十五話『通夜(前)』
「明日、休みをいただいてもいいですか」
所長デスクの前に立って、クソ上司へ百子が言った。
彼が入ってきて三年、休みを自分から求めるというのは珍しい出来事だった。
まあクソ上司が突然の休みにするのはよくあるけど。
「生理か?」
セクハラ発言をしたクソ野郎の頭に俺は持っていたファイルを叩きつける。鈍い音がした。ところで百子にとってこれはセクハラなのだろうか。
百子はそんな軽口にも反応を示さず、ただ固い声で告げた。
「昨夜にお祖父さまが亡くなりました」
母親のことは普通に「母さん」と呼ぶのに、祖父のことは「お祖父さま」と呼ぶのか。
まず真っ先にそんなことを考えた。
曇った表情からはそのお祖父さまへの気持ちは察せられない。
ただ、なんとなくだが、悲しんでいるようには見えなかった。
通勤途中にいる犬が死んだと聞いて一日落ち込んでいたような奴なのに。犬と人は違うのだろうか。違いすぎじゃね?
「お祖父さま、ねえ。どっちの親だ?」
「…父親のほうです」
何故か言いにくそうに彼は言った。
そういえば百子から遠くで暮らす母親の話こそすれ父親の話なんて出てきたことがなかった気がする。
俺も百子も親についてのことは互いに触れなかったし、避けてきた。それでなにも困ることもなかったから、気にも留めなかったのだが――。
「なるほどな」
納得しているのかいないのか、所長は呟いた。
「通夜が明日あるんですよ」
「出席しないといけないか」
「どうしても」
「ふうん。どこでやるんだ? でかそうだな」
「東京のいいとこみたいですよ。…あたしには分かりませんけど」
ここも一応東京なんだけどな。いや、それはどうでもよくて。
ため息交じりの椎名の言葉に俺は思わず横から口を出した。
「なんだよ、分からないって。だって明日行くんだろ?」
「ケンジさん、あのね、あたしそれ以上は――」
俺と目を合わせず、苦し気に彼は言う。
なにかに怯えるように。
「言えないんだ…だから、ごめん」
口止め。その言葉が頭の中によぎる。
今までの依頼者の中でも口止めされていた人間はいた。椎名の言葉は、それに似た響きをしている。
「誰にそれを、」
「そういうことなら有給でいいぞ」
俺の言葉を遮ってクソ上司は至極もっともな応えを出した。
思わずクソ上司を見るとアイコンタクトで制止された。こうなるとそれ以上は言えなくなる。別に言ってもいいのだろうが、そうなるとクソ上司はなにがあっても絶対にフォローしてくれない。
しぶしぶ引き下がることにした。
「おれだって厚労省に訴えられたくないんだもん。駄目ですなんて言えないだろ?」
「労基うんぬんかんぬんの前に法律を何個か破っているからまず警察に起訴されるんじゃねえか…?」
「ん~。それはそれ、これはこれだ」
なにがだよ。
俺とクソ上司にやり取りをぼんやりと眺めていた百子は、変わらず苦しそうな表情で「お言葉に甘えます」と言った。
そんな顔をしてほしくなかった。
いつもみたいに明るく笑っていてもらいたいのに、どうやらそれは叶わないようだ。
なにが彼をそこまで苦しめるのだろう。
祖父の死? 親兄弟に会うことが嫌? 親族に何か言われる?
ふと自分の過去を思い出し喉の奥に苦いものを感じた。
「そのおじーさまが死んだのを知ったのはいつだ?」
「今日の朝です」
「おいおいおい、じゃあまだ明日の準備していないってことかよ? 真面目だなあ、プライベートそっちのけでそんなに仕事をしたいかねえ」
「まったくだ。来てもどうせ仕事ねえし」
ファイルでぶん殴られた。俺がやったときより強いんじゃないか。
「…人と会うと、少し気がまぎれるので」
百子は、ようやく、しかし儚げな笑みを零した。
「でも確かに、喪服もクリーニングに出していますし…。いろいろ用意することもあるので、来たばっかりで申し訳ないのですが帰ってもいいですか?」
「いーよいーよ。気にすんなって。また明後日来てくれや」
「……、はい」
荷物を手早くまとめ、百子は事務所から出て言った。
あとに残されたクソ上司と俺は階段を下りる音が完全にしなくなったのを待って口を開く。
「きな臭くね?」
「自分に関わる隠し事が下手だな、椎名は」
意見が一致した。俺たちと百子はそれなりの付き合いだしな、違和感ぐらいは気づける。
言いながらクソ上司は携帯を取り出しポチポチとどこかにメールをしはじめた。一件だけではない。メル友がいるという話は聞いたことがないから、仕事関係のだろう。
「なにしてんだ?」
「んー、職権乱用?」
いつもでは。
送信し終わったのか、うーんと腕を天井に伸ばした。
そして輝かんばかりの笑顔で宣言する。
「よぉし、ケンジ! 今から家に帰って喪服を探すぞ!」
「はあ!?」
「赤の他人の全く見知らぬかかわりもない人間の通夜を見に行こうじゃねえか!」