珍客続々
気候の穏やかさが売りの農村、イーシアにも秋が訪れていた。北部の小麦といった代名詞になる作物はないが、芋や豆がよく収穫される。子どもたちも駆り出され、村を上げての一大行事に盛り上がりを見せていた。
村中の働き手の全てが畑仕事に、という訳でもない。大きな洗濯籠を抱えた少女が畦道を歩く。
長く伸びた髪とスラリとした手足。つい先日に成人を迎えた彼女は、黒を基調としたシスター服に身を包んでいる。勝気な瞳が印象的で、男がすれ違えば思わず振り返るくらいには美人であった。
「ねー、聴いてよグリデルター」
後ろから別の少女――エイミーが、シスターに声をかけている。エプロン型の仕事着にはツギハギが当てられており、日に焼けた茶髪は邪魔にならないようにまとめられている。地味な装いであるが、これがイーシア周辺の村娘がする標準的な格好であった。
「はいはい、聴いてますよ」
友人の言葉を聞き流しながら、グリデルタは次の仕事は何だったかしらと頭を回す。洗濯が終われば夕飯の準備、畑の手伝いを終えた子どもたちを風呂に入れ、食事を摂らせないといけない。
随分と慣れたものだが、まだまだ動きには無駄が多く工夫が必要だ。彼女がシスターになる以前は一体どうやって教会を運営していたのか、気にはなったが聞ける気がしない。あの老神父が一人でまかなえていたとなれば、己の未熟さに否応なしに目を向けねばならなくなってしまう。
「――なのよ。どう思うグリデルタ」
「ごめん、途中から聴いてなかったわ」
相変わらずエイミーはよく喋る。
見た目にはどこにでもいる村娘なのだが、分厚い眼鏡と分厚い書籍のアイテムが追加されると一気に個性的に映り出す。「聴いてますって顔してたじゃない!」オーバーな身振り手振りで怒りが表された。
神に仕えるシスターとして、人々の話は真剣に聴くべきだとは思う。その一方で、夢見がちな彼女の話に付き合って仕事を疎かにするのも如何なものか。猫のような瞳を絞り、グリデルタは唸る。
「で、どこまで聴いてくれたの?」
「デヴィンが魔物探索から帰ってきたってところまで、かな」
「ほとんど聴いてないじゃない! いいわ、もう一度話すから聴いて頂戴。あれはよく晴れた日のことだったわ……」
シスターを生業にしている彼女は、また始まったと胸中で毒づいてしまったことをアイリス神へ懺悔した。エイミーは読み書きが出来るため、他の村や町とのやり取りに重宝される。が、本が好き過ぎて日頃の台詞の一々が詩的で冗長であった。
大して興味のない物語を聴かされるのは、そこそこ苦痛だ。半ば無意識的に聞き流してしまっていたが、この苦行はエイミーが納得するまで続く。そう自覚すると、グリデルタは大事そうな部分にだけ集中し、後の話は適当に頷いておいた。
教会まで戻り切った頃には、一頻り話が終わり「という訳なのよ、どう思う?」と問いが繰り返されていた。
「どうって……、どうって言われても、ねぇ」
籠を下ろし、シスターは薪を幾つか拾いながら唸る。エイミーの話はわかったが、イマイチ的を得ない。
隣村の青年、デヴィンが魔物探索から帰ってきた。今のところイーシア周辺に変わったところはないが、王都では暁の勇者が倒れたという。更に東部ではトロールの襲撃で大変な被害を出した村もあるとのことだ。
どう思うと尋ねられたところで、大変だねぇ程度の感想しか、このシスターには湧いてこなかった。王都は勿論、イーシアとよく似た農村部であっても東部は真反対にある。対岸の火事どころか、中立地帯向こうのドラゴンだ。恐ろしいし哀しい話だが、ピンとこない。
「ねぇって何よ、じゃあ私がデヴィンをもらうから!」
「……ん?」
