第10話 モノクロの空間
帰り際に不意にミサコから声をかけられる。
「ねぇ、夕子。今日このあと時間取れない?」
ワタシの夕方のスケジュールは毎週びっしり埋まっている「帰宅」という文字で。
「別に、あとは帰るだけだけど……」
「よかったら、たまにはご飯でも一緒に食べに行かない? ほら、ここ」
そういってミサコがカバンから取り出したのは一枚のチラシだった。
『多国籍料理店 Disco coloratus 本日オープン』
「ほら、あのーいまいちというかイケてないイタリアンレストランあったでしょう? あそこが改装して新しくお店ができたみたいなの。一応どんな店かチェックしておかないとね」
全く気が向かなかったが、でも、だからこそ、わたしは行くことに決めた。少し気分を……鬱に落ちっていくようなスパイラルを止めたいと思った。
「うん、いいよ。すぐ支度するから、5分だけ……10分だけ待って」
ミサコはうれしそうにしていた。何がそんなにうれしいのか? どうせワタシには会社帰りの予定なんてないことは御見通しだったくせに、本当にかわいい顔して抜け目がない。あー、なんで自分はこんなふうに考えてしまうのだろう? ワタシ、根が暗いのね。でも、ミサコみたいにはなれないし、なりたいとも思わないんだから……思わないんだから!
思ってなんか、いない。
ワタシは支度をするのに5分、心の準備をするのに3分かけて、ミサコと合流した。いつも帰るときに使う地下鉄の駅の出口を少し過ぎていったところにその店はあった。店の前では背のすらっとしたシックな白と黒で決めたイケメンがチラシを配っていた。
「Disco coloratus(色鮮やかな料理)だけど店員はモノクロなのね」
ワタシがそう思う前にミサコが口にした。ミサコも店の名前の意味を調べていたらしい。本当に、抜け目のない子だ。
店内の明かりはやや薄暗く、テーブルや椅子はその照明のおかげで派手な色もシックにまとまって見える。間接照明の使い方がこなれているといった印象だが、ワタシは好きではなかった。
「へぇ~、これって前からここで使っていたテーブルと椅子だけど、照明をかえるだけでけっこう雰囲気が変わるのねぇ。さて、料理のほうはどうかなぁ」
ミサコはまるで週末の朝の情報番組でグルメ取材をする女性タレントのようだった。むしろミサコのほうがこなれているかも知れないと思うほどだ。
「とりあえずは、ビールにする? ほら、ビールもいろいろあるよ。『SINGHA』ってシンって言うんだっけ? ワタシはこれにしようかな」
そういえばミサコは何度かタイに旅行に行っているって言っていたかな。
「ワタシも同じものでいいよ」
いつもと同じ。そう、ワタシはなんでも飲める。でもあまり酔ったことはない。無駄にアルコールに強いから、楽しい気分にもならないし、やけになったりもしない。まして楽しいフリも、泣きまねもできない――つまらない女。
「かんぱーい!」
何に乾杯するのかはわからないけど、そんなことはどうだっていい。ワタシはすでに帰りたくなっていた。この場所は、好きじゃない。どんな色彩もすべてモノトーンに溶け込んでしまうようなこの空間には……
「おいしいねぇ。日本のビールはこう、のどに痛い感じがしてさぁ。男の人はあの喉越しってやつがいいみたいだけどね」
あれ? おかしい。確かに喉越しのまろやかな感覚はワタシの喉にも心地よい。だけど、口に入れたときの舌触りに何か違和感を覚える。お通しとして出されたもやしを何かのソースを絡めた物を口にしても、繊維質が口の中で裁断されていく感覚はあるけど、そのほかは……ない、あるべきものがない。いや、もしかしたら最初からない? ミサコはなにも言わずにお通しをつまみながらメニューを眺めている。味わう様子もなく、しかし不味いものを食べたときの表情でもない。
「ねぇ、どれにする。いろいろあるわよ」
「ミサコは何か食べたいものあるの?」
「うん、ワタシはこれっと、これっと、それから、あー、このサラダもおいしそうじゃない」
「うん、じゃぁ、それにあと、この中華風のピリ辛前菜を頼まない?」
「あ、それもおいしそうね。じゃ、店員さん呼ぶね。さてどんなイケメンがくるかな?」
ワタシにはどうでもよかった。イケメンもおしゃれな店の佇まいも。それより何より、少しでも色鮮やかな世界を堪能したい。そして、ワタシに起きていることを確認しなければ。もしかしたらワタシ、色だけじゃなくて、他のものも失ってしまったのかもしれない。味覚という感覚を……




