第7話 逃げ道
南里夕子は家を出た。
家から駅までは歩いて10分。自転車は持っているけど通勤にはめったに使わない。スーツやコートを着て自転車に乗るのは好きじゃない。それに、ワタシ、あまり自転車の運転は得意じゃない。
子供の頃から運動は得意じゃなかった。自転車が乗れるようになったのも小学校を卒業した春休みのことだったし、25メートルを泳げたのは、試験のときくらいしか記憶にない。運動会では決まってビリか、その次だった。
「危ない、そっちはダメって思うとそっちにいっちゃうのよねぇー」
合コンに誘われて、言っては見たものの、そんな風に可愛く自分を表現することはできなかった。ワタシにとって、できないこと、苦手なことはすなわち『隠したいこと』であり、弱さを武器になどという発想は全くなかった。正直、嫉妬した。
「ワタシ、なににもできないから……」
自分をアピールすることは苦手だったし、人に注目されるのもイヤだった。好きなアイドルがいても誰かと一緒にその話題で盛り上がることはできなかった。だってワタシの中のイメージを壊されたくない。犯されたくない。
ワタシはいつでも自分の逃げ道を作って、そしてそこに隠れて怯えながら生きてきた。それは今でも変わらない。世の中との心の摩擦は妄想という逃げ道によって、どうにかここまで生きてきた。でもそれも限界なのかもしれない。
なんでもない駅までも道のりが、妙にグニャグニャした風景に見える。夢と現実の区別がつかなくなっている。
「もう、こんな風になってしまって、ワタシったら、もうダメね」
でも、それはいい。今は問題じゃない。いや、大きな問題ね。
もしも自分がまともなら、きっとこんなに冷静じゃいられないはずよ。こうして一人で歩いていると勝手に妄想のスイッチが入るようになっているのかしら?いや、だから、もともじゃない、いや、まともなの、まともなフリをしているの、わからない気が狂いそうだわ、ちがう、最初から狂っているの。
「デジャブというのはもう少しぼんやりとしたもののはずだわ」
ワタシは勝手にそう決め付けるしかなかった。そうするしかなかったし、それはどうでもよかった。夢の中の記憶と、今こうして歩いている街並みが同じだからといって、それだけではデジャブとはいえない。風景と体験、行動が一致しなければそれは何の変哲もない日常的な夢。そんなことをいちいち気にしてはいられない。でもどこかおかしいと感じている。いや、そのこと事態が、今この瞬間がデジャブ?
「イヤねぇ!どうしちゃったのかしら!ワタシったら」
ワタシは仕方なしに走りだした。駅まではあと100メートル、いや200メートルか。ともかく一目散に駅へと走り、やっとの思いで駅のホームにたどり着いた。現実逃避……ちがう、妄想からの逃避。やっとたどり着いた。いつもどおりの現実。大丈夫。もう大丈夫よ。
ワタシはまだ心に引っかかっている違和感を置き去りにして、朝のラッシュの中で少しずつ、本来の自分を取り戻していった。
「この息苦しい世界こそ、ワタシにとっての現実の世界なのよ」
気持ちよく朝を迎えたことなんて、思い出せないくらい昔の話。大丈夫、でも大丈夫。今までうまくやってきたじゃない。やればできる子。そうよ、ワタシったら本当は……危うくまた妄想の世界に入りそうになったが、加齢臭、通勤列車の独特のオヤジ臭に我を取り戻した。まったく情けない。情けないが……
南里は気がついた。言い知れぬほどの違和感。なぜかはわからないが自分の中には確かにそれはある。いったい何が気になっているのかはわからないが妙なざらつきがワタシの肌にまとわりついている。まるでそれは着慣れない服を着たときのような、そう、他人の下着を身につけたような悪寒のする感覚であり、皮膚の何層か下のところでおきている痒み――まるで小さな虫が身体の中を這い回るような狂気。
今までは妄想こそがワタシの灰色の人生、つまらない現実からの逃げ道だったのに、その妄想が現実に犯されそうになっている。そんな気がしてならない。
窓から見える景色はなんら昨日と変わらないはずなのに、ワタシの目にはどこか違って見えた。
「いったい誰がこんなことしたの?街中のビルが灰色に塗りつぶされているわ」
夢の中も現実の中も何里の世界は色あせていった。だが、南里夕子がそのことに恐怖するのはそれから数日経ってからのことであった。