第22話 幻夢
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
激しい息遣いが聞こえる。最初それは自分の息が上がっているのだと思った。なぜならその音はあまりにも近かったからである。息苦しさはまったく感じない。呼吸も鼓動も正常である。しいて言えば汗ばむような感覚は肌にある。はたしてそれが、今流した汗なのか、それとも空気そのものが湿気で覆われ、肌にべとついているのか。
部分的にははっきりした感覚。しかし全体としてはぼんやりとしていい加減だ。
思考が鈍る。
「しかし、だとしたら、この息遣いはいったい誰のものなのだろうか?」
「カツ、カツ、カツ、カツ……」
靴音が聞こえる。足早に何かから逃げているような印象を持つ。いや、実際に逃げているのだとわかる。なぜかはわらないけど、ワタシにはそう思える。そう解ってしまう。最初それは、誰の足音なのか見当もつかなかった。視界が狭い。局所的な感覚のマヒ。やがてそれが自分の足音だと理解する。どこかのトンネルなのだろうか。靴音があちこちに反響し、最初他人の足音だと思ったのだが、ようやく足の感覚と音の感覚が脳内で融合する。
そうだとわかった瞬間から、恐ろしいほどの徒労感と、くたびれた恐怖が自分を襲う。
また、始まった。
「ワタシは、一体全体、何に怯え、何から逃れようとしているの?」
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
激しい息遣いが聞こえる。最初それは自分の息が上がっているのかと思った。なぜならその音はあまりにも近かったから。息が苦しい。苦しく過ぎて呼吸が乱れている。でも、その音はまったく乱れない。ワタシの声はすでに枯れて、音を出すことができないほどなのに……。それ以上考えを進めることの恐ろしさを知りながら、考えずにはいられない。そう、この息遣いはワタシの背後から聞こえてくる。ある一定の距離を保ちながら、ずっとワタシを追いかける気配。追うことが目的。追いつくことも追い越すこともしない。ずっとワタシの後ろにいる。
でも、足を止めることはできない。ワタシにはわかる。もし、追うことができなくなったとき、ワタシの背後のそれは、ワタシを許さないだろう。
そして、もう一つ
「振り向いてはダメ。そんなことをしたら、きっと……」
「カツ、カツ、カツ、カツ……」
靴音が聞こえる。決して力強くも早くもない。でも必死さは伝わってくる。張りつめる緊張感。なぜだろう。それを心地よく思える。もっともっとこの音を聞いていたいという衝動に駆られる。だから私はその音を追いかけている。いや、はたしてそうなのか。しかしその疑問を否定するかのように興奮が胸の奥底からあふれてくる。思わず息遣いが荒くなる。脳内に何かの物質が分泌され、疲れを忘れさせる。思う存分追いかけることができる。追い続けることができる。興奮があふれ出し、呼吸が乱れる。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
ワタシの中で何かが切れた。肉体と精神――或いは魂と言った方がいいのかもしれない。ワタシはワタシの身体から抜け出し、ワタシの身体はゼンマイ仕掛けのおもちゃのように無機質な運動をつづけながら、ワタシから離れていく。その後姿を黒い影が追いかけていくのがわかった。ワタシは疲れ果て、眠りにつく。薄れ行く意識の中で、次に聞こえたのは……
「きゃぁーーーーーー!」
女の悲鳴。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
男の激しい息遣い。
「クッ、クッ、クッ、クッ……」
声にならない声。
そして静寂。
「カツ、カツ、カツ、カツ……」
通り過ぎていく足音。
そこで意識は断たれた。
私の中で何かが弾けた。肉体と精神――或いは魂と言った方がいいのかもしれない。私の身体から何かが抜け出し、私の身体は糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。どす黒い影――解き放たれた魂は狂い、猛りながら飛び去っていく。その後姿を眺めながら、私は疲れ果て、眠りにつく。薄れ行く意識の中で、次に聞こえたのは……
「きゃぁーーーーーー!」
女の悲鳴。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
男の激しい息遣い。
「クッ、クッ、クッ、クッ……」
声にならない声。
そして静寂。
「カツ、カツ、カツ、カツ……」
通り過ぎていく足音。
そこで意識は断たれた。




