勇者を継いだ日【プロローグ】
大きな争いが終わり、十数年。周辺国家の平穏を確認したその日、勇者は故郷へ帰った。
永い旅路の末、彼は幾人かの村人に迎え入れられた。これまでに斬った魔の数は知れず、救われた人の数も知れない。だが、歓迎してくれる人は、成した偉業に比すれば随分と少ないものだった。
故郷へ戻ることはこれまでも何度かあった。それでも、東に泣く子があれば魔を斬り、西に哀しむ人がいればそれを癒すため、名も知れぬ人のために人生のほとんどは使い果たされた。
彼は、別に勇者になりたかった訳ではない。巡り合わせがよかったのか、それとも悪かったのか。己以外には、他に勇者の成り手がいなかった――ただそれだけの理由で彼は勇者になった。
神官の家に生まれた彼は、コツコツと何かを為すことが好きだった。目立つことよりも人を助けることを優先する彼は、勇者としての業績を誇ることはあれど、それをひけらかすことは決してなかった。
“勇者だから偉いのではない、人を救うから偉いのだ”
旅先で関わった人々へと語ってみせたその言葉は、おそらくは彼自身へ向けたものだったのだろう。一介の神官見習いだった者が、多くの魔から人を救った。手に入れた力のために、旅の途中で万能感から調子に乗ることもあったが、友に恵まれたおかげで奢ることはなかった。
にも関わらず、大した称賛も得られなかった。しかし、彼はそのことに不平の一つも表には出さなかった。何故なら、彼以外に勇者に成れる者はおらず、彼自身も人の役に立てることをただただ喜んでいたからだ。
勇者となってから永い歳月を経て、ようやく彼は故郷へ帰った。
歓迎をしてくれた人は、彼の家族と幾人かの村人のみ。これまでの人生の清算にしては、数が合わない。それでも彼が守りたかった、愛すべき人たちが笑顔で迎え入れてくれた――勇者としての自分ではなく、同郷の馴染みとして迎え入れてくれたことは、何よりも嬉しかった。
苛烈な戦いを経た人生の果て、彼はすっかり老いていた。寄る年波には勝てず、かつての勇者も年相応の病に侵されていた。いよいよ以て穏やかな死を迎え入れるために、彼は故郷へと戻ってきていた。
小さな部屋に不規則な呼吸音が響く。小さな家、小さなベッドに収まった老勇者を、少年は傍らで見つめていた。
「……」
何を言うでもなく、少年はやせ細った老勇者の傍にいた。村に戻って三日程、元より病に侵されていたかつての勇者は、今は昏々と眠っている。この勇者と語りたいことは幾つもあった――存分に話したいとも願ったが、久々に故郷へ戻った彼へわがままは言えない。今もこうして眠る彼には問いかけることも出来ず、ただ傍らでじっとしているしかなかった。
「ん、あぁ」
どれだけ時間が過ぎただろうか。少年の傍で眠る勇者が身じろぎとともに、くぐもった声を上げた。
「……わかる?」
恐る恐る、そんな言葉が似つかわしい。少年は遠慮がちに身を乗り出しては老人へと声をかけた。
「ああ、わかるとも。大きくなったな、倅よ」
すっかりしわがれた声で、息子へ言葉を返す。その声にかつての力はなかったが、少年は父へ微笑みを向けて応えた。
以前に会ったのはいつの頃か。少年は、それが物心のついたばかりだったと記憶している。
記憶に残った父の姿は、大きなものだった。その広い背中を、彼は覚えている。今度はいつ帰ってきてくれるのだろうか――そんなことばかり考えていたと思い出す。
「お父さん、今度の旅は、楽しかった?」
「ん、ああ、よかったぞ。行く先々では多くの人の笑顔が見られた。だが……」
――そこに、家族の笑顔はなかった。そう応えて、父である勇者は視線を横へ切った。孫と言ってよい程歳の離れた息子とは、何を話せばよいかわからないでいた。
何を語ればよいかはわからなかった。だが、何をすれば良いかはわかっていた。いつもは照れくささがあって出来なかったことが、死が近づいていたためかこの時ばかりは素直になれた。
「えっ?」
不意に訪れた感触に、少年は驚きの声を上げる。
確認のために視線を上げれば、父が頭を撫でている。既に力を失った老人のそれは、頭に手を置いただけのものであったが、それでも父からの愛情表現に、少年は目を丸くしていた。
「俺はな、よくわからん内に勇者というものになった」
目を細めながら、老人は語る。
「何でもよかったんだ。勇者じゃなくてもよかった――だけど、俺はオークどもに蹂躙される人たちを、見ていられなかった」
「……うん」
少年は返事をするも、会話の意図がよくわからないでいた。それでも、自分に何かを伝えようとしていることだけは理解をしていた。
「あの日から、勇者になった。誰かを救うために必死になって、気づけばこの有様だ。ひたすら駆け抜けた人生に、後悔などはない」
だが、と老勇者は付け加える。
「家族とは一緒にいられなかった」