再びの感情爆発が起こっていたが、グリデルタは眉根を寄せて訝しんだ。あれだけ婉曲に物を言ってきたエイミーであるが、出された結論は直接的な上に何処から湧いてきたのかがわからない。
「だから、デヴィンが無事に帰ってきて、よかったじゃない?」
「そうね」
「魔物が活発化してるって言うじゃない?」
「んー、そうらしいね」
「じゃあ、この先を考えてデヴィンも結婚を意識するじゃない。グリデルタ、前から彼にプレゼントもらったりしてたでしょ。それで、彼のことはどう思ってるの? て、さっきから言ってるじゃない!」
「……言ってないわね」
グリデルタは渋い表情で友を見つめる。論理の飛躍どころか、いつの間にか魔法的な攻撃を受けていたのかと友を疑ってみたりもした。
しかし目の前にいるのは、やはり夢見がちエイミーである。眼鏡の下、瞳をキラキラと輝かせながら「グリデルタが振ってくれたら、私がデヴィンと結婚するのよ!」などと嬉しそうにしていた。興奮最高潮の果て、エプロンの裾を掴んで踊り出す。
「神父様が言うとおり、デヴィンは悪い人じゃないわ。うん。頑張ってねエイミー」
きっと彼女の眼鏡は新種の魔導器で、見える世界を素敵なものに塗り替えているのだろう――そのように思うグリデルタは、自分も想像力豊か過ぎないかと心の中で指摘していた。
「嗚呼、可哀想なデヴィン。私が慰めてあげるの……。ところで、グリデルタは他に意中の人がいるってことでいいのよね?」
想像の世界から帰還し、エイミーが直球を投げつけた。いやまさか、ちょっと待ってと乙女は目を泳がせた。
「ま、まさか、そんなことは……」
「いーえ、そんなことあります。身長が高くて腕っぷしは騎士以上。オマケに顔もよくて地主の息子だっていうデヴィンになびかないとか、おかしいんでなくて?」
演劇のように台詞を決める少女。何だか頭が痛くなるシスターだが、これでも友達なのでもう少々付き合うことにする。
正直言って彼女もデヴィンは嫌いではないが、お付き合いするかといわれれば首を捻ってしまう。
「おかしいのかしら、ちょっと考える」
薪を抱えたまま、顎に手を当てたグリデルタは首に続いて頭を捻る。暇を持て余したエイミーが木の柵に腰かけ、足を二三度バタつかせたところで口が開かれた。
「考えた」
「早かったわね」
よっ、という掛け声と共に眼鏡少女は友人へ詰め寄る。態々隣の村から足を運ぶ青年、それも優良物件を厄介払いしようというのだ。「さぁさぁ聴かせて頂戴な」エイミーはずずいと身を寄せてグリデルタの言葉を待った。
「性格の不一致、これだわ」
「なんて勿体ないことを……。でもそのお陰で私に運が巡って来るんだから、問題なし!」
ぐっと拳を握ってはしゃぐ眼鏡。つい数か月前まで、白馬の王子を本気で信じていた筈が何とも現金な姿であった。
(よくよく考えると、デヴィンとエイミーが恋仲になるって決まったわけでもないのにね)
友が満足したならそれでいい。グリデルタはシスターの顔に戻って、夕飯とお風呂の準備に取り掛かろうとする。
「それで、あなたは一体どこの誰が好きなのよ? ん? お姉さんに言ってみて!」
「……まだ終わってなかったか」
追及の手が緩むことはなかった。デヴィンの話題よりも一層目をキラキラと輝かせてエイミーが迫る。
ハッキリ言えば、面倒であった。それでもシスターとして、更には村長の娘としてグリデルタは村人を無碍にはしない――それは亡き母との約束でもある。
「私はね、アイリス神に仕えるシスターですから。デヴィンだろうが誰だろうが、結婚なんてしませんよ」
「えー、何その答え! 都合が悪くなったらシスターぶるんだから」
