第3話 色つきの夢の女
絵を描くのが好きだった。内気なワタシは、本や漫画を読むのが好きだった。自分にはとてもできないようなことをやってのける、闊達な主人公が活躍するような物語を好んで読んでいた。ワタシは妹のようにはなれない。中流家庭に生まれ育ったワタシたち姉妹。だけど性格はぜんぜん違う。でも、それだけじゃない。ワタシは望まれて生まれてきたわけではない。そもそもそこが、妹とは違う。
できちゃった結婚。ありがちな話だが、実際にそんなことを親戚から遠まわしに聞かされると、正直こたえた。なれない子育てに苦しんだ母は、ちょっとした育児ノイローゼになっていたのだと、伯母から効かされていた。「だから、最初は大変だったんだから。初めてだから、まぁ、仕方がないし、できちゃった結婚だったからねぇ。結局お父さんとお母さん、新婚旅行にはいけなかったのよ」
そんなことを聞かされても、ワタシにはどうすることもできない。ワタシはただただ、両親に感謝し、そして申し訳なく思うしかなかった。『ワタシのせいなんだ』なにか、うまく行かないことがあると、ワタシはまず、自分の何がいけなかったのかを考える。何がよかったかなんて、考えたことはない。『ワタシが見る世界と、妹が見る世界は別のものに違いない』そう思うに足りる過去の出来事なら、今から10や20はすぐにあげられる。たとえば――そうなのだ。だからワタシはダメなんだ。
いい思い出が何もなかった高校を卒業し、横浜の短大に進学した。東京の親元を離れ、横浜での生活。ワタシの人生は180度変わった。テニスやスキーを楽しむサークルに入り、合コンで知り合った男の子と馬鹿騒ぎをして、羽目をはずして――それでワタシは、女になった。友達の誘いでいったライブハウス。ボーカルの子もかっこよかったけど、一心不乱にベースを弾く彼に恋をして、そして付き合った。彼にはワタシなんかにはない、大きな夢、実現可能な夢があった。ワタシは彼が夢に向かって走っていく姿を見るのが好きだった。
でも、幸せな時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。就職活動の時期になると、それまで一緒に遊んでいた女友達はしっかりスーツを決めて、まるで「ワタシ、まじめな女子大生です。遊びなんか知りません」と顔に化粧で書いてしおらしさとしたたかさを武器に大手の企業へと訪問していった。ワタシは――ワタシはそこまで器用になれなかった。ワタシも彼みたいに、好きなことを見つけてそれを仕事にするんだ。
絵を描くのは好きだったし、それなりに勉強もした。当時インターネットが急速に普及していって、WEBデザイナーという職業が求人広告に目立つようになり始めていた。だからワタシは、彼が夢を追いかけて実現しようとしているように、ワタシもそうなりたかった――もう、あの頃のワタシじゃない。
でも、どこかで何かが狂ってしまった。一度かみ合わなくなった歯車は、二度と戻りはしなかった。
『やっぱり ワタシが いけないんだ』
夢なんか、夢なんか見るから辛くなる。現実が色あせた人生に戻ってしまうと、ワタシの見る夢ときたら、まるで少女時代に逆戻り。現実が辛ければ辛いほど、夢の中のワタシの人生は色あでやかになっていく。典型的な現実逃避だということは誰の目から見ても明らか。
ところがある日を堺に……具体的な日付は覚えてないけど、ワタシの夢にある変化が起きた。夢の中まで色を失ってしまった。ワタシの唯一の逃げ場だった色鮮やかな夢――その夢に色が消えてしまった。しかもそれは、とてもとても恐ろしいシチュエーションの夢――それは悪夢といっていいもの、いや悪夢そのものだった。
悪夢――それはつまり、うなされるような酷い夢、怖い夢、悲しい夢、辛い夢、苦しい夢。ワタシの短い25年の人生で悪夢なんて数えるほどしか見たことないのに。誰かに追われている。ワタシは命の危険を感じて必死で逃げている。助けを呼んでも誰もきてくれない。ここは……どこ?暗くてよくわからない。ワタシ、いったいここで何をしていたの?全く見覚えのない場所。そしてなんともいえない違和感。何かがおかしい。でも、早く逃げないと、早く逃げないと――『殺される』
でもダメ。とうとうワタシはワタシを殺そうとしている誰かに追い詰められ、死を覚悟する。そして次の瞬間――誰かがワタシを殺すところをワタシは別の場所から眺めている。いや、「ワタシ」ではない、「誰か?」に変わっているような不思議な感覚。
いったいどうしてこんな夢をみるのよ。ワタシ、誰かに殺されるようなそんなこと身に覚えがないのに。
なんとも目覚めの悪い夢。そしてすぐに気がついた。
そういえば、あれはただ暗いのではない……色が消えている。一体どんな場所なのか?どんな人がワタシを殺そうとしているのか、思い出せない。でも多分あれは……男の人?
思い出そうとしてもあまり具体的なディティールがはっきりしない。自分自身の感情の起伏が激しく揺さぶられ、異様な興奮状態で目が覚めている。誰かに殺されると死を覚悟したとき、人はこんな状態になるというの?
わからない
「いったいなんなの。全然思い出せないのに、何なんだろう。嫌だわ。この感じ……吐きそう」
南里夕子は自分の身に起きていることの重大さにまだ、全く気付いていなかった。そう、覚えてはいなが、ある日を堺に、南里夕子の夢の世界に異変が起きていた。