第19話 万華鏡
「こういうときって、どうしたらいいのかしら」
ゆっくりとした朝。いつもなら化粧をすませてとっくに家をでる時間だ。トイレも、洗面も、着替えも、食事もいつもより少し多めに時間をかけた。それでもいつもより1時間も変わらないうちに身支度ができてしまった。
木曜日――南里夕子は、今日から2日間、会社に休暇届を出していた。土日合わせて4連休になる。ここ数日自分の身に起きている体調不良を改善すべく、まずは病院に行こうと決意したのであるが、実はすっかり気が引けてしまっていた。
「まず、何から話したらいいのか……、夢のこと、いえ、それよりも症状よね。味覚がおかしくなって、でも今朝はなんともないわ。やっぱり、症状とそのときの状況を伝えないとダメね。ミサコに食事に誘われて、最初に自覚したのはその時。そのあとは……」
どうにも頭の中の整理ができない。起きたことを時系列に並べていきさえすればいいと思ったのだが、ところどころの記憶があいまいで、現実感に乏しい部分がある。そしてその前後に挟まって、味覚障害や精神の不安定さがあるはずなのだが、思い起こそうとする記憶に色や感触といった実感が少なく、逆に怖れや不安といった嫌な感覚だけが妙にはっきりしている。それを言語化することができない。
「自分一人で考えていてもダメね。だからこそ病院に行ってきちんと診察してもらって、それで――」
それではたして、本当によくなるのであろうか? 風邪や怪我で病院に行くのとはわけが違う。
「ここであれこれ考えていても仕方がないわね。とりあえず外に出て、そうね。とりあえず東西総合病院にいけばなんとかなるかな」
東西総合病院――南里夕子の住む町で一番近くにある総合病院である。病院のことはネットで調べてあった。診療はともかく、相談窓口は3時まで受付している。今から部屋を出れば11時には病院につく。
「行って、嫌だったら、無理に受診することないし、街に出てパーッと買い物でもすれば、気分も晴れて、案外それで、よくなるかもしれないわね」
自分は後ろ向きな人間だ。それはわかっている。もう20年以上、自分自身と付き合っている。だから後ろ向きな自分のごまかし方は、ワタシが一番よく知っている。
嫌がる自分を無理やりに玄関から追い出して、ワタシは外に出た。「バターン!」と大きな音を立てて閉じたドアにカギをかける。「ガチャッ」と無機質で冷たい音が、ワタシの心を揺さぶる。
「忘れ物……ないわよね」
何かの理由をつけて、部屋に戻ろうとするワタシは、キーをドアノブに差したまま立ちすくむ。
「ガガガガ」
鍵穴とキーのギザギザがすれ合う音。キーには小さな万華鏡のキーホルダーがついている。指先ほどの大きさのそれは、のぞけばちゃんと万華鏡になっている。子供のころから万華鏡が好きだった。そういえばしばらくこの万華鏡の中を覗いていない。そのままキーをカバンにしまうのか、万華鏡の中を覗くのか迷ったが、結局そのままカバンに入れて歩き出した。
不安な気持ちを抑えられない。
もしも、中を覗いて、その中に何もなかったら……
「コツ、コツ、コツ、コツ……」
南里夕子の足取りは、いつになく重たかった。




