二人称
君はこれから目覚めようとしている。窓の外では空が微かに白んでいく。夜明けだ。
君は目覚める。でも意識はまだ現実と夢の間を彷徨っている。いつものことだ。上半身を起こしてそのまましばらくじっとしている。そうしないことには君の目は覚めない。それはある意味、儀式のようなものだ。君はあくびを捧げ、涙を流し、顔を洗う。そうしてやっと目が覚める。冷蔵庫から紙パックに入ったコーヒーを取り出して飲む。そうすることでさらに覚醒の度合いを高めることもできる。
目が覚めたところで君は今日の予定を思い出そうとする。とりあえずシャワーを浴びることにする。そうしないことには君の一日は始まらない。これもやはり決まっていることだ。君はいくつもの決まり事にがんじがらめにされている。
君はいつも朝食を食べない。お腹は空いている。でも食べたくない。呪いみたいなものだ。お腹は空いている、でも食べたくない。君はいつから朝食を食べなくなったんだろう? それはとても遠い過去の出来事に思える。そしてそれは実際に遠い過去のことだ。君が生まれるずうっと前の世界での出来事だ。だから君には理由が分からない。でもそういうものだ。呪いなんてものは。だれにも原因はわからない。それが呪いの特性だ。
君は学校に行く準備をする。そうだ。君は学生なんだ。そいつを忘れちゃいけない。カバンに筆箱とノートを入れる。教科書は学校に置いてある。いちいち持って帰るには教科書は重過ぎる。君はなにしろか弱い女の子だから力があんまり無いんだ。そして家に帰ってまで勉強するほど頭は悪くない。勉強は学校の中だけで十分だ。
そして君は行ってきますと言う。家から少し歩いてバス停に向かう。バスが来るのはもう少し後だ。君はバスを待つのが好きだ。朝のあわただしい時間の中で、この一瞬だけが静止している。君はその静寂と朝の光の中を何もせずにただじっと待っている。風が君の髪を揺らす。君はこの瞬間をずっと感じていたいと思う。バスが来なければいいと思う。そうすれば君はずっとここで瞬間の中を生きていけると信じている。そしてバスが来る。君は頭を振って考えていたことを打ち消す。そんなことはあるはずがないと思う。そしてそれは事実だ。君は好むと好まざるにかかわらず連続した時の中で生きていくしかない。
バスに乗っている時間はけっして短くは無い。なにしろ学校はすごく遠いんだ。自転車で行けなくも無いけれど、それではあまりにも時間がかかりすぎる。君はバスに乗っているときは外を眺めていることが多い。窓の外は海だ。夏になれば遠くから海水浴に沢山の人がやってくる。でも今は秋だから海岸にはほとんど人がいない。
君はそのことで幾分気を良くする。君は人ごみが大きらいなんだ。がらんとした海岸を見ていると心が和む。でも表情には出さない。君は目立つのもきらいだ。もし誰かに、閑散とした海岸を見ながらニヤニヤしているのを見られでもしたら、変人じゃないかという噂を立てられるかもしれない。君としてはそんなことは絶対に避けたい。君は努めて無表情を装う。君にとってその作業は呼吸と同じようにできる。知らず知らずのうちに君の表情は限られたものになってくる。学校の人間は君の笑顔を見たことが無いはずだ。そして怒った顔も、泣いた顔も。君は注意深いから学校で気を抜くことは無い。口を開けっ放しにして空中を眺めたことも無い。君はそれを防ぐためになるべく本を読むことにしている。何かに集中していれば、そのような失態は避けることができる。そしてなるべく人に近づかないようにしている。君はどちらかと言えば一人でいるほうが好きなんだ。他人は君にとってどのような意味も持ってはいない。
君は今、フランツ・カフカの『変身』を読んでいる。これで十八回目だ。君はこの話を気に入っている。グレゴール・ザムザが痩せ細って死んでいく過程が書かれている。そして読み終わっていつものように『なぜザムザは食事を取らなかったのだろう』と考える。君にはそこのところが理解できない。彼はお腹が空かなかったのだろうか。それともお腹は空いているのに食べる気になれなかったのか。それとも彼は自殺したのだろうか。ザムザが毒虫に変身した理由に君は興味が無い。おそらくそこには明確な理由は存在しないからだ。変身したのが毒虫であるということにも注目しない。君にとって最も気になるのは『なぜ食べないのか』ということだけだ。君にとってそれは他人事じゃ無い。君はもう三日間水しか飲んでいない。そう、君が食べないのは朝食だけじゃない。君は何も食べない。それがどういう結果を招くのか、君は良く知っている。なにしろ『変身』を十八回も読んだんだ。
君は明日から学校に来るのをやめようと思う。もっと正確に言うのなら、来たくても来られないようになるだろう、と思う。明日の朝目覚めたときにベッドから起き上がれないかもしれない。そして君の母親がベッドの中で死んでいる君を発見する。君の屍を無遠慮に触りまくる。君にはそれが我慢できない。君は体を触られるのがとことん嫌いだ。たとえ死んだ後だとしても、誰にも触られたくないと思う。君は立ち上がり、教室から出て行く。今は数学の授業中で、教師やクラスメートが馬鹿みたいな顔で君を見ている。でも君は何も気にしない。君はもう二度と彼らに会うことは無い。君は一度家に戻り、ありったけのお金をかき集める。頭蓋骨の形をした貯金箱を叩き割り、銀行のカードを財布に入れる。学校の制服を脱いで、黒いジーンズとシャツを着て、黒い鍔広の帽子をかぶる。駅に行き、適当に切符を買う。君は財布だけを持って遠くに行く。
君は死に場所を求めている。できる限り美しく死にたいと思う。普通ではない死に方を求めている。孤独で、唐突な死を望んでいる。
君は深い森に入る。どこをどうやって歩いてきたのかも分からない。君の目の前には当然のように暗い深淵が口を開けている。そして君はその中に入っていく。そこに迷いは一切無い。
君は森の中をゆっくりと歩く。深い森で道らしい道はほとんど無い。獣道を通ってどんどんと進む。そしてしばらく歩いて、少し開けた場所に出る。そこだけ木が生えていない。下草だけが質の高い絨毯みたいに敷き詰められている。暗い森の中で、その場所だけが日の光を受け入れている。上を見上げると空が丸く切り取られている。君はその広場の中心に立って目を閉じる。ここは特別な場所なんだ、と思う。風が森の木々の間を通り抜け、その広場を通ってまた森に戻っていく。君は静かに風の音を聴く。風が君の髪を揺らす。君はこの瞬間をずっと感じていたいと思う。ここにはバスは来ない。君はいつまでもここにいていいんだ、と思う。君はずっとここで瞬間の中で生きていけることを確信する。また風が通り過ぎる。
君は誰かの視線を感じて目を開ける。辺りを見渡し、誰もいないことを確認する。でも視線をはっきりと感じたままだ。君は意識を集中し、視線の出所を探る。そして広場のすぐ外にソフトボールくらいの目玉を見つける。君はそれを右手で無造作に掴み、広場に戻る。君は目玉をじっくりと観察し、それが生きていることを確認する。規則的な脈動を感じる。そして「やっとみつけた」と言い、腕を大きく振り上げて、手に持っているそれを勢いよく地面に叩き付けた……。