十話『母の日』
母の日にカーネーションというのは誰が考えたのだろう、と俺は花屋で考えていた。
バレンタインデーのようなお菓子会社の陰謀ならぬ花屋の陰謀だろうか。まあこれで今日の世間の花屋は金が動きまくっているんだろうから母の日様様である。
などと汚いことを思いながら。
目の前にはこの日のためだけに咲くことを強要された無数の赤いカーネーションがバケツに突き刺さっている。
値段はといえば、なかなかの勝負を消費者に売っていた。
小遣いには困ってはない。
というのも、去年の冬に初めて『依頼』に同行して依頼、ちょいちょいケンイチに誘われることがあったのだ。賃金は貰っているがたぶん相場では非常に安いのだろうと思う。
ケンイチの悪いおともだちに金額を言ったら「諦めろ」とだけ言われた。何をだ。
とにかく、お金には困っていない。
「ただ慣れていないだけなんだよな…」
俺は小さくスプレーカーネーションとかいう花に向かって呟いた。そばで同じように花を見ていた父子が変な人を見る目で俺に視線を送ってきた。
義理が付くもののあの二人は俺の両親だ。
だというのに今までそのようなイベントはたいがいスルーしている。気恥ずかしいのもあるが、おばさんがあまりに必死に知らないふりをするので俺もついそれに合わせてしまった。
おばさんは自分で産み落とした子の母にはなれなかった。
だからなのか、「母」というワードにけっこう忌避感があるようだ。
俺は自分の出生を知ってしまった日から彼女を母と呼んだことはない。
残酷なことをしてしまったと思う。後悔するにしても遅すぎる。かといって今更変えるのもなにかひどく意識をしている感じがする。
まあ、だから、こんな花でちょっとだけでも伝わればいいと思うのだ。
「あなたは俺の母ですよ」なんてことを。恥ずかしくて口にはとても出せないし。
実の母親を思い出しそうになり頭を振る。
あっちはあっちで幸せな暮らしでもしているだろう。
俺は俺で生きていく。
赤いカーネーションを一本買って、小さなリボンを付けてもらった。
買ったはいいものの、いつ渡そうか。
ケンイチの前で渡したら絶対おちょくるか嫉妬するんだよな。おばさんが絡むとあいつは極度のポンコツになるから困りものである。
そういや普段から困りものだったな。
などとくだらないことを考えながら玄関のドアを開ける。
「あ、おかえり」
おばさんがいた。
「うわぁっ!?」
とっさに手に持っていたカーネーションをバッグの中に突っ込む。茎が折れるようないやな感触がしたがきっと気のせいだろう。
ついでに傘立てもひっくり返して足の直撃して非常に痛い。
「な、なんでいるの!?」
「だってここわたしの家だし…」
正論も正論であった。
おばさんは怪訝そうな目で俺のバッグをのぞこうとしてきた。
俺は必死でバッグを抱きしめて視線から逃れようとする。
なんかエロ本を買った時以上に恥ずかしくなってきたぞ!
「今なに隠したの?」
「なんでもねえよ」
「ケンジ君は嘘をつくと唇を舐める癖があるんだよ。知ってた?」
「マジで!?」
「嘘だよ」
見事に引っかかった。
かわいい顔して平然とこのようなことを言えるあたり、あいつの嫁だなと思う。
俺が冷汗をかいていると、バッグから視線を外しおばさんは微笑んだ。
「まあいいや。これからお夕飯買いに行ってくるよ」
「うん…」
助かった。
帰って来て早々バレるとはふつう思わないもんな――
「細長い花瓶は押入れの中段の奥にあるからね」
「うん…うん!?」
普通にばれていた。しかも素直に返事をしてしまった。
俺が顔を真っ赤にしているのを見ておばさんはくすくすと笑いながら玄関のドアを押す。
「仮にも探偵事務所の副所長を舐めないでね。じゃ、いってきまーす」
「…いってらっしゃい…」
玄関のドアが閉まり、俺はがっくりと肩を落とす。
サプライズクソ下手か俺は。いや、タイミングが悪すぎるだけなのかもしれない。
どんな顔をして会えばいいのだろうと思いながら傘立てを立て直した。
そうして、細長い花瓶を見つけて。
カーネーションの茎のちょっと折れた部分をごまかして。
柄にもなく照れの感情を持て余しながら俺は待っていた。
だけど、おばさんはそれっきり帰ってこなかった。
一日たち、一週間過ぎても帰ってこなかった。
おばさんの父が探偵事務所に現れたのは、母の日から十日たったころだ。
神妙な顔で彼は焦燥したケンイチに言う。
「城野、落ち着いて聞け。おそらくもう万里江は生きていない」
カーネーションは枯れていた。