ぶーぶーと不満が露わにされていたが、受け答えとしては十分ではないか。ズルいと言われようが、これが大人の対応だと、成人を迎えたグリデルタは笑う。
第一、デヴィンよりも素敵な男性の話をすれば、夢見がち眼鏡の横恋慕が始まるのではないかと懸念された。グリデルタの頭に浮かんだ人が勇者であれば、尚更のことだ。他にも引っ掛かるものがある。
「……好きな人がいようとね、どうにもならないこともあるから。叶わない願い事を口にするなんて虚しいじゃない」
東の方角を向いて呟く少女へ、「シスターの癖に、そんなこと言っていいの?」と言葉が出される。シスターぶるなと言ったりシスター扱いしたりと、エイミーは相変わらず自由だ。それが彼女のいいところだとはよく理解している。
その上で、シスターらしく居住まいを正して、お説法が始められた。
「闇雲に願望を口にするの、エレナ様も良しとしていないのよ。だからね、祈るの」
両手の指を握り合わせて、瞳が閉じられる。その佇まいには何処か清廉さが見られた。冗談で絡んでみたものの、本物のシスターを前にエイミーは少し怯む。
「難しい顔してるあの人が、ちょっとでも安らかでありますように。あの人みたいに、私もいつでも一生懸命であれますように。子どもたちのためなれるように頑張るから、見守っていてください――こんなところかな」
祈りを終えて、にっとグリデルタは笑ってみせた。美貌が崩れる程の笑みだが、それは博愛の神に仕えるシスターらしい優しさに満ちたものである。
見つめるエイミーの方は複雑な心境になった。
こんな顔を見せてくれるから友達でいたい。一方でこんなものを見せつけられると妬ましくも思える――それらはおくびにも出さず、相変わらず大仰な身振り手振りを交えておどけてみせる。
「願望よくないって言いながら、お祈りが多すぎない?」
「別にいいのよ、願望じゃないもの。私、自分のことは自分でやるし」
茶化しにも乗ることはなく、シスター然としたまま続きが語られる。
「自分以外の人のことをどうこうってなったら、もう人間種の力を越えちゃってるわ。頑張ってもダメな時はダメ! だから、自分以外のことは神様にお願いするの……。私は私の出来ることを精一杯でやれるよう、神様にお願いする――お祈りってそういうものだと、師は教えてくれたわ」
「まー、グリデルタ、あなた立派なシスターね」
「何、皮肉?」
思わず猫のような瞳を少女は尖らせたが、エイミーが口をポカンと開けている姿が目に入ってくる。どうやら本気で立派だと思ってくれたらしい。
「皮肉じゃないよ。何だか、羨ましいって思ったの恥ずかしいわ」
「……何それ?」
お説法が終わり、シスターモードが解除されたグリデルタは、友の微妙な心の動きに気づかなかった。こんな自分を羨ましく思う人がいる筈ない――謙虚なのか自信がないのか。いずれにせよ、ちょっとエイミーらしくないぞ、程度にしか思えなかった。
「腹減ったー!」
孤児最年長のローレンが手を振り、シスターへ飛び込んできた。浮かない表情をしているエイミーが気になるが、子どもに抱きつかれるとグリデルタは身動きが取れない。
申し訳ないと視線を向けると、眼鏡の少女はいつもの顔に戻っていた。大袈裟な身振りで、ローレンの相手をしてやるように勧めている。
「こんなに汗かいて、走って戻ってきたの? ああ、ちょっと、私の服で拭かないで!」
「いいじゃん、ケチケチすんなよー」
イタズラ盛りを過ぎたのか、ローレンは以前程は困らせるようなことはしてこない。それでもグリデルタに構ってもらいたいようで、現に満足そうな顔を見せていた。
「オレ、グリデルタのために急いで帰ってきたんだぞ」
「珍しいわね……。何があったの?」
