第2話 白黒の夢
小さな会社と、最初は思っていた。大学を卒業して、無事に就職先が決まったことに、別に誰も褒めてくれたわけでもなかったが、「誠二も社会人になったか」と親戚から声をかけられれば、それはそれでうれしかった。だけど仕事の内容を聞かれると、それはそれで面倒だった。四十、五十の叔父や叔母にコンピュータ関係の仕事と言えば、「コンピュータを売っているのかい?」と聞かれ、「いや、売ったりはしないんだ。コンピュータで使うソフトを作っているんだよ」と説明すると「あらまぁ、偉い難しい仕事ねー」とたいそうなことをしているような目でこちらを見る。「いやいや、僕がやっているのはその中で会社の経理とか、総務とか、そういうことだよ」と付け加えると「あー、事務仕事ね」とややトーンが下がる。なんとも気分が悪いが、誤解されたままだとそれで親戚中に広まってしまう。煩わしい。
入社して10年、小さかった会社は時流に乗っていくつかのヒット商品を世に送り出した。従業員10人程度の会社が、3回の引越しを経て、今では50人規模の会社に成長した。一人でこなしていた業務も3人の部下を持つ一つの部となり、32歳で『北村部長』と呼ばれることに最初は抵抗があったが、今ではすっかり慣れてしまった。昼間働き、夜は気の会う仲間と繁華街を飲み歩き、一人身の自由な時間を無駄に浪費するばかりの毎日を繰り返す。これといって変化のない生活に少しだけ不安を感じていた。「このまま、ずっと歳をとっていくのだろうか?」
自然、家で飲む酒の量も少しずつ増えてきた。このままアル中にでもなるか、その前に肝臓を悪くするのか。まったく、なんともさえない人生だ。まるで俺の見る夢のようだ。
そう、私の夢には色がない。モノクロの夢。まるで自分の人生そのもの。
ところがある日を堺に……具体的な日付は覚えていないが、私の生活にある変化が起きた。『生活』と言ってもいわゆる実生活の変化ではない。私の内側で起きた変化。私の人生の象徴のようなモノクロの夢――その夢に色が着いたのである。ある特定のシチュエーションの夢――それは悪夢といっていいもの、いや悪夢そのものだった。
悪夢――それはつまり、うなされるような酷い夢、怖い夢、悲しい夢、辛い夢、苦しい夢。人間30年も生きていれば悪夢の一つや二つ、いや、多分あらゆる感情の夢を見るのであろう。怖いものに追いかけられ、最後には死を覚悟するような夢というのは、どこにでもある話であり、「それはきっと何かの予兆だよ」とか言われるような特別なものではないだろう。夢に関する心理学には全く関心がないが、脳の仕組みとして記憶の整理が夢の役目であり、或いは潜在意識が夢に現れるという話も理解できる。だが私の見る夢とは――殺人。誰かが人を殺すところを目撃する夢、いや、「誰か」ではない、「私が」なのである。
いったいどうしてこんな夢をみるんだ。俺、誰か、殺したい奴とかいるのかよ
なんとも目覚めの悪い夢だった。そしてすぐに気がついた。
そういえば、あれは赤い血……色が着いている。一体俺は誰を殺したんだ?思い出せない。でも多分あれは……女?
思い出そうとしてもあまり具体的なディティールがはっきりしない。自分自身の感情の起伏が激しく揺さぶられ、異様な興奮状態で目が覚めている。殺したいほど憎い人間を自らの手で殺めるとき、人はこんな状態になるのだろうか?
わからない
「まいったな。全然思い出せないのに、何なんだろう。この嫌な感じ……吐きそうだ」
北村誠二は自分の身に起きていることの重大さにまだ、全く気付いていなかった。そう、覚えてはいないが、ある日を堺に、北村誠二の白と黒の世界に異変が起きていたのだった。