六話『報酬振り込みまでが依頼者です』
所長が承諾の旨を綴った返信を昼前に送ると、夕方には返事が返って来ていた。
依頼者の電話番号が添えられていたのでさっそくかけてみると、相手は急いた声ですぐにでも話をしに行きたいと訴えて来た。
だが依頼人のいるところを聞いてみると車で一時間半かかるそうで仕事もちょうど慌ただしい時期なので夜の十時ほどになってしまうとのこと。
個人経営なのでその時間まで事務所を開けておくことも可能なはずなのに、所長は翌日の朝にするといって聞かなかった。
「さすがにひどくないですか」
ひそひそと百子さんに訴える。
ちなみに咲夜さんと姫香さんは骨董屋で片づけをしているのでここにはいない。
「心配なのは当たり前だし、ずっと依頼を請けてくれるところがなくて依頼人はやきもちしていたかもしれないのにそれを…」
「別にケンちゃんは夜に応対するのがめんどくさいわけではないんだ」
百子さんは苦笑いした。
「十時に来るとするよ。それで、依頼を聞くのが平均で一時間ぐらい。それで十一時だね。家に帰るころには日付が変わっているかもしれない」
「そうでしょうね」
「仕事で疲れているうえに気が高ぶったまま深夜に帰るんだよ? 危ないと思わない?」
運転というのは注意力と集中力が大切な作業だ。
それらが鈍ってしまっていたら――事故とまでは行かなくても、なにかしら危険な場面に遭うかもしれない。
「そういうものですか」
「うん。朝を待って頭を冷ましてもらう意図もあるしね」
…一応依頼人のことを考えてのその選択だったのか。
近頃どうにも所長に反抗的になってしまう。
「ふふ」
「? どうしたんですか」
「ヨヅっちの疑問、ケンちゃんのと同じだったな~って思って」
「え?」
ちらりと所長を伺うとまだ電話をしている。
依頼人が引き下がらないらしい。それでもあくまで冷静に淡々と説得していた。
昔を懐かしむような目で彼を見ながら百子さんは続ける。
「先代が絶対に譲らなかったの。営業時間もそうだけど、依頼人を危険にさらすわけにはいかないって言い張ってね」
「へえ…」
先代所長――城野健一。彼にそんな一面があったのか。
だいたい伝え聞くのが恨みつらみのエピソードだったからそういう話はとても新鮮だ。
考えてみればそうか。所長も時折利用している、先代所長が築いたあまり表には出せないコネクションだってタダで手にはいるものではないはずだ。
そこには金とか信用とか誠実とか、いろんなものを使ったはずで。
単なる人間のクズであったならそこで終わっているのだから。
「すごい良いエピソードを聞いたって顔してるけど、クズには変わりないからね。従業員のあたしたちはいっつも振り回されていたし」
先ほどまでの望郷のまなざしはどこへやら、光のない眼でそう締めくくった。
台無しである。
○
「明日の朝九時に来るってことで落ち着いた」
少しばかり疲れた顔で所長がお茶を啜る。
「ふぅん、早いね」
「夜にかっ飛ばしてこられるよりマシだろ。モモ、調べ物」
「なに? メセウスの会?」
「そうだ」
「どこまで?」
「出来るところまで」
「人使い荒いなぁ」
文句をいいながらも百子さんはすぐにパソコンに向かう。
出来るところまでってどこまでなんだろう。一般的には調べられるところまでなんだろうけど、百子さんは電子世界の住人だからなぁ。
断続的なキーボード音が事務所に響き渡ると共に、咲夜さんたちが帰ってきた。
「戻りました」
「ああ。依頼人は明日の朝に来ることになったからよろしく」
「そうですか」
突然言われても咲夜さんは動揺ひとつない。
後ろからひょっこり顔を覗かせた姫香さんも似たような反応だった。
まあ、依頼の決定権は所長にあるから実際に動くその時まであまり関係ないもんな。僕もそうだけど。
暖かい飲み物が欲しくなったのかてこてこと姫香さんは給湯室に行く。
そして冷蔵庫を開けた音のあとてこてこと戻ってきた。かわいい。
「牛乳、買ってくる」
なかったらしい。
まだ中身は入っていたはずだけど。彼女の納得いく分量には届いていなかったか。
「おう。金は?」
「ある」
「そうか」
「いってきます」
「気を付けて」
短く所長と会話をして姫香さんは軽く手を振って事務所のドアをくぐった。
歩いて十五分ぐらいのところにスーパーがあるからそこだろう。僕もたまにお世話になっていたりする。
見送った後に自分のお茶を手にして咲夜さんはつぶやく。
「姫香さんって寄り道しませんよね。直行直帰っていいますか」
「俺もそんなに厳しくは言っていないんだけどな。ただ単につまらないんじゃないか、ひとりは」
この辺あまり面白そうな店もないので寄るところがないっていうのもありそうだが。
ひとりの時の遊び方を分かっていないのかもしれない。あ、僕もだ。
「年の近い友達でもできればいいんだけどね」
百子さんがパソコンを見つめたまま言う。
友達か…。
そういえば僕にもいないことに気づいて少しだけ死にたくなった。