第13話 色つきの肖像
不快な思いをしたからと言って、それを紛らわすような適当な手段を持ち合わせていない私は、ごく当たり前のように酒に溺れた。一時はキャバクラで馬鹿騒ぎをすることで何となくストレスが発散できているような気になっていたが、私の性分なのだろう。すぐに費用対効果を考えてしまう。楽しかったはずのキャバクラ遊びも、彼女たちが自分を財布代わりにしか思っていないことがわかると、あっという間に酔いはさめてしまった。いや、もともと酔ってなんかいなかった。酔ったふりをして、なんとなく気を紛らわしていただけなのかもしれない。たぶんそうだというのが、本当に忌々しい。
馬鹿になれない
時々、そういうことが疎ましく思える。そういうことができる連中をうらやましく思える。しかし私はすぐに考えてしまう。こんなんでいいのか? ほかにやるべきことがあるのではないか? 根本的な解決をしないで、逃げているだけではないか?
論理的思考を捨てることは、すなわち自分自身を捨てることに等しい。しかしそんな調子だからいまだに嫁さんももらえないのだろうか? いや、『もらう』という感覚そのものが間違っているのだろうか? 女は奪うものなのだろうか? しかし奪いたいと思うような女とは、いったいどこに行けば出会えるのか? 少なくともここではない。
私はキャバクラ通いをすっぱりやめて、少し落ち着いた感じの店。カウンターバーでマスターやママと軽く話ができるような店に出入りするようになった。そしてそこで彼女とであった。
彼女がただの常連客ではないことはすぐにわかった。かつてこの店で働いていたという。その話をマスターから聞いたのは、或いはママか本人からだったのか。ともかく、断片的な彼女の情報はカウンターに座っているだけで耳に入った。彼女は「アイ」と呼ばれていた。多分「愛」なのだろうが、そのことを確認したのか、しなかったのか、すでにおぼろげである。
「北村さんって、本当、まじめよね。絶対に浮気とかしなさそう」
「それって、あんまり褒められたように思えないのは僕の勘違いかな?」
「まがったことが、嫌いでしょう?」
「それは否定しない」
「絶対そうよ。私なんかと違うわ」
「確かに、本棚の本がばらばらに並んでいると気持ち悪いとかはあるよ」
「本屋さんでマンガとか巻数順に並んでないと治しちゃう人でしょう?」
「わかる?」
「やっぱり」
もし、彼女以外にそういうことを言われれば、少しばかり腹が立つのかもしれない。いや、多分そうなのだ。自分のそういう気持ちをわかってほしいと思いながら、見透かされることを極端に嫌う性格。それが私なのだ。それは欠点ではあると思うが、修正する必要を認めない。それもまた、私の私たる部分なのだ。
「愛ちゃんはそんなことない?」
「自分のものだったら、きっと治すかな……ううん、ちがうわね。最初に本を並べるときにきっちりやるし、本を戻すときもちゃんと戻すから、そういうことにならないのかな? わかんないやぁ」
その答えは私にとってどこか新鮮なものだった。無意識でコントロールできていることをいちいち気にしないというのは、なるほどそうだと思った。同時に他人のそれを許せないという感覚は、どこまでが本当なのか自分でもわからなくなった。彼女の自然な振る舞いは、私にとってどこまでも新鮮であり、魅力的なものだった。
彼女は魅力的だ。しかし同時に危険な存在でもあった。
「この前また、旦那と喧嘩しちゃって……」
彼女はこの店に家庭の愚痴を言いに来ているのである。それは気の知れた仲間との他愛のない談笑であり、本気で旦那と別れる気などない。むしろのろけと言っていい部類なのだろう。それなのに私にはどうしてもそう思えないのである。彼女の何気ないしぐさ、何気ない表情、何気ない言葉に自分勝手な妄想で色を塗り、さも彼女が私を誘っているかのように思えてしまうのである。最初のうちは悪い酒のせいだと思い、私が女慣れしていないせいだと思い込んだ。しかしそう強く思えば思うほどに、私の妄想は日増しに大きくなるのであった。
「北村さんみたいなまじめな人だったら良かったのになぁ」
(ちがう。そうは言っていない)
でもそう聞こえてしまう。
「今度一緒になるなら北村さんみたいな人がいいな」
(ちがう。妄想だ。ただの思い過ごしだ)
「明日はお休み?」
彼女に見蕩れて思わず聞き逃してしまった。
「えっ?」
「あら、やだぁ。聞いてなかったの? どうしたの? ぼうっとしちゃって」
「ごめん。ちょっと、考え事をしていて……」
「どんなこと? いやらしいことでしょう?」
「そんなことは……」
「えー、私ってそんなに魅力ない?」
(違う、この会話は間違っている。どうやら私は酔っているようだ)
「あ、ああ、明日は休み。休みだよ」
「え?」
「あれ?」
「どうしたの?」
「あっ。ごめん、何か聞き違えたみたい」
「大丈夫? 北村さん、疲れているんじゃない。最近仕事忙しいの?」
「うん、まぁ、いろいろと……」
「無理しちゃだめよ。何か困ったことがあったら私が相談に――」
(ちがう! これも間違っている)
「ちょっと、酔っぱらったみたい。今日はこれで帰るよ」
「大丈夫? 一人で帰れる? ちょっと心配」
「だ、大丈夫ですよ。アパートまでは目をつぶっても帰れますから」
「私もお勘定。心配だから、近くまで送っていくね」
彼女と一緒に店を出た。そのはずだった。しかし、店の外には私しかいない。私は幻影と話をして、幻影と店を出たのだ。そしてここは現実。夢は冷め、天使の姿は見えなくなった。
「天使か? 悪魔か?」
次第に私の現実は、とてもとても狭くなっていった。




