十八.五話『女と姫香』
姫香は長々と世間話に付き合ってやっている添田青年を遠くに見ながら、ちびちびとジュースを飲んでいた。
そして、視線を感じると空になったグラスをテーブルにおいて離れる。広い会場なので姫香を見失わない様にするボディーガード陣は大変だろうが、残念ながら彼女には気遣いというものが足りない。
「あの、あっ」
後ろから姫香に声を掛けようとしてきた男をうまいこと人の多いところで撒くと、息を吐いた。
百子に施された化粧、露出の多いドレス、そして元々の整った顔の造形も相まって一度は声を掛けてみようと接近してくる男が多い。
一度喋ればボロが出ることは、さすがに姫香自身も理解していたので、こうしてかわし続けているわけだ。
姫香がちらりと城野たちを探せば、遠くの咲夜と目が合う。「みえています」と言いたげに彼女が頷いた。
視線をずらして城野がいないことに気づき、はてと思う。
夜弦がそこにいないことは知っていた。彼が会場から退室するところを姫香は見ていたのだ。
とても具合が悪そうだった。いまだに戻って来ていないのでよほど辛いのだろう。
そうすると城野が探しに行っているのだろうか。
胸騒ぎを覚えたのとほぼ同時に。
どん、と肩に誰かがぶつかり、姫香はよろける。
仰ぎ見ればシャラシャラと長いピアスを付けた女が立っていた。
ベージュのドレスに、首元には重そうなネクレス。
「あら、ごめんなさい?」
知らない顔だ。
ただ嫌がらせでもしてみたくなったのだろうと姫香は結論付け、何も言わずその場を離れようとする。
「ずっとお会いしたかったのよ、鏡花さん」
さすがの姫香もきょとんとした。足を止めてまじまじと相手を見る。
『鏡花』というのはこの日の為に用意された名前だ。だから、"ずっと"というからには『姫香』と呼ぶのが正しい。
この会場のどこかで名前を盗み聞き、馬鹿正直にその名を呼んできたのだろう。さっそく馬脚を現している。
簡潔にこの状況をまとめれば、あまりろくでもない事が起きる匂いがする。
「誰」
「あの人の理解者よ。あなたとは違ってね」
どうやらこの女、自己完結した世界で生きているらしい。会話に必要な共通認識ができていない。
い姫香は何を言われているのかさっぱりわからずただ聞くしかなかった。
「十数年もあの人に守られていたあなたとは違う。わたしはあの人を守るの」
「…十数年」
そこでようやく『鬼』のことだと姫香は思い当たった。嘘でもここまでピンポイントに指摘してくる人間はいないだろう。
母の下で六年生き、城野の下で二年ほど生きている。
その間をつなぐのは十年ほどの『鬼』での生活。
そうするとこの女も『鬼』の関係者かと姫香は思考する。しかしまったく見覚えがない。
壊滅する前、それか した後か――そこまでは分からないが、『鬼』に所属していた誰かとつながっていると考える方がいいだろう。
一体誰の話をしているというのか。
そう考えて、ぞっとした。
今、この女は「十数年守られて」と言った。
『鬼』で長期間にわたり姫香の面倒を見ていたのはたったの二人だ。
ひとりは、数か月前に夜弦に殺された長谷。
もうひとりはーー
「……『鬼神』……」
声にならぬ呟きは周りのざわめきに掻き消えた。
生きている、だろう。
姫香はすべてが終わって始まったあの夜に、騒ぎの中であの男が逃げ延びたところまでは知っている。
だが、まさか。このパーティー会場にいるとは限らないとしても。
いやそもそもこの女は姫香という本名こそ知らなかったものの顔は分かったらしい。
――今の自分が見つかったということか――?
