07 姫君の意志
ジュリア:マダリア王国聖騎士。(金髪優等生)
ドリス:マダリア王国聖騎士。(黒髪不良)
リリア:マダリア王国王女。(なんだかんだ王女様)
サント:黒衣の異邦人。(影の薄い主人公)
ニコル:ジュリアの愛馬。鹿毛馬(茶の体に黒のたてがみ)。(従順素直)
キール:ドリスの愛馬。青毛馬(全身真っ黒)。(ひねくれ屋)
モロー氏:馬車の御者。(脇役)
ジュリアとドリスは森の中へと単騎で馬を走らせて行ってしまったリリアに、一瞬呆然としてしまった。
「マジかよ、姫様。あっぱれだ」
見事な乗りこなしを見て、悲哀交じりの感嘆がドリスの口をついて出た。
さすがあの国王陛下のご息女だ。人の想像を容易に超えていってくれるというか、なんと言うか……。
「感心している場合か、追え! ドリス」
「いやいやいや、少しは空気読めよ、お前。どう考えても、俺よりもお前だろ、ここは」
貸してやるからと、己の愛馬であるキールの手綱を手渡そうとして、ジュリアの逡巡に気がついた。
「あのじゃじゃ馬姫の翻意を促すなんて、俺の手には余る」
ジュリアは無言でドリスから手綱を受け取ると、サントを一瞥した。
「すぐ戻ります。ドリスとここで待