八話『はじめてのこうかい』
時刻は八時を回っていた。
夏期講習に駆り出されていた翔太はため息交じりに帰路につく。
小学生の林太はとっくに帰宅しているだろう。
勉強はそこまで苦でもなかったが、こうも連日続いているといくら中学生とはいえ疲れが出てくる。
彼はゲームにも飽き、どうにもストレスの吐きどころを見失っていた。
だから。
だから、あのようなことに手を出してしまったのだ。
きっかけは些細な事だ。
猫の惨殺死体をたまたま目撃してしまったのだ。
その光景に恐怖を感じるとともに内から湧き上がってくる残虐な本能を覚えてしまった。
幼児が笑顔で虫を潰すように、小学生が瀕死の鳥にとどめを刺すように。まだ善悪の境界線が甘かったからこそ凶行に及んだ。
この地域の猫は人懐こいのでターゲット選びには苦労しなかった。
思ったより、楽しいものでは、ない。
似たような手口で殺せば本物の犯人のせいになってくれる。見よう見まねで腹を裂いた。内臓までは出せなかった。
ただ自分の支配下でひとつの生命を潰すということはこれ以上ないほどの快感だった。
弟が猫を探すといったとき、彼は次にまたやるためにターゲットが多くいる場所を偵察しようとした。
予定が狂ったのは、話には聞いていた少女がいたからだ。
『アンティーク姫』。
長らく人の少なかった探偵事務所に突然現れた、ドレス風の服を纏う少女。
整いすぎた顔の為に「美人だった」という印象しか残らないという。
笑いもせず喋りもせず人形のように骨董屋の店主をしていると噂だった。本当に人間なのかさえ疑問に思われているほどだ。
服は動き回るとあってカジュアルなものであったが、異様なのはその瞳だった。
ビー玉のように無機質な目で彼女は翔太の顔を覗きこんだ。
命を脅かされたような恐怖を感じた。
すべてがばれてしまったような錯覚さえ覚えた。
――今思い出すだけでも寒気がする。翔太は無意識に腕を擦った。
だが、と考え直した。わざわざ会いに行かなければ二度と顔を合わせることもないだろう。
猫を殺すことと、あの瞳を恐れること。天秤にかけると今は瞳の方が重い。
しかしいずれは忘れてしまうだろう。そのときになったら、また――
「翔太」
まず幻覚と幻聴を疑った。
怯えすぎたあまりにとうとうそこに実在するように思えてしまったのか。
だが、確かに彼女は――アンティーク姫はそこに存在している。
昼間とは違う服装…フリルの少ないゴス服を着ていた。頭からつま先まで黒のためにまるで影から出てきたようにすら思える。
「どうしてこんなところに…!?」
探偵事務所からは離れている場所だ。
偶然歩いていたにしても、あまりに出来過ぎている。
「林太、前、教えてくれた」
「な、なにを…?」
「塾。同じだって。どこ、通るかも」
「……」
待ち伏せされていたと気付くのにそう時間はいらなかった。
アンティーク姫は足音も立てずに近寄り、昼間のように翔太の目を覗きこんだ。
ぶわりと全身の毛穴から一気に汗が噴き出した。
冷汗なのか脂汗なのか彼には判断ができない。
「お前、殺したな」
静かに、淡々と。
アンティーク姫はつぶやく。
「きもちよかったか?」
「は…?」
「湯気、でていたか。最期のなきごえは。表情はどうだった。痙攣したか。糞尿は。死んだ後に触ったか。固まる肉の感触は。冷める温度は」
怒涛の質問攻めだ。
責め立てているのではない。料理の味を聞いているかのように、気になったことを聞いているような調子なのがさらに翔太を怖がらせた。
――狂っている。
自分のことは棚に上げて、そう思った。
「こ、殺して…ない…」
苦しげに呼吸しながら、それでもなんとか否定した。
ばれてはいけない。人生がめちゃくちゃになるのは目に見えて分かっている。
命を一つ奪っておきながら、自分の未来を案じた。
「そう」
アンティーク姫はあっさり引き下がる。