鼻の下を指でこすりながら、少年は持っていたものを突き出す。
「手紙! ありがとう、ローレン!」
村で使われている紙よりも上質な羊皮紙を目にして、少女はシスターの顔から村娘のものに戻った。見た瞬間、誰から届けられたかわかってしまえば、日頃出てこない表情になっていた。
「あ、ちょっと。何するのよ」
「べっつにー……」
受け取る筈が、グリデルタの手は空を切る。ローレンが面白くないと言わんばかりの表情で手紙を頭上に掲げていた。
「やっぱり好きな人いるんじゃない」
エイミーが声を抑えて呟く。それ以上は言葉にしなかったが、内心ではよくおモテになることで、などと毒づきが止められなかった。
シスターらしくしている時は別として、グリデルタは本当にわかりやすかった。ついでに、端から観察してればローレン少年がシスターに淡い想いを抱いていることもお見通しだ。
「取れるもんなら、とってみな! ここまでおーいで――結界は卑怯だぞ! やめ、やめろっ!」
「人の嫌がることはしません、いつも言ってるでしょ。あんたがやめなさいっての!」
ギャーギャーと騒ぐ二人は、本当の兄弟のようでもある。他の孤児たちもぞろぞろと帰って来たことがわかり、エイミーは歩き出した。
「私帰るわー、またね」
いつでも出会えるので、相手の返事は待たない。これ以上いたら、想い人とやらを追及したくなってしまう。聞き出してしまうのは、この場にいる小さな少年には酷かと思われた。
昼下がりのカナン亭に、珍しい客がいる。ジオは扉を開くとしばらく無言でその光景を眺めていた。
「ほう、これが紅茶ですか」
「知っているのかリュー姉ちゃん!」
オッサンといつもの手合せをして帰ってくると、テーブルで紅茶を愉しむ人が二人。
元気な方はキリカで、少し髪が伸びて一層女性らしさが目立つようになってきた。赤い髪色がよく映える。落ち着きのある方は、長い金髪を後ろで括った女性であった。吟遊詩人の語る英雄譚から飛び出してきたような、レティアでもお目にかかれない程の美人であった。
「おや、ジオ殿。もう修練は終わりですかな?」
「お、おぉ……」
とんでもない美人が立ち上がって自分に話しかけてくる。そのことでモテない少年勇者は軽いパニックに陥った――爽やかな笑みに琥珀色の瞳、直ぐにエドワンだと理解した。しかし、今の彼女は赤竜を連れていなければ、白銀の鎧も脱がれている。
ノースリーブの黒いドレスに、肘まで丈のある黒い手袋。首元には銀色のネックレスがされていれば、まるでお姫様だ。実際に彼女は竜人の王族であるが、エドワンであるとジオが再認するには随分と時間がかかった。
「どうされましたかな?」
優雅な歩調で近づくエドワンに、ジオは完全に固まったまま。鼻の下を伸ばすことはないが、顔が赤くなっていることは周囲には丸わかりだった。
「ジオさん、浮気はよくないと思います」
「浮――人聞きが悪いことはやめてくださいよ」
後から入ってきた女性の言葉に、少年は一層身を硬くして答える。ラフィーネの位置からだと、明らかに不機嫌になった少女の姿が見えていた。それも二人もだ。
「ジオ、しばらく見ないと思ったら美人な姉ちゃんとばっかり遊んで! あたしのことは放ったらかしじゃないか!」
「いやいやキリカよ、誤解を招く言い方はよそうな……。おまえさんとは一緒に修行メニュー考えてるし、そもそも具体的な修業はラザロのおっちゃんにお願いしたんだろ?」
ようやく動き出したが、手を前に出して否定する程度が精いっぱいであった。ジオの額には嫌な汗が浮かぶ。
「そこなご婦人に誤解されたくないのですな、わかりますとも。オッサンがおらぬ間に、ジオ様も立派になられた」
