二十九.五話『決断』
城野が診察室に入ると、百子の言ったとおりに姫香の処置はすでに終わっていた。
点滴台には輸液がぶら下がり、姫香の腕に伸びている。当の彼女はうつらうつらとしているところだった。咲夜がその顔をじっと見降ろしている。
「先生、状態は」
城野が神妙な顔で聞くと、器具を看護師に片付けさせながら医師はじろりと彼をねめつけた。
年老いた男だがその眼光は鋭い。城野は、生前義父が苦手にしていたことを思い出した。今ならその理由がなんとなくわかる。
「右乳房に幅一センチ、深さ二センチ弱の裂創。浅い傷だが念のために三針だ。今は部分麻酔が効いているが、あとで痛み止めと解熱剤を出す」
「軽いほうか?」
「アホ。確かに浅いものであったが心臓部に近い刃物傷が「軽い」で済まされてたまるか」
返す言葉もなく、城野は黙る。
「さっきの兄ちゃんもだ。顔の傷、たぶん消えないぞ。あれは深いひっかき傷だった」
「……」
「城野。何をしたかは興味ないが、自分の部下ならそれ相応の責任を持て」
「…分かってるよ」
「まったく…喧嘩までおっぱじめて。親父と同じだと言われても仕方ないぞ」
「…分かったよ」
やらかしたことには最低限しか聞かず、ほぼ無干渉なのがこの医師のいいところなのだが。
ここまで干渉してくるということは城野を気にかけているのか、それとも状況があまりにひどいのか。もしかしたら両方かもしれないと城野は思う。
咲夜は二人の話が終わったことを見て取ると、「あの」と医師に話しかけた。
「少しの時間、どこかお部屋をお借りできませんか。彼と少しプライベートな話がしたいので」
〇
城野と咲夜は普段は職員の休憩室として使われている部屋に通された。
看護師が――医師の妻らしい――お茶を淹れるか聞いてきたがさすがに二人そろって辞退した。迷惑をかけすぎる。
「で? プライベートな話ってなんだよ」
「もう限界かと」
咲夜は城野の眼を見据えて言った。
彼女は相変わらずハイライトの少ない瞳だ。
「夜弦さんの記憶が戻ってきています。それは分かりますね」
「ああ」
「精神状態まで戻ってきています」
「……」
「そして、自らのことをあなたが――私たちが一切明かさないのを怪しんできています。違いますか?」
「そう、だな」
ついさっきの言い争いでも、いや少し前からずっと城野は夜弦に疑念をもたれていた。
城野が夜弦に関することについて何かを知っていると確信めいたものがあるようだった。あのパーティー以降よそよそしい態度に変わってしまったのでそこで何かあったことは明確だが、彼が語らないのであればどうしようもない。
ときおり記憶を失う前と思われる言動をする時があるが、彼自身は気づいていないらしい。
「端的に言いましょう。非常にまずいです」
「秘密を抱え続けることがか?」
「その通りです。私はボスから口止めを、あなたは――」
「怖かったから、言っていない」
お茶を貰っておけばよかったと城野は後悔する。
口の中が急速に乾いてしまった。
「あいつが記憶を取り戻したとき、真っ先に殺されるのは俺だろうから」
「誰もその点については責めません。人間として当然の感情ですし、おこないでしょう。それをボスも見越していましたしね」
慰めにしては淡々としすぎた声だった。
「それに、彼は一気に名前以外の記憶を失いました。つまるところ『鬼』を殺されたことがどれほどのショックだったのかということです。それを無理やり呼び覚ましてしまえば彼は必ず壊れるでしょう」
そもそも忘れるという自己防衛を外部が崩してはいけませんから、と咲夜は付け加える。
忘却というのは心を守るための手段だ。
無理やり思い出させることが功をなすとは限らない。そして、壊れた心は修復はされるが完全に治ることはない。
国府津としての咲夜にとって、そして彼女のボスにとって、夜弦は壊れては困る存在だった。
