや、わかんないよね。僕は本当にしゃべるのが下手だ」
マリィの頭を撫でたときと同じだ。大切なものを傷つけずに愛情を伝えたいから、手を頭に乗せただけになる。父もそうなのだと思えば、嬉しい。
「ところで、お父さんはどうしてここに?」
照れくささを誤魔化すこともあり、ジオは話題を切り替える。
「ルファイドの計らいだ。俺の願いを叶えられなかったから、せめてもと」
「その通り。粋なオレに感謝せよ」
いつの間にか褐色肌の神がそこにいた。いつもの如く何もない空間に腰かけ、頬杖を突きながら口の端を持ち上げて笑みを作る。
辺りを見やれば、真っ暗だった空間は一面白色に変じている。サリナ神の言うとおり、助けが来たのだろう。沈黙するジオを他所に神は口を開く。
「あー、おまえさんがオレが選ぶプレイヤーか。こいつに良く似て……、ない。その殊勝な心掛けに、オレも応えよう」
思わずルファイドは両掌を合わせる。ジオが祈りを捧げていることに気づき、それに応えた。
二代目ネギの勇者が死んだ後、彼の魂をここまで連れて来た。息子が立派な勇者になる姿を見たい、せめてもその願いを叶えようとしてのことだ。
ジオは確かに顔立ちがグリオに瓜二つだった。しかしながら、中身の方はどうだ。神に向かって真っ直ぐに祈るその所作を見れば、初めて出会った青年であったとしても、ネギの勇者に選んでもよいと思えた。
それにしても、彼が何故こうも真っ直ぐに祈るのかをルファイドはわからずにいる。決して神の悩みを汲み取った訳ではないが、ぼそりと青年は語る。
「親父が死んでから、二度もこうして会わせてもらえて……、貴女には感謝しかない」
おぉ、ヴァンデリックと、感謝の念が呟かれた。
「構わないよ、ジオグラフィカエルヴァドス。祈りとはそういうものなのだから。おまえさんがオレの勇者となる日を楽しみにしている」
珍しくにっこりと微笑んだルファイドへ向け、ジオは続ける。
「俺の時間軸にいるルファイドが言ったんだ。“次にオレに会ったら、願いを言え”と。今がその時で、よろしいか?」
「オレが言ったのなら、大丈夫だ。言い給え、オレがそこなやつの次に選ぶ祈ぎの勇者よ。闘い続けることを宿命づけられた心優しき鬼よ、願いをこのオレ、祈りの神へ告げるがよい」
鮮やかな緑色の双眸を真っ直ぐに向け、神は言った。
事情も経緯もわからぬまま、見知らぬ人物の願いをこの神は聞き届けると言った。ありがたい話だ。粋というものが何かはわからないが、これがそうなのかもしれない。
ジオは軽く息を吐いて、願いを告げる。
「親父の――お父さんの名前を、返して欲しい」
ようやく、永年の願いを口にすることが出来た。
すぐ傍では父がこれまで以上の驚きを表しているが、ジオの知ったことではない。ルファイドは応えてくれるのだろうか。ただただ、それが心配であった。
「祈ぎの勇者には多大なる制約と使命がある。それが故、オレは願いを叶えることにしている……、これまでに叶えようとしたものに比べれば、何と細やかなものか」
再び合掌し、ルファイドは祈った。これは願いを叶えるために必要な所作でも何でもない。幼き頃に父を亡くした子の願いに、ただ手を合わせたくなった。祈らずにはいられなかった。
二代目ネギの勇者も資格は十分にあった。だが、怒りが強過ぎた。人々から笑顔を奪うものの命を刈り尽くそうとした。それがために彼は真に祈ることが出来ず、名を捧げてようやく真なる祈ぎの勇者となった。
親の心子知らずとは言うが、子の心を親はもっと知らないのかもしれない。懸命な祈りにルファイドは弱い。
「ジオグラフィカエルヴァドスの願いに従い、オレに捧げられた名を返そう。エンズグリーオウでも、エルグリンでも、好きな方で呼んでやるとよい」
今、謳おうにも名の呼べぬ勇者に、その名が返った。
「ありがとう、ルファイド神」
祈りには祈りを。ジオも手を合わせ、瞳を閉じ――たところで横合いから怒鳴りつけられてしまう。
「バカが! 命がけの報酬を何てことに使うんだ!」
怒るグリオに、ジオはカカっと爽やかに笑うことで応える。
「諦めろグリオ。否、エルと呼んで差し上げた方がよろしいか。まぁ何にせよオレは願いを叶えた」
「バカだ……、クソっ! 俺に似ないで喜んでいたのに、要らんとこばかり似やがって……」
名前が戻っても特に父が喜んだ様子はない。勿論、そうなるだろうとはわかっていた。だからジオは言う。言わねばならぬ。
「親父のためじゃない。俺のためだ」
「ジオグラフィカエルヴァドスのため、だと?」
「ああ、親父は倅って呼び方以外だとフルで呼んでたな、懐かしい。いや、横道に逸れた」
ごめんごめん、と軽く言いながら続けられる。
「母さんがさ、俺のことをエルって呼ぶのよ。それって本当は親父の愛称じゃないか。きちんと名前を呼ばせてやって欲しい」
「む……」
