0話 一年半前 終われなかった話
夜中――。
一台の小型車がゆっくりと街の闇を潜っていく。
運転席には男、助手席には少女、後部座席にはもう一人の男が横たわっている。彼に意識はない。
街灯の光が窓ガラスを伝い彼らに落ちる。誰も一様に怪我をしており、汚れていた。
誰も走っていない道路だったので赤信号の指示を無視する。それまで車内を満たしていたカーラジオのボリュームを絞った。
そして、運転していた男は顔を向けないままに隣の少女へ問いかける。
「そういや、あんたの名前は」
「……」
少女は何も言わずに首を振る。
横目でそれを見ると呆れて肩をすくめた。
「別に俺はあんたを探しに来たわけじゃないんだ。そもそもあんたみたいなのが居たのすら知らなかった。だから素性も何もなにひとつ分かんねえ」
「……」
「悪く思うなよ。こんなに頭の痛いことが起きるだなんて夢にも思わなかったんだ。そっちだってそうじゃないか?」
言い訳がましい言葉の羅列だったが、とりあえずは聞いてはいるようで少女は頷いた。
まるで独り言を話しているようだとぼやくと男はさらに続ける。
「こっちは元々、そうだな……依頼者から息子をあの組織から足抜けさせてほしいっていう依頼を達成しようとしただけだ。まあそれ自体はうまくいったが…こいつが――」
どこか言葉を濁らせながらバックミラーに目をやる。
背もたれしか映っていない。それでもわずかに首を後ろに回せば後部座席に横たわる影は認識できた。
傷だらけの青年だ。すべて丁寧に手当てされている。ただ、じわりと血は包帯に染み出していた。赤く濡れてしまっている箇所もある。
血の匂いが、する。
「――いろいろやらかすもんだからよ。というかこいつも誰だ。くそっ、なんでこういうことになったんだ」
「仕事、熱心。他人まで、助ける」
細く小さい言葉であった。しかしはっきりと男の耳に届く。
無口というよりかは単純な質問は口に出すより動作で示す癖があるのだろう。
それが男の前だけなのか、通常どおりなのかは本人以外知る由もなかったが。
棘を含んだそれに男は口の端を吊り上げて苦笑いをする。
「…何もかもイレギュラーだっただけだ。俺だって、こんな馬鹿騒ぎを巻き起こすつもりはなかった」
「……」
「…で。あんた、どこで降りるつもりだ。ここらへんに知り合いは?」
「……好きなところで、降ろして」
「あのなぁ」
男は露骨に眉をひそめる。
少女の服はサイズの合わない男物の服と靴からなっている。
日にあたっていないような白い肌や少し乱れた黒髪に加え、襟ぐりからのぞく鎖骨や、袖からわずかに出た細い指、なによりも憂いを深く刻み込んだ顔、そして頬にへばりつく血液の残滓はいっそ扇情的でもあった。
そんな格好でこの時間に夜の街をふらつくなど、鍋に向かって鴨が葱を背負ってローラースケートで走っていくようなものだ。どこもたいして治安は良くない。
直接的に関係は無い間柄とは言え(数時間前に出会ったばかりの人間だ)、少女一人を夜道に放り出すというのは夢見が悪すぎる。
「分かった。じゃあ金をやるから朝になるまでどっか泊まれるところで」
「行くところ、ない」
男の提案を遮って少女は淡々と除けた。
「ないか…なら、実家にでも戻ったらどうだ? 駄目なら、まあ次に行くまでの面倒ぐらいは見てやるよ」
「家」
「ああ。どんな事情があってあそこにいたのかは知らないが、もう自由の身だろ。親御さんの顔を見に行くとか…。どうしても行きたくないなら俺は別にいいがーー」
「どんな事情、あった、思う?」
「は?」
突然の予期しない問いに男は思わず思ったよりもハンドルを切ってしまい慌ててブレーキを踏んだ。後ろの青年が呻いた。
片言のような、接続詞の抜けたその言葉はどこか現実を離れているようだった。
対向車線のトラックの運転手が不思議そうな顔で通り過ぎていく。
「そりゃ、誘拐とか…親に売られたとか。そういうのじゃないのか」
間違えているというように少女はクスクスと小さく笑う。
そして初めて男に顔を向けた。視線が交差する。
「さっき、ところ、わたし、実家」
「は…、じゃあお前は…」
男の脳裏につい数時間前に言葉を交わした人間の声がフラッシュバックする。
イレギュラーこそあったものの、すべて終わらせたつもりだったのに。
――お前らは間違えている。
あれは命乞いなどではなく、ましてや気をそらすためでもない、ただ本当のことを言っただけなのか?
答えを知る者はすでに男が永久に答えられなくした。
――本当に殺さないと厄介なのは、そこの女…俺の娘だというのに。
「あんたは…あの『鬼』の娘なの、か?」
「そう」
「血の繋がった、本当の、親子だというのか!?」
「あは」
少女は肩ごと振り返り後部座席の男の青白い顔を眺めた。それから再び運転手の男を見る。
無表情だった顔に、わずかに笑みが浮かんでいた。
それは可愛らしいだとか美しいだとかそういうものではなく。
「おまえたち、仇。まだここ、息、している。ねえ、どうする?」
――殺してみせろ。そう言っているのだ。
その顔は、若い女が浮かべるようなものではない、凄惨な笑みで歪んでいた。