フィエ
――――コトッ。
店先に立て看板を置き、箒とちりとりを手に取る。混じりっ気のない空の青。随分と日が昇るのも早くなったものだ。そんな他愛もないことを考え、扉のプレートを「Open」に返す。こうしていると俺は身に染みて実感する、所変わったとはいえ、やるべきこともやっていることもそんなに変わらないのだと。やりたいことも。カフェ『ヴォレノワール』―――俺の職場であり、宿りだ。名前に関しては随分と変わってしまったけれど、発音しずらいのはどうやら俺だけらしく、他のウェイトレスや客からはそこそこ好評だといってよいだろう。
開店から幾数分、最初の客が姿を見せる。コイツを『お客様』と呼ぶには少々語弊があるのだが。
「そこ、もういいかしら?」
「ああ。どこを指しているのかさっぱりわからんが。」若干俺の声がこもる。
「あら、私がいつも座っている場所くらい把握できなくて?」
「……お前、いつも適当なところに座るだろうが。」
「そうだった?気分よ、気分。気分は大事なの。そう思うでしょ?」屈託のない笑顔が向けられる。
「なんでもいいが、テーブル席に一人で座るのはやめろ。」
「まだ空いてるんだからいいじゃない。それに……私よ?」
「……はいはい。それでご注文はいかがなさいますか。」
3つも鈴をつけた扉を些かも鳴らさずに入ってくるこの女。見た目は女性というよりかは少女と形容したほうがよいのだろうが、その口から発せられる言葉のかわいくなさには少女らしからぬものがあるのだ。ただ、俺は彼女に対して後手に回らざる負えない。ここ、『ヴォレノワール』が借家であり、彼女、フィエが貸主である以上は。
「アレ頂戴アレ。いつものやつ」
「……少々お待ちを。」
カウンターに戻り、ややもすれば『いつものやつ』が何なのか熟考してしまいそうになるため、試作段階のメレンゲコーヒーと定番のバターロール、摘み菜&クルトンのサラダにでもしておこうか。―――全く売れないブラックコーヒーでもよかったのだが。
「早くしないと帰っちゃうわよぉ」
「……カウンター席に座ってくれたらもう出せたんだがな」
小さなチュロスを添えて試作品の「新モーニングセット(仮)」をテーブルまで持っていく。
「そうそう、これこれ。」いつも何を注文しているのかなんて気にしたこともないのだろう。
「フィエ、そのコーヒーに乗ってるのはメレンゲだからな、生クリームじゃないぞ。溶かすんじゃなくてコーヒーと一緒に食べてみろ。」
「へぇ。……よくわかんないけれど。」―――だろうな。
「フィエ、今日は人の入りが多いだろうからな。あんまり長いするなよ。俺も構ってやれないぞ。」
「ん。」バターロールをほおばりながら頷く。
「ああ、それとフィエ、この間の話なんだが、」
「っぷぁ、フィエ、フィエうるさいっ。大事な話は伝書鳩にでも伝えておきなさいといつも言ってるでしょう?」
「……」あなたの『伝書鳩』逃げちゃったでしょ?フィエさん。―――口に出せないあたりアイツなら「情けない奴」とでも言ってくるのだろうか。
「まあ、何はともあれ今日は長居したい気分でもないからこれで返ってあげるわ。」
「へいへい。またのお越しをお待ちしています。」
小さな斜め掛けバッグを手に取り、フィエは立ち上がる。
「350イェソってところかしら、今日のセット。味は悪くないけど、メレンゲの卵臭さが難点ね。あと、モーニングに出すのならチュロスは若干重いわ。まあでもメニューに加えてもいいんじゃない?」
「……」
彼女はまた、音も立てずに去って行った。課題に加えて予定していた値段まで当てられてはぐうの音も出ないじゃないか。
俺がフィエを苦手とするのはこういうことをさらっと言ってくるからかもしれない―――。