「ヴァリスナードのじっちゃんだって、あやつとしか呼べないんだ。そん時はさ、闘ってるときの俺よりも眉間に皺寄せてんだぜ? それにさ、俺に子どもが生まれた時に親父の名を教えられないなんて辛すぎる。秘匿すべきネギの勇者、エンズグリーオウの名は語り継がずとも、俺は親父の名前を覚えていたいんだ」
長回しの台詞の後も、グリオはまだ渋っている様子だった。見兼ねて神が口を挟む。
「折れろ、グリオ。名は元来捧げるものじゃない。んで、こいつは少々傲慢な節があるが、おまえさんが思っている以上に祈ぎの勇者に相応しい。これ以上何か言うのは我儘ってやつだ」
「ぐ――わかった。ありがたく享受させてもらう、倅よ」
ぐうの音も出ないとはこのことか。まだ渋い表情をするグリオであるが、いつもの倅呼びが聞けてジオはまた笑顔になった。
「しかしなんだ、いずれは倅に子どもが産まれるかもしらんのだな。俺は子を持てるとも思わなかったが、孫となるともう考えも及びつかん、つくづく不思議なものだ」
「それが人生さ、エンズグリーオウ。どうだ、まだ未練はあるか?」
もののついでに叶えてやろうと神が言うが、それに老人は首を横に振る。
「もう十分いただいた。死に際まで知らずにいたが、本当に人間の欲望は尽きない。孫の顔も見てみたい気もするが、更なる未来を見始めたが最期、俺は倅を、その子たちを護るため神になることを望んでしまいそうだ」
「なってみるか?」
「御免だ。言ったが、もらい過ぎる程にもらってしまった」
死してこれから何処かへと向かう途中、少し寄り道をしただけ。そのスタンスをグリオは崩さない。もう一度ジオの頭を撫でて、神へ向き直る。もう、寄り道が終わろうとしている。
「さあ、行こうかエンズグリーオウ。その魂をオレはサリーへ渡す。実のところ、悩ましいんだ。おまえさんにもう一度生を与えるか、それとももう役目を終えたとするか、考えあぐねている」
決めるのはサリーだがな、と寂しそうにルファイドは笑う。
「親父っ!」
もう十分と父は言った。だから何を言うこともない、そのように思っていたジオだが際になって思い出した。
試練に打ち克った時、殴り合うよりしたいことがあった。それが何か、ようやくわかり口を開く。
「言い残したことはないか? 言ってくれ。どれだけかかろうとも、伝えてみせるから!」
父の死に際、その全てを独占したことがジオの心残りだった。もっと、自分以外の誰かに伝えたいことがあったのではないか。ずっとそれが心に痞えていた。
「……言い残しか」
吟味するようにグリオは言葉を反芻させる。
真白に変わった空間に静寂が続いた。実際にはほんの僅かな時間であったが、見守るジオにはとても永く感じられた。
「母さんに」
ボソりと出された言葉だった。それもまた区切られる。
くすんでしまった緑色の瞳を真っ直ぐに向け、グリオは息子へ伝えた。
「ジオールに伝えて欲しい。ありがとう、愛していると。様々な人に出会ったが、倅とヴァリスを除けば、俺をこれ程想ってくれた人もいるまいよ……。こんなどうしようもない俺と、家族になってくれてありがとうと、今更ながらも伝えたい」
「わかった、親父の言葉、一言一句違わず伝える」
「頼んだ」
そのやり取りの後、神が名残り惜しそうにして言う。
「この空間を塗り替えておける時間も、もう限界だ。そろそろいこうか」
この言葉に勇者たちはどちらともなく、ああ、とぶっきらぼうに応えた。
最期は、エンズグリーオウが神域の魔法を使う。
今や魂だけの彼は、肉体の衰えを感じさせぬ程大きな奇跡を生み出した。しばらくは休むといった息子の言葉を信じてはいるが、いずれまた闘いの日々に返してしまうことに胸が痛む。
だが、それを彼が望んでいることがよくわかった。謳われぬ勇者の跡を継ごうとしたジオ、その愛しき姿を見守りながら、老勇者は歪んだ時空間から未だ使命を背負う者を送り出した。
今の勇者を送り出した。
もう消えようとする空間で、自身も消え行くことを前に、ただただエンズグリーオウは息子がいたところを眺め続けている。
「エルグリン。言葉は無粋だとわかっているが、なぁ」
闘いのみの人生に彼を落とした神が言うのを聞きながらも、振り返ることはしない。ずっと見守り続けていたいものがあった。
背を向けたまま顔も見せずにエル老人は言う。その声は満足気で、どこまでも穏やかなものであった。
「祈らぬ俺だったが、ここが果てなら上等だ。自分以外の誰かのために祈る倅は、きっと、俺よりもずっといい最期を迎えられる」
おぉ、ヴァンデリック。
二代目ネギの勇者は多大なる功績を遺せども、祈ることの意味をわからずにここまできた。神官の家に生まれ、祈りの真似事は続けてきたが、人が何故祈るのかがわからないでいた。
「倅と妻を始め、人々が幸せであれるよう、ただただ祈る……。この切なる祈りを、どうか聞き届けて欲しい」
魂が消える際の際、その最期にしてようやく祈り切ることが出来た。
人生のほとんどを闘いに費やした男。その旅路の果てに、不器用で真摯な祈りが残された。