これで終わりだと胸を撫で下ろしたのがいけなかった。いわば身構えずにボディブローを食らってしまった形だ。
「一匹。違う死にかた、してた」
中学生の彼にはまだ通信の早さや情報量などは理解できない。
科学の仕組みを知らなければ目の前に出た事象は魔法に変わる。
今まさにそれを彼は味わっていた。
アンティーク姫が裏でハッカーの手を借りていたとは露にも思わず、思考を読まれたかのように思いこんだのだ。
「わたしの、目、から、逃げる、できないぞ」
胸の中を知ってか知らずか、アンティーク姫はさらに追い打ちをかける。
少年を見る瞳は光をすべて吸い取ってしまうような深い闇だ。
翔太は悲鳴を上げながら逃げ出した。
○
逃げていった少年の背を見送りながら夜弦はゆっくりと物陰から姿を現した。
流石に夜に女性一人の出歩きは危険すぎるので昼と同じく彼が派遣された次第だ。
「そういやあの連行されたサラリーマン、どうも無断早退をしては猫を殺していたみたいです。どんな理由で殺したかは分かりませんけど、ストレス解消か弱い者いじめでしょうねぇ」
もうニュースが流れているわけではない。
百子から報告が送られてきたのだ。便器と仲良くしていた彼は今は回復している。このあと姫香はしばらく抱き枕のようにぎゅっぎゅされるがそれはまた別の話である。
「あの子もそんな感じかな」
その声音にはなんの感情も含まれてはいない。
しいていうなら「明日晴れるといいなぁ」ぐらいの軽さだった。
これから積極的に関わる人間でもないし、恐らくもう探偵事務所と骨董屋――姫香には二度と近寄ろうとしないだろう。
自分たちの世界に関係がないのなら夜弦はこれ以上干渉しない。
「それにしても初めて聞きましたよ、姫香さんのその――」
説明がしにくく言葉に詰まった。
顔をしかめながらとにかく目の周りを指で指し示す。
――姫香は相手の瞳の濁り具合で殺人経験の有無を判断できる。
探偵事務所のメンバーは全員姫香の特殊な能力を知っている。とはいっても前々から知っていたのは城野だけで、遺骨ペンダント事件の際に全員が気付いたという経緯だ。
ちなみに百子は不思議がったが咲夜の関心は薄かった。「大変そうですね」で終わった。
「殺したかどうか分かるのは知ってましたけど。人間だけじゃないんですね」
姫香にも基準は分からないが、どうやら昆虫など無脊椎系は除外されているらしい。
小さなころからその澱みがないか、あるとしたらどのぐらい濁っているのかを見るために妙な初対面の方法を取るようになってしまった。具体的には急接近のちに注視する。
本人もその癖は知っているので依頼者が来た時はあまり目を見ないようにしている。一度見てしまえば気になってしまうのだ。
まだ熱の残る道路を歩きながらふと夜弦はいたずらっぽく言った。
「僕も濁ってますか?」
答えの分かり切った質問だった。
もしも法が彼を裁くのならば即座に死刑判決がなされているぐらいには殺している。
ただのお戯れだ。それとも自虐か。
「……」
にこやかに笑う彼に頬を添えた。
暗がりの中、顔を近づけて目を凝らす。ぼっと一瞬で夜弦の体温が上がった。
「お前、目、とてもきれい、だったのに」
「…え?」
「もう、すっかり、真っ黒だ」
夜弦は困ったような顔をした。
「そんなに汚れてしまうものなんですね…。姫香さんは、黒は嫌いですか?」
「…そうでもない」
良かったと、記憶喪失の青年は笑う。
その笑顔すらもいつか奪ってしまうのだと思うと、喉元に何かがせり上がってくるような感覚に襲われた。
せめて今だけは普通の人間のように。普通の男女のように。普通の少女のように。ふるまおうと彼女は思った。
「さ、帰りましょう。所長とか絶対心配してますから」
「…うん」
透明だった瞳を奪ってしまったのなら、あの時殺しておけばよかったと。
姫香は後悔した。
もうじき夏が終わる。
小話『サマーバケーション』 了