第21話 耳鳴り
マンションを出て、駅に向かって歩く。通勤時間よりも少し遅いだけで、街の風景はがらりと変わる。路地によっては人や車の気配が全くない。街の雑踏は遠くに聞こえるものの、どこか現実感がないように思えた。
「ふだんあるかない時間帯だと、こんなに違うのね」
最初は物珍しく感じていたのだが、次第に不気味に思うようになってきた。
「こんなにも人影がないものかしらねぇ」
車一台が通れるほどの十字路の真ん中に立ちどまり、前後左右を眺めてみる。どこにも人の姿がないし、車もオートバイも自転車もない。それでも遠くの方で車のエンジンらしき音や、クラクション。そして人の声が幾多にも重なり、意味を消失してしまった音かかすかに聞こえる。
聞こえるような気がした。
塀の向こう側、そして壁の向こう側には、確かに人の気配があるのだ。
掃除機の音
テレビの音
布団を叩く音
生活の音は確かに聞こえるのに、姿は見えない。それが当たり前の風景だったとしても、どうにも不安でならない。
「何をそんなに不安がらなければならないというの」
そう呟いてみたものの、南里夕子には不安の正体がはっきりとわかっていた。目に見える風景、耳に聞こえる音、肌で感じる気配。これらからこの世界が現実であるとワタシは、信じたいのだ。信じたいが、もしかしたらこれが夢かもしれないという不安が南里の精神をむしばんでいく。
「やっぱり……、ワタシ、病気なのかも……ね」
目の前の風景が揺らぎ始める。いや、正確には今来た道と正面と右手。左方向以外は現実感がなくなってしまっている。左は駅の方向。
「これからワタシが向かおうとしている方向……そっち以外は現実感を喪失するって暗示かしらね」
南里夕子は、頭を左右に激しく振り、もう一度正面、右手、後ろを振り返る。
「大丈夫。大丈夫なんだから」
そこにはなんら変わりのない日常の風景があった。
チリン、チリン
背後から何かが迫る気配がする。自転車がすぐ横を通り抜ける。頭にサンバイザーを被った中年の女性が、自転車の後ろに小さな女の子を乗せて通り過ぎていく。小さい女の子はこっちを振り向き、不思議そうな顔でこちらを眺めたが、すぐに前に向き直った。
正面から軽トラックがやってくる。先ほどの自転車が、道路のわきに身を寄せてその車をやり過ごす。
チリン、チリン
自転車が先の交差点を右に曲がっていった
チリン、チリン
チリン、チリン
自転車のベルがずっと耳の中に残っている。
いてもたってもいられなくなって、南里夕子は駆け出した。はやくこの場所から離れたい。しかしどんなにその場所を離れても、ベルの音は鳴りやまない。
チリン、チリン
チリン、チリン
音はどんどん遠くなる。遠くなるが、やむことはない。息を切らしながらようやく駅に着いた。その瞬間、ベルの音は聞こえなくなった。改札を通り抜け、会社に向かうのとは反対の方向のホームに向かう。階段を駆け上がると目の前に列車が止まっていた。ドアが開く。何の躊躇もなくそのまま列車に飛び乗る。開いているシートに身を投げ出すように座り、南里夕子は気を失った。