「時間は解決してくれませんでした。悪化しています。潮時でしょう――内側から彼が崩れる前に、真実を話さなくてはならない」
「あんたのボスは、なんと」
「同意見でした。渋ってはいましたが、それしか手はないということで納得させました」
なぜ強制したような言い方なのだろうか。
一番焦れていたのは、もしかしたら咲夜なのかもしれない。
「そこで私は提案をします、所長。いえ、城野憲一。このまま逃げるか、彼に真実を告げるか」
「なっ……逃げる?」
「ご安心を。ボスからの言葉ですから。どちらを選ぼうと手出しはしないと」
「俺が逃げた場合、ツルはどうなるんだ?」
「さて。未知数です」
「あんたのボスが簡単にそんな提案するわけないだろ。何か絶対裏がある」
「大丈夫です。見つからなければ何もないでしょう。運が良ければ、ですけど」
「咲夜はどうなる? あんたは逃げられないんじゃないのか?」
「それを言ってどうしますか? 残留します? 私ごときの存在のために、自己犠牲を払って?」
咲夜は薄く笑った。
城野からしたらあまりに不器用な皮肉気な笑みだった。
「私はもともと、『国府津』の敵対組織に特攻するための使い捨てでした。それを夜弦兄さんが戦うすべを叩き込んでくれたので、ここまで生きています。この命は夜弦兄さんによって助かったといっても過言ではありません。同居人も少しはありますが」
「…ツルのためなら死んでもいいと?」
「そこまでは言いませんが。しかし、まあ、正気に戻るための足台なら喜んでなりましょう」
「あんたが死んだら前原さんはどうなる」
「ああ大丈夫ですよ。私が死んだら後を追うように、そう契っているので」
さらりとそのようなことを言うものだから城野は何の話をしていたかを一瞬忘れる。
夜弦のように目の前の敵をがむしゃらに殺すのではなく、理性的に戦っていたからまともな部類だと城野は捉えていたが、そもそも人を殺すことに慣れている人間がまともなわけがなかった。
めまいを押さえながらも会話を続ける。
「つまり、ツルを止めるんだな」
「できる範囲で。まあ、怒り狂った夜弦兄さんを前に五分間生存できればいいほうでしょう。その間にボスに連絡するように手筈は整えておいています」
そこまで覚悟があるとは城野も思わなかった。
ただの夜弦の援助役、城野の監視役だと思っていたが、彼女は彼女なりに先のことを考えていたのだ。
すなわち、記憶を取り戻したあとのことを。甘い未来があるはずないと考えて。
自分の死を考えながらずっと夜弦たちのそばにいたことになる。気がふれていなければ耐えられない。
「……一週間待ってくれ。それまでにどうにか心の整理をつける。今日はむり」
「何をです?」
「ツルに、国府津夜弦に真実を言おう。何があったのか、俺が何をしたのか」
「所長。私のことなら――」
「あんたのことなんか一切考えてねえよ貧乳。けじめをつける時が来た、それだけだ。そのきっかけがあんたとの、この話だったんだ」
偶然とはいえ、獲物を横取りしてしまった。
まだそのことを謝れていない。それだけでも言うべきだと思った。どんな結果になろうとも。
せめて姫香の容体が安定するまでは傍にいてやりたいと思うのは我儘だろうか。
「いいのですか。下手をすれば百子さんと姫香さんも彼は殺しますよ」
「……うまいこと考えるさ」
「私も努力はしましょう」
「ずいぶん優しいじゃねえか」
「でしょう? さて、そろそろ出ましょう。百子さんたちは散歩から戻ってきたんでしょうか」
咲夜が部屋を出ていく。
城野もついていこうとしたが、足に力が入らずに立てなかった。
見れば手も小刻みに震えている。
隠そうとしてもそれは止められるものではなかった。
「怖いなぁ、なんて言おう」
蛍光灯の光がやけにぼやけて見えた。