「あの人は渡さない。あの人を守れるのはわたしだけ。あの人を満たすのはわたしのみ」
「何の話、している」
女の中で感情がヒートアップしてきたのだろう。姫香は肩を掴まれた。
痛いほどに掴まれる肩。
本人としては威嚇なのかもしれない。だが、冷静に見ればそれは怯えと不安を含んでいた。
姫香が、怖いのだ。『あの人』の女だということをわざわざ言いに来なくてはいけないほど自分が不利であることを理解していることが態度に直接出ていた。
姫香は表情を変えず、ただ目の前の女を見ている。
「あんたなんてもういらないってことよ」
「……」
「『鬼姫』の名前はわたしがもらう。あの人が唯一愛する『鬼姫』に、わたしが成る」
これで確定的だ。この女は『鬼』、さらには『鬼神』とつながりがある。
姫香はわずかに口端をゆがめた。
その変化に気づけないまま女は続ける。
「あの人を救えるのはわたしだけなのよ」
姫香は首を小さく振る。
「あいつ、守られるほど、弱くない。満たされるほど、浅くない。おまえにも、誰にも救えない」
「な…」
「それと、お前、思うほど、『鬼姫』、愛されていない」
「そんなに――」
爪が皮膚に食い込んだ。
「そんなに悔しいの? あの人から離れたくせに、まだあの人を取られたくないのね?」
「……」
「血だけが取り柄の、力もない、流されてばっかりの女の癖に…」
どうやらそれなりに姫香――『鬼姫』のことを聞いているようだった。
話したのは十中八九、『鬼神』だろう。
どのような意図があって吹き込んだのかまでは不明だが、人心掌握に長けていた男のことだ。こうなることを予想できていたはず。
嫉妬深い女に姫香のことをふきこんだのは気まぐれだけではないにちがいない。
――間接的に、『鬼神』は何を伝えたい?
「……」
それにしても一方的に絡まれた挙句、ここまで言われるのは姫香とて些か気分が悪い。
どうしたものかと考えて、少し言いかえしてみようと思い立った。ここは人目が多くある。最悪殺されるまでは行かないだろう。
姫香は一応口に出す前に自分の言うことを確認する。
確認したうえで、言った。
「でも、私、美人だ。お前より」
美醜の評価は正直姫香にはぴんとこない。
ただ幼いころから長谷や『鬼神』にはしばしば顔を褒められていた。だからそれなりには見れる顔なのだと本人は自覚している。
女は目を見開いた。
「私は、あいつ、好みに、なるよう、育てられた。それに、敵うか?」
義兄をまねて不敵に笑って見せれば女の唇が震え出す。
女は歯を食いしばり、手を上げた。
このまま頬を殴られると予想し、姫香は身体に力を込めた。
「……なにか、お嬢様に言われましたか?」
だが、実際にはそうならない。
いつのまに来たのか咲夜が女の手首を掴んでいたのだ。
無表情のままに咲夜は続ける。
「それならばご無礼をお許しくださいませ。しかしながらここで感情に任せられると、後々困るのはあなた様も一緒ではないかと」
「…分かってるわよ!」
手を振り払うと、憎々しげに咲夜を睨みつける。
「あんたの顔も覚えたわよ!」
「それは結構」
捨て台詞に律儀に答え、足早に去っていく女の背を見送ると、咲夜はやれやれと首を振った。
「何があったか聞いてもいいですか?」
「名前が欲しいって」
「えっ、すごい要求をしてくる人間がいたものですね」
くい、と姫香は咲夜の袖を引いた。
「ひめ…鏡花さん? いかがなさいました? 怖かったとか」
「夜弦は?」
「ああ、どうやら階段で転けたようです。…あの人にしては珍しいことに」
ありえないーーとは言わないが。
本当に階段で転んだのか、咲夜も、そして姫香も疑問に感じていた。
「神崎…」
声に出さずつぶやいた。
どうにも嫌な予感がある。
夜弦と『鬼神』神崎が接触していなければよいが。
どこに祈ればいいか彼女は分からなかったが、とにかく祈るしかなかった。
だが、すでにそれは――手遅れだった。