二十九話『夜道』
ほんとうに、ただ歩いているだけだった。
夜に浸った町で、百子さんが僕より少し前にいる。
ブーツがアスファルトとぶつかり合うたびに固い音があちらこちらに反響する。彼のロングスカートの裾がゆらゆらと金魚の尾のようにたなびいているのをなんともなしに見ていた。
その裾がぴたりと動きを止める。
目線を上に動かすと、百子さんが自動販売機の前で立ち止まっていた。
「寒いね~。ヨヅっちは何飲みたい?」
「僕は何も…」
「おしるこでいい?」
「…コーヒーで」
手渡された缶コーヒーの熱さはかじかみ始めた手にじんわりと広がる。
同じメーカーのカフェラテを啜りながら百子さんは再び歩き出した。僕も無言でついていく。
星もない夜で、ぽつぽつとある街灯が僕らの足元を照らしている。それとも街灯のせいで星が見えないだけなのか。
百子さんは振り向かないままに僕に向けて言う。
「こんなに静かだと音楽でも聞きたくなるね」
それはなんとなく分かる。
とても静かだと、僕の存在がバラバラになってしまいそうで、それから逃げるように小さい頃の僕はずっとラジオを付けていた。たまたま周波があった外国語の放送を聞きながら眠りに落ちたことをいまだに覚えている。
「ねえ、ヨヅっちはどんな音楽が好きなの?」
「僕、ですか」
「うん」
「僕は…なんでしょう。あんまり、これといって聞いたりはしませんでした」
そうなんだ、と百子さんは呟いた。彼に見えないだろうけど僕は頷いた。
ふと、思い出したことがあった。
「でも」
自分でも無意識に続きの言葉を言ってしまいびっくりする。
百子さんはわずかに振り向いて不思議そうな顔をした。
「…僕、好きな歌い方はあって。伴走はなくて、歌だけの」
「アカペラ?」
「はい。あんまり声は張らないやつです。こう…」
「子守歌みたいなやつね」
もう一度頷く。恥ずかしさにわずかに首が熱くなった。
百子さんが息を吸い込んで、音を出す。
僕はいつのまにか足を止めたことにも気づかなかった。
あまりにもそのメロディは僕の心を痛めつける。
アメイジンググレイスだ。
母が、好きだった。
「待って」
街灯の向こうに彼が消えていく。
このまま深い暗闇に呑み込まれてしまう。僕の手の届かないところへ行ってしまう。
手を伸ばす。
さんざん人を殺したこの手は何を掴んだ?
どんなに人を殺してもあの人は二度と帰ってこないってわかっているのに。
「待って!」
百子さんが驚いたように肩ごとこちらを向いた。
歌声がやむ。
僕はひざから崩れ落ちながら、まるで子供のように叫んだ。
「おかあさん!」
駆けてくる音の後に視界が暗くなって何も見えなくなる。百子さんが僕の頭を抱いてくれているのだと気づくのに時間がしばらく必要だった。
目からなにかやたらと熱いものが零れ落ちてく。不快でしかたない。
「息を吸って」
言葉通りに息を吸う。
背中をさすられる。自分の背骨が手のひらで浮き彫りになる感覚が場にふさわしくなく滑稽だった。
石鹸の匂いが鼻孔に届いた。
「夜弦くん、ごめんね。まさか泣かせるなんて思わなくて」
「…百子さんは…」
「うん」
「どっちの味方なんですか…所長と僕の、どっちの…」
言葉も状況もまるでかみ合わない会話だったが、僕の頭の中には今それしかなかった。
さっき、百子さんはどちらが悪いとも何も言わず。
ここにくるまで先ほどのことを全く言葉にせず。
ただ、ほんとうに僕の頭を冷やすために連れ出したのだと気づく。反省会をするのではなくて、彼は僕が落ち着くのをただ見守ってくれていたのだ。
「ケンちゃんの味方に付けば、夜弦くんがひとりになる。夜弦くんの味方に付けば、ケンちゃんがひとりになる。だからあたしは中立の立場にいるよ」
「ずるい…」
「うん、ごめんね。ずるいでしょ。だけどあたしもこれが精いっぱいなの」
知っている。知っているんだ。
彼は常にだれも傷つかない立ち回りをしようとしている。
傍観者として徹しようとする咲夜さんほど彼の心は強くなく、良心は枯れていない。
良くも悪くもまっとうな人間だった。
「百子さん」
「なにかな」
「今日、人を殺しました。人の大事なものをたくさん壊しました」
「うん」
「僕は、あんなに憎んでいた連中と何も変わらなかった」
「そっか」
「どうしよう、でも、もう止まれないんです。全部殺さないと僕はここまで来た意味がない。僕の今までがすべて無駄になってしまう」
「無駄になっちゃうか」
発作のようにいろんなものを吐きだしていく。
溜まりきったものを、この優しい青年にも注いでしまう。
「百子さん、僕ね」
「うん」
ああ、だめだ。これ以上は。
「姫香さんが好きです。大好きなんです。でもそれとはもっと別に、抱えているものがあるんです」
「…それは?」
視界の端に、見えるはずのない糸が見えた気がした。
真っ黒に染まった呪いが。
「姫香さんを、殺したい」
百子さんの手が止まった。
しかしそれほど経たずにいまだ涙を流し続ける僕の背をさすり始めた。
その手が微かに震えていることを彼自身は気づいていただろうか。
僕は僕を失い、
僕は僕を取り戻していく。
六章『スケープゴート』 了