十二話『新入社員が来た!』
高校を卒業して三年目の春が来た。つまりそれは、探偵事務所に所員として入って三年目ということにもなる。
ぼんやりとした頭のまま朝飯を二人分つくり、掃除機をかけて、いまだに寝ているケンイチの部屋に蹴りを入れ、玄関に昨晩まとめておいたゴミを手に外へ出た。
家近くの収集場にゴミ袋を放り、入学式から数日すぎて緊張の面持ちが取れてきている小学一年生とすれ違いながら事務所のほうへと歩いていく。
事務所からも当然ゴミは出るし、この地域は朝にゴミを出すように言われている。つまり朝から事務所のゴミ出しもしなきゃならないわけで、すさまじくめんどうくさいのだが仕方がない。自宅から歩いて十分程度なのが幸いか。
春とはいえ朝は寒い。羽織るものを持ってくればよかったと考えていると、二階の事務所へつながる外付け階段に座っている人間が視界に入った。
女だ。染めているのかは分からないが若干色素の薄い髪。長髪を後頭部でまとめている。
リクルートスーツを着ておりパンツスタイルだ。ヒールのついたパンプスは歩きにくそうだなぁと見るたびに思う。
どうするか一瞬考え、悩んでいても仕方がないので声をかけることにした。
「おはようございます。依頼人ですか?」
「おはようございます。…いえ、違いますけど」
少し警戒した顔をしつつも挨拶を返すあたり、律儀な人間なのだなと思う。
しかし依頼人じゃなければ誰なんだ。同業者か?それならこちらの番号を知っているだろうしまずアポイントとるだろうな。
「じゃあ誰だあんた」
依頼人でなければガチガチに丁寧である必要はない。
多少ぶっきらぼうに言うと、女は立ち上がり聞き返してきた。
「あたしが聞きたいです。誰ですかあなた」
会話が平行線すぎる。
答えてもいいだろう。むしろ困ることもない。
というかこの女、今手元の携帯画面がちらっと見えたが110番をディスプレイに表示させている。爽やかな朝からなんてことをしようとしているのか。
「ええと、ここの探偵事務所で働いている人間だ」
「あなたが?」
「ああ。城野…、うん、城野」
あんまり自分の名前は好きではないのでこの場では省略させてもらう。
どうせあとでもう一回名前を紹介する羽目になるだろうし。
「『城野』ですか。事務所の所長さんではなくて、その息子さんでしょうか」
「そうなる」
なんだか察しが良すぎるな。
頭の回転が速いというより、答え合わせをしているような感じだ。気にしすぎか。
「そうですか…」
「あんたは」
「はい、今日からここでお世話になります。椎名百子です」
「…え? ごめんもう一回」
「ここで働くことになった椎名百子です」
聞き間違えじゃなかった。
ここ? どこ? 探偵事務所で? 働く?
「…人生を棒に振るにはまだ早いんじゃねえかな」
「なにがですか?」
「いや…」
少し年齢が読みにくいが、それでも十代後半から二十代前半ぐらいだろう。
花も恥じらう乙女がなんでこんなところを就職先にしてしまったのだろう。罰ゲームだろうか?
いや、待て。
――というか、新入社員なんて一度もケンイチから聞いたことない。
臨時の募集は何度かかけていたけれど(だいたい知り合いだった)、正職員は今まで一度もない。
何を考えていやがる、あのクソ上司。
「確かに勤め先はここ、城野探偵事務所なんだろうな?」
「え、ええ。そのはずですけど」
「対応したのは?」
「城野健一さんです。あ、健康の健のほうの。…もしかして、あたし来ることを知らなかったんですか?」
「そのもしかしてだ」
「はい?」
椎名は怪訝そうな顔になる。
俺だって同じような顔をしていることだろう。
「なんでそんな…。所長さんはまだ来ないんですか?」
「来ないだろうな。あの馬鹿は今も惰眠むさぼっているはずだ」
「寝ている? この事務所、九時に開くのではないんですか?」
「へ? 九時半だけど」
「え!? だって、九時に来るようにって聞きましたよ!?」
なるほど、だから八時四十分ぐらいの今ここにいたのか。
事務所が開いていなかったから階段で待っていたというわけか。謎が一つ解けた。
「誰から?」
「あ…その、あたしは、親戚の方から紹介されて、それで、そのまま来ているので」
きゅうに威勢がしぼんでしまった。もごもごと何か話しているが内容がさっぱりわからない。
連絡の行き違いというより自分で連絡はしてきていないということだろうか?
なんだか引っかかるところが多い女だな。
「ふうん…あと気分で開く時間が変わるから。その時は九時の気分だったんだと思う」
二日酔いの時は十二時始まりだったりする。
こんなクソみたいな時間変更でも困ったことがない。というのは、客が滅多に来ないからだ。あと事前連絡があった場合には時間に間に合わせるし。俺が。
「なにそれ!? 自営業者としてどうなの!?」
「それを俺に言わないでくれ」
荒れているなあ。
とはいえ、この椎名について俺もクソ上司に聞きたいことがあった。
そもそもなんでこんな大事なこと黙っているんだよ。どうせ「面白そうだったから」とかいうろくでもない理由だろうけど。
「とりあえず、一度帰るわ。あんたはどうする」
「……」
「コーヒーぐらいは出せる」
「…行きます」
やっぱり寒かったのだろう。それかここでぽつねんと待つのが嫌になったのかも。
あ、でも男ばっかの家にあがるって嫌じゃなかろうか。大丈夫だといいんだが。
…と、ここで本来の目的を思い出した。
「あ、悪い。事務所のゴミ出しをするの手伝ってくれないか。かさばってるんだ」
「ええ!? あたしが!?」
「しょうがないだろ。俺がゴミ捨て終わるまでそこに突っ立っていてもいいけど」
椎名は綺麗に紅が塗られた唇をひん曲げて考え事をした後に、手伝うことにしたらしい。
軽いほうのゴミ袋を持ちながら彼女は「人使いが荒い…」とつぶやいた。
これ以上の人間に今から会いに行くんだからウォーミングアップにはちょうどいいだろ、と胸の中で開き直ってみた。