語りつつ、男は目を細めた。時間は限られている。教えたいことは数限りない。だが最期の時を前にして、男は自分の生き様を語ることを選んだ。
「俺の働きは随分地味で、息子の君にも届かなかったかもしれない。それでも、胸を張って言える――俺の人生は、お前が平和な世に生きるために使い切った、と」
既に目は少年を見ていなかった。不規則な呼吸が、会話を始めたことで更に途切れ始める。
そんな中で勢いに任せて語られたこと、その半分は彼の贖罪だった。勇者として走り回った結果、多くの人を救ったが、代償に自らの子どもへは手間暇をかけることは出来なかった。今になっては、それがただ申し訳なかった。
通信手段の乏しいこの世界では、吟遊詩人の語る英雄譚が全てだった。人口の大半は農耕に勤しみ、太陽の上り下りと生活を同じくする。そんな中では、旅の者が語る他国の話こそが娯楽であり、この世界の情勢でもあった。
しかし、かの勇者の業績は大きかろうが、地味であるために語られることはなかった。息子にしてみれば、単なる風来坊に映ったことだろうと懸念が残る。
「そんなこと、そんなことないよ!」
これまで大人しかった少年であったが、ここにきて初めて父の言葉へ必死に声を荒げていた。
「お父さんは、僕たちのために必死で戦ったんだ。誰も知らなくても、母さんは信じたし、僕も信じてる! お父さんは、立派な勇者だった。僕もそんな勇者になりたいと思うよ!」
「あ――」
瞬間、老人の眼から雫が溢れた。
誰にも理解をされない人生だった。家族となってくれた、守りたい人こそを守れない人生だった。だが、息子の今の言葉に偽りはなかった。
名も知れぬ人を魔物から守る、それこそが家族を守ることと信じてきた。そのことに間違いはなかった――確信を得た男は、満面の笑みで再び息子の頭を撫でる。
「僕が、僕がお父さんの後を継ぐよ!」
「――――っ」
真摯に告げられたその言葉は、尚も男の胸を打った。それは今までに聞いたことのない類の言葉だった。
「お父さん、痛いの?」
少年の言葉に、男は震えて返事が出来なかった。無論、身体は痛む。だが、それ以上の喜びに心が震えていた。
己こそが人を守るのだ。そう言い聞かせてここまで走り切っていた。だが、死を前にした今になって、次へと託せることを知った。
しかも、その相手が自分の息子であるというのだ。
「ああ、なんというか、困ったな。俺の人生に悔いはなかったんだが、ここにきて心残りが出来てしまった」
老いた勇者は、一層目を細めて息子を見る。親の贔屓目抜きで見ても愛らしい幼子だ。その彼が真っ直ぐに人を救ってみせると誓った。勇者になると決めたあの日の想い、過酷ながらも素晴らしい人たちとの出会いがあった戦いの記憶が駆け巡れば、呟きを漏らさずにはいられない。
「お前が立派な勇者になるところを、見たいと思ってしまった……この歳になって知ったが、人間ってのは欲深い生き物だな」
「……」
少年は、黙って父を見つめ返していた。気づいてしまったのだ、頭を撫でる力が今まで以上に弱くなっていることを。
「ああ、でもやはり、悔いはないな。誰にも語られることのなかった、この勇者の後を息子が継ぐ……その言葉が聴けただけで、もう十分、だ」
力を失った手は、少年の頭を通過してベッドの端へと遂に落ちた。それと同時に、老人の呼吸は激しいものへと変わる――不安を感じ取った少年は、手を掴み力を込めた。
それまで父子二人にしてくれていたが、母をはじめ、近しい人々が部屋へと入ってきた。勇者も周囲の人々へ、咽びながら視線で応える。
そして、間もなく別れの時は来る。最後の力で残した言葉は、やはり勇者を継ぐ息子へ向けてのものだった。
「よい、父親には、、なれなかったと、思う……だが、お前が後を継、ぐと言ってくれたことが、うれし、かった」
ありがとうと、老勇者は言った。誰かを救うことにばかり注力してきた彼は、まさか最後の最後で己が救われるなど、夢にも思わなかった。見返りなどを求めたつもりもなかったが、もう十二分に返してもらえている。
己の生き方に間違いなどなかったと確信が出来れば、その最後には息も絶え絶えながら、言葉を紡ぎ切る。集まった人はベッドを囲み、少年はその手を強く握った。
「今日から、今日からお前が……」
三代目、ネギの勇者だ――
そう言い残し、多くの人々を救った老人は、この世を去った。
「え? 何? 何の勇者だって?」
掴んだ手が地面に落ちたことで、終わったとわかった。
集まった人は泣いた。勿論、少年も泣いた。
あまり会ったことのない父だった。勇者として活躍していると母から聞かされていたが、吟遊詩人はその活躍を謳わない。それは、ここが田舎だからだと思い込んでいた。
「ねぇ、ネギの勇者って、何?」
語り継がれることはないが、大きな戦を終わらせた勇者が死んだ。その哀しみに故郷の村は揺れており、誰も次なる勇者の疑問に答える者はいなかった。