第15話 白い部屋
「夢じゃなかったのね」
夢から覚めても、それが現実であるのか夢の続きを見ているのか、わからなくなるときがある。18時――定時を過ぎて何することがなければ、まっすぐ家に帰る。コンビニや弁当屋の惣菜を買って済ませることが多い。うっかりするとレンジで暖めている間に転寝をしてしまうことがある。もう一度暖めなおす気にもなれず、冷めたまま食べてしまうことのほうが多い。粗末な食事に比べて、食器類は色鮮やかだ。たまには凝った料理を作ることもあるけど、それは時間があればとか誰か特別な人のためにとか、そういうことはない。体が欲しがる色というものがある。ほかの人はどうかわからないけど、ワタシには確かにある――あったのだ。
「そういえば、ご飯食べたんだっけ……でも、ぜんぜん実感ないわ」
そう、今日はミサコに付き合って、一緒にご飯を食べたんだった。アルコールも少し口にした。だけど、ぜんぜん美味しくなかった。ううんん、ちがう。別に料理が不味かったとか、そんなんじゃない。味がしなかった。味はあったのだろうし、ミサコの表情からは美味しかったのだろうとはわかるけど、ワタシの舌は何も感じることができなかった。そしてそれは今でも続いているらしい。水のような無味無臭のものはまったく違和感なくのどを通るけど、甘み、苦味、塩気、うまみといった味覚はことごとく失われ手しまっているようだ。食において味覚というものがこれほど重要な要素であることに自分はまるで無自覚だった。色合い、風味、味覚。どれが欠けても食事をする楽しみは半減するとはわかるけれど、味覚が失われた状態で食物を摂取する作業がこれほどに苦痛な作業だとは思いもよらなかった。
「きっとピーマンの罰が当たったのね」
ワタシは幼いころからピーマンが大の苦手だった。それは大人になっても変わらない。パプリカは平気だけど、ピーマンは苦手だった。別に食べろといわれて無理やりに食べられないことはない。でもピーマンのあの強烈な緑色はどことなくグロテスクでピーマンの独特の苦味とあの色合いはワタシにとって果てしなく毒々しいものなのである。そう。私の味覚は食べ物の色合いに大きく影響している。たとえば鼻をつまんで、目隠しをして何か口に入れたとき、人はそれがどんなに好きなものでも、どんなに嫌いなものでも判別することは難しいと聞いたことがある。そんな滑稽なことは試したことも試そうと思ったこともないけれど、なるほど、今のワタシはまさにそれと同じ状況にあるのだと理解をした。
「夢から色が消えて……私の中から色が消えて、そしたら味覚までダメになっちゃうのか」
理解したところで何の解決にもならない。医者に相談なんてとんでもない。医者は言うわ。『過度のストレスのせいでしょう。疲れもたまっているのでしょう。きっとそのせいであなたはおかしくなったに違いない』って。
ワタシ、おかしくなんかなっていない!
ワタシは何度も訴えるの。ワタシちっともストレスなんて感じてないし、疲れてもいないって。でも医者はこう言うの。
『あなたは気づいていないかもしれないけど外から見るとよくわかるのです。あなたは他の誰が見ても異常です。おかしいのです。狂っています。早く手当てをしないと恐ろしいことになります。あなたの無意識が覚醒したとき、きっと悲劇が起きるでしょう。でもあなたは何も覚えていない。まるで夢でも見ていたかのように現実の中で仮想現実と夢の間を行き来するようになるでしょう』って。
「ワタシ、狂ってなんかいない」
「どうしました?」
一瞬目の前が真っ白になり、次第に目の前の風景の輪郭がはっきりとしてきた。白い壁、白い机、白い椅子。白衣を着た男が目の前に座っている。彼の口元から白い歯が覗き込む。笑顔ではあるがどこか白々しい。もう少し回りを見渡す。ワタシは白い部屋の中にいる。白い床、白い壁、白い天井。ワタシは背もたれのない小さな椅子に腰掛けている。ワタシはといえば白い靴に白い服――それはパジャマのようでもあり、囚人服のようでもあった。証明がどこにあるのかわからないけど、すべてが白く輝いている。白く輝いて白くないものも白く見せる。目の前の医者の顔は、肌色のはずなのに、妙に白く光って見える。目の前の男が医者らしいことはすぐに理解した。しかし医者らしい男がなぜ目の前にいるのか、そしてここがどこであるのか、まるで見当がつかない。
「ワ、ワタシはたしか……」
「南里さん。南里夕子さん。どうしました? 大丈夫ですか?」
「は、はい。ワタシは……ワタシは大丈夫です。たぶん――」
「たぶん――疲れていたのかと」
「いいえ。あなたは疲れてなんかいませんよ。南里さん。南里夕子さん」
「す、すいません。ちょっとぼうっとしちゃって、あ、あのぉー、ワタシ……」
「あなたは今、どこにいて、何をしているのか、わかっていますか? 南里さん。南里夕子さん」
医者がどうして、ワタシの名前を妙な呼び方『南里さん。南里夕子さん』と苗字とフルネームを繰り返し言うのか最初はわからなかった。そして次の瞬間、ワタシの中でもっと考えなければならない疑問があることに気づいた。
「せ、先生。ワタシは…・…ワタシは誰……ですか」
「やっとお気づきになりましたね。一番大事なことを。いいでしょう。今日はここまでにしましょう」
それを満足げな表情といえばそうなのかもしれない。ただ白々しさが増しただけかもしれないけど、ともかく目の前に座っている医者らしき男は白い椅子から立ち上がり、私のすぐ横をすり抜けるように歩いていった。ワタシはあっけにとられ、一瞬すべての動作が停止したあとに、男が歩き去った方向に振り返ろうとしたが、思うように行かない。そのままワタシの意識は薄れていき、目の前の風景の輪郭がなんとも怪しげに揺らいでいくのを見送りながら、次の瞬間目の前が真っ暗になり……
次に気が付いた時、それは単純な理由だったとすぐに気付いた。ワタシは目を閉じていたのである。いや、目を閉じていただけではなく、ベッドの横に座り込み、上半身を布団に覆いかぶさるように眠っていたのである。息苦しさとだらしなく垂らしてしまったよだれと不快な汗――どうしようもない自己嫌悪とともに笑うしかないという孤独に耐えて、その代償に大粒の涙を流した。声を出して泣くことができたのなら、まだどんなにましかも知れない。ワタシにはそれができなかった。
「夢の中、真っ白だった。真っ白で、目覚めたら真っ黒なんて……」
自分の体液で汚してしまった布団をベッドから剥ぎ取り、そのままその布団にくるまって、床で寝た。ベッドはまるで手術台のような気がして、なんだかとっても恐ろしくなった。
「ワタシ、病気なの……?」
数分後、ワタシは再び気を失った。
その夜はもう、夢は見なかった。