うんうん、と頷く半裸の中年。話が余計にややこしくなりそうだったので、ラフィーネが鋭く睨んで牽制した。
「取り敢えず、握手だ。人間はこうやって友好を深めるのだろう?」
「お、おぅ……」
周囲の騒がしさに動じることもなく、さらりとエドワンはジオの手を握って上下に振った。竜人の力は強く、気の抜けていた彼はガクガクと揺さぶられる。
「キリカ嬢、ジオ殿の様子がおかしいんだが。私は何か失礼でもしてしまったのだろうか。ところで、握手というものは何秒間維持するものなのか」
一緒に紅茶を飲んでいた少女へ、助けを求める視線が出された。敵に塩を送るのもどうかと思える場面でも、根は優しい赤髪の少女だ。構わず「美人に緊張してるんだ」と答えた。
握った手が離されずに困っていたが、エドワンは斜め上をしばらく見つめてから柔らかな顔に変わった。
「何だ、美人とは私のことか。美人かはわからないが、貴方くらい強い男にそう思われたなら嬉しい限りですな」
それで後何秒くらい握手していればいいのかな、などを尋ねてもジオは固まっている。秒数で親密さが測れるのだと思い込んだ彼女から、手が離されることはない。
いい加減心配になったラフィーネが横槍を入れようとするが、その前に握手は解かれた。ずっと不機嫌そうにしていたもう一人が痺れを切らし、ジオの尻を蹴っていた。
「痛っ――蹴ることないだろ?」
「うっさいわ。デレデレデレデレと、ヌシな、そんな顔を私にはせんじゃろ!」
抗議の声を少年は上げたが、振り返った先、幼馴染は顔を真っ赤にして怒鳴っている。
「何怒ってんだよ。締まりのない顔したのは悪かったけどよ、どうしてティアがそれで怒っ……。ごめん、無神経だった」
困惑していたジオだが、台詞を切って謝った。鈍いながら彼女が何を怒っているか、ようやく気づいたようであった。
「ジ、ジオが自分で気づいた!」
「なんと、ジオ様がっ」
「あのジオさんが……。待って、これ、浮気って自覚あったんじゃない?」
口々に驚きが吐かれる。日頃の行いの所為とはわかるが、ジオとしては甚だ心外であった。
(俺に向けてくれる想いは知ってるし、ここのところはいつにも増して世話になってるからな)
チラリと横に目を向けると、ティアは機嫌を取り直したようでジオの腕にぶら下がっている。しばらく構ってもらえなかったキリカが「いいなぁ」と漏らせば、勝ち誇った顔すらみせた。
「流石はティア、奥方としての貫禄がありますな」
うんうん、と首を振るエドワン。さりげなくティアの真似をしようとするが、そこはジオがやんわりとお断りした。しょげる彼女に、ティアは魔女らしい不敵な笑みを向ける。
「ケンカ、しないでね?」
「しないとも。そんなに心配ならな、皆へ私を嫁にしたと言えばええじゃろ」
ざわりとした空気がカナン亭の中に流れた。
キリカは驚きのあまり獣化し、ラフィーネはキャーキャーいいながらオッサンの背中を叩く。為されるがまま黙って頷くオッサンと、やはりうんうんと頷くエドワン。今まで姿の見えなかったアビーも拍手を届けていた。
「……ティア?」
「なんじゃ、エル」
この空気をどう収拾つければよいのかわからない。困り、呻くようにしてジオが漏らす。したり顔で言ってのけた幼馴染は、どこか遠い方を見つめている。
「俺、いつの間にティアと結婚したの?」
「まだじゃな」
「まだっていうか、勇者の内はそういうの無理ってさ。俺、言ったよね?」
「……そういえばそうじゃった。なーに、私も結婚にはこだわらんて。既成事実があれば、もう十分じゃろ」
元から視線の合いにくい少女であったが、今は露骨に避けられていた。己がハッキリした態度を取らないことが悪いとジオもわかっているが、段々と腹が立ってくる。
