十四話『非常階段にて』
「……」
僕は瞬きをする。開会のスピーチからそれなりに時間がたった、のだろう。
その証拠に姫香さんが持つジュースは半分に減っているし、近くのテーブルに並んだ料理は食器の部分がだいぶ目立ってきている。
時間の感覚がなくなっているというか少し前から眩暈が断続的に襲ってきて周りの変化と自分の時間が合っていない。
おかしいな、風邪をひいているわけでもないのに。
女性たちのドレスの鮮やかな色がちくちくと目の中で弾ける。
男性たちのネクタイの様々な模様がぐるぐると目の中で渦巻く。
それはサングラスを通しても、瞼も閉じても突き刺さってくる。
硬いながらも社交的な笑顔で会話する添田君と、その横で機械的に頭を下げる姫香さんを遠目に見ているとそっと咲夜さんが話しかけて来た。
「具合悪そうですが、大丈夫ですか」
「はい、まあ」
「顔真っ青ですよ」
「なんだなんだどうした」
僕たちの会話に所長が入ってきた。
そして、僕の顔を見ると彼は顔をしかめた。スーツとサングラスの強面の人がそんな顔すると非常に怖い。
「…ツル、ちょっと抜けてこい。酷い顔してるぞ」
そんなにだろうか。
確かにさっきから嫌な汗はかいているけど――。
「でもボディーガードが一人でほっつき歩いてるのって不味いでしょう…」
「人前で吐くボディーガードのほうが不味いと俺は思う」
人前で吐きそうなほどの顔をしているらしい。
でも、これは仕事だ。僕だけサボるわけにはいかない。という日本人的思想が湧いて出たがぶっちゃけ言葉に甘えたいぐらいには気分が悪くなっている。
「怪しまれるのが嫌ならサングラス外して行きゃいいだろ。若干ガードっぽさが薄れる」
なんだその謎理論。
「インカムもあるし。何かあったら呼ぶから、休んでおいで」
さらには百子さんにも説得されて、断る方が逆に迷惑な気がしたのでありがたく従うことにした。
小声で謝ってから僕は会場から出る。
ちらりと振り向いた時、姫香さんは僕をいつも通りの感情のない眼で見ていた。
○
トイレの場所は事前に知っていたのでそこに向かおう。
そう思っていたのだが、トイレで明らかに聞いてはいけない類の取引をしているおっさんたちがいたので気付かれる前にUターンした。そんな場所で重要な話されると膀胱爆発しそうな人はキレるんじゃないか。
静かな場所をさがしてうろうろしていると、非常階段のドアを見つけた。
ノブを回してみると鍵はかかっていない。わずかに開けて中を見ると、人は居らずひんやりとした空気だけがそこにあった。
直接外に繋がる構造ではなくて建物内部にあるタイプのものだ。
入っていいのか悩んだが、開いていることだし、仮に怒られたら謝って出ればいい。
中から鍵も開けることが出来るので締め出される心配もない。
階段を降り、最初の踊り場のところで立ち止まって深く息をしながら座り込んだ。
そばにあった箱には空きのワイン瓶が詰められている。
…ゴミ置き場みたいだな。後で処分するために一時的にここで保管しているらしいが、非常階段にこういうのを置くのは違反ではないのか。
となると鍵が開いていた理由も分かる。いちいち施錠する手間が鬱陶しいのだろう。杜撰かよ。
「…はー…」
気持ちが悪い。
頭痛がする。
人ごみに酔ったとか、透けて見える汚い感情とか、観察するような視線とか、そういうものに――既視感を覚えた。
これが初めてであるはずなのに。
何度かこのような集まりに今までも出席してきたようなデジャヴがあった。
ざらざらとしたあの空気を僕は何度も感じて来た。
知らない。知らない。なにも知らないはずだ。だというのに。
――自分は何者なんだ。
何処からきて、どんな生活をしてきたのか。
そんなことを考え込んでしまっていた。
僕は人を殺せる。
そのための技術を持っている。
母は死んでいた。
首と胴体を切り離されていた。
誰かに助けられた。
昏睡していたところを所長に回収された。
記憶を失った。
でも――まだ終わっていない。
――バラバラな記憶を繋ぐピースはどこにある――?
繋がるはずなのだ。
これが百の人間がそれぞれ体験したことならそれらに一切関係なくてもおかしくはない。
しかし、これは僕一人の身に降りかかっていることで。ならば、一連の共通点ぐらいあってもいいはずなのに。
どうしても、思い出せない。
思考に沈み唸っていると非常階段のドアが開く音がした。
びくりとしてそちらを睨む。
――ウェイターが顔を覗かせた。先ほどの姫香さんにお酒を勧めたウェイターではない。
「あ、すいません」
反射的に謝ってしまう。
「お構いなく…というか、まあ、お互い様ですね」
ウェイターは困り顔で笑った。
まあな。どちらも悪い。
現に彼は二本、ワイン瓶を持っていた。ここに置きに来たのだろう。
「体調がすぐれませんか? 救護室はこの下の階にありますが…」
「大丈夫です。少し、人酔いしてしまって」
優しげに聞いてくるウェイターに僕は首を振って立ち上がった。
頭痛は未だ続く。世界が揺らいでいるような気すらした。
でも、少しでも動ける姿勢になっておかないと――まずい。
彼から微量ながら血の匂いが、する。
そしてその視線は、僕を値踏みしていた。