十七話『鼻血、保護、それから溝』
神崎は場所の嘘まではつかなかったようだ。確かに一階下がると救護室があった。
あまり目立つようなことはしたくないが、鼻血が止まらないまま会場に戻る方が数倍目立つのでお世話になることにした。
さすがに対応してくれたお医者さんは僕の満身創痍具合に眉をひそめたけど大胆な言い訳で乗り切る。
多分乗り切ってない。しかし相手も厄介事のにおいを嗅ぎ取ったのか深くは突っ込んでこなかった。
少し落ち着いてから、インカムで居場所を伝える。全員に発信するようになっているのだ。
迎えに来るのは百子さんあたりかと思っていたのに、来たのは所長だった。
もう完全に油断していた。
差し出されたお茶を吹き出しそうになった。
「なにしてんだ」
「いえ、所長こそなにをしてるんですか」
「あんたを回収しに来たに決まってるだろ」
まったくもってその通りだった。
どうして変なボケをしてしまったのか。
「…やけにひどいありさまだな。どうした」
「えっとですね、」
お医者さんにした説明を繰り返す。
「…なるほど。休もうと思って非常階段に忍び込んだら足を踏み外した、と」
「はい…」
神妙な顔で頷く。
先ほどインカムで簡単に事情を説明したのだ。
――神崎の存在、そして一連の会話のことは、まだ、もう少し僕の中で時間が欲しい。
「まともな嘘をつけ」
一刀両断。
その言葉がここまで合うかってぐらいの気持ちよさで僕の言い訳は叩ききられた。
救護室のお医者さんや看護師さんはこういう不穏な空気にはなれているのか、「鼻血が止まったら呼んでください」と言って診察室から出ていってしまった。置いて行かないで。
他に患者もいないので必然的に二人きりとなる。
この、怖い顔の人と、二人きりである。しかも機嫌が悪い。泣きそう。
「え、えーと、添田君とかはいいんですか、ほっておいて…」
「社交的な意味ならモモがサポートできるし、武力的な意味ならサクがいる。俺らは脇役だぞ、ちょっといなくても問題ない」
「確かにそうですけど…」
ボディーガードだもんな。
「いやしっかし盛大に鼻血でたな。鼻は折れていないのか」
鮮血に染められたティッシュがゴミ箱に積み重なっている。
僕もこんなに出るとは思わなかった。
「無事です」
「ならいいけど。もしかしてツルは鼻血で死んだ人間第一号になるんじゃねえかな」
「今それいいますか? 鼻血出している人間の前で言いますか?」
さすがに死なないよね。まさかね。
鼻血で死んだなんて情けない死因すぎるんだけど。
「……」
「……」
盛り上がる話題もなく、救護室に静寂が訪れる。
どうしよう。
聞いてみようか。はぐらかされるだろうか。
血で湿ったティッシュを捨てながら、僕は頭の中でぐるぐると考えていたことを聞こうと決心した。
「所長。今聞くことでもないと思うんですけど」
「なんだ」
「どうして僕を保護しているんですか。本来は見も知らぬ他人のはずでしょうに」
ぴくりと所長の眉が動いた。
「保護したつもりはないけどな」
「してますよ。家も、仕事も、全部世話をしてくれている」
「捨て犬とおんなじだよ。拾ったからには責任持たないといけないって教わったから」
「僕は人間ですよ」
上げ足取りしているようでで申し訳ないが。
「ここまで誰も僕を探しに来ていないから捨て犬のようなもんかもしれません」
「…俺の言葉そのものを否定してるってことじゃないのは分かったから。自虐はやめろ」
「所長は別に、お金持ちなわけでもない。世間の体裁を特別気にしているわけでもない。なのに――どうして記憶喪失の、赤の他人の男をほうっておけなかったんですか」
拾い主が面倒を見るなんて、それこそ犬猫が対象の時ぐらいだろう。
人間を拾ったから面倒を見なくてはいけないなんてそれ何処のエロ本だよ。ブラックジャックにもそんな話し合った気がする。
僕は記憶喪失だけど、健康体だ。ピアノは弾けないけど。
どこかでしかるべき手続きをすれば再び社会で生きていくこともできるはずで。
何から何まで拾ってくれた人が面倒を見るほどではない。
だというのに所長はあまりにも過保護すぎないか。
個人のおせっかいと言う枠を超えてしまっているように感じる。
「なんか俺の悪口言ってるような気もするが…。別に、たいした理由なんてない。あわよくば万年人員不足の探偵事務所に勤めてもらえないかと考えただけだ」
今まで、百子さんと二人で回してこれたのに?
それどころか姫香さんや咲夜さんの二人も居て――あれ。
あの二人が加入したのは、話を聞く限り僕が入る半年ぐらい前だ。
短期間で一気に人が入ったってことになる。ただの偶然、だろうか。
「…本当に階段でこけただけか? なにかあったんじゃないか」
「なにも」
僕は首を振った。
「なにもありませんでした」
「…そうか」
この時。
僕と所長の間に、見えない溝が出来たと――そう感じた。
いや。
実はもっと昔からこの溝はあったのかもしれない。
それこそ、初めて出会った時から。