「既成事実が何かわからないけど、そんなのないよね?」
「ないな」
お互いにボソボソと喋っているので、周囲には聞こえない。一方で何やら不穏なものが感じられる。
事情はわからなかったが、真っ直ぐな性格をしたエドワンが二人へ近づこうとする。そうすると勇者と魔女のやり取りが聞こえてきた。
「ティアさ、たまにズルいよね。みんなに向かって言われたら、俺はどうしたらいいのさ」
「う――」
「う、て何。うって」
ネギの勇者としては文句の一つも言ってこなかった少年だが、話し方から態度まですっかり昔のものに戻っている。ティアにとっては懐かしくも嬉しい話し方も、ここまで詰められると何も言い返せなかった。
「あー、人間の文化とやらはわからないのだが、ジオ殿その辺で……」
空気など読まずにエドワンが身を捻じ込む。闘いの時とは異なった苛立ち方をするジオも新鮮といえば新鮮。だが彼とは別に、魔女殿とも友好を深めたいと竜騎士は思う。
「エドワン、ちょっと待ってくれないか?」
「待たない。ティアが泣きそうな顔になってますから」
「え――」
指摘されて初めて気づくものもある。言われるに従いジオが視線を落とすと、小さな魔女が外套を握り締めて下を向いて震えていることがわかった。
「何があったかわからないが、女性を泣かせるまで責めるのはよくないんじゃないか?」
「お……、あ? お、おぅ」
至極真っ当な指摘であった。ただし、エドワンに取った態度からティアの機嫌が悪くなったので何とも腑に落ちない。それでも悪いのは自分だな、とようやく冷静になったジオはしゃがみ込む。
「ティア、ちょっといいか?」
目を合わせるのはよくないので、ぼんやりと彼女の顔を見ようとして、顔面に頭突きをもらった。
「やかましいわっ! よくないわっ! 何でエドワンの言うことには素直になっとるんじゃ!」
悔しいやら哀しいやら、感情を爆発させたティアは涙も拭わずに走り出した。
「ティア、待つんだ! ジオ殿、無事か!」
え、え、とジオとは別種のパニックになったエドワンは困惑を隠すことなく首を右へ左へ振って嘆く。
「い、一体、誰の所為でこんなことに……」
カナン亭に集まった一同は、互いに顔を見合わせた。どのように言えば、この生真面目な竜人を傷つけないかと思案していた。
勇者としての矜持でジオがのたうち回ることはなかった。ただし、相当痛かったらしく無言で下を向いていた。オッサンの姪だけあって、頭突きはジオの鼻をクリーンヒットした。垂れる鼻血が床を打つ音だけが響く。
「どうしましょう、あなた。私、ティアちゃんも心配だし、この場も心配」
「う、うーむ……」
夫妻が悩んでいると、宿屋の娘が親指で自身の顔を差す。任せろとのジェスチャーだ。無言のまま、てくてくとエドワンへと歩み寄る。
疑問符を浮かべる彼女へ、アビーは息を吸って言葉を出した。
「原因は、お前だーーっ!」
ビシィ、と指を突き付ける。そして、人好きする笑顔を残してアビーは去って行った。去り際、ラフィーネへ向けてさわやかに手刀を切っている。これは、後は任せたとのジェスチャーであった。
「私の所為だったのか……」
落ち込むエドワン、獣化して固まったままのキリカ、鼻血の止まらないジオ。場は混沌としている。
「あなた! 何とかしてよ」
「う、うむー……。何とか、なぁ」
どうしたものかとオッサンが悩んでいると、ティアが駆け込んだ二階から何かがへし折れる乾いた音が響いた。
「ぎゃーーーっ!」
遅れて届く悲鳴。それは、誰からも忘れられていたコーディーが八当たりをされて出した音であった。
ティアの機嫌が直るまで、今しばらくは悲鳴が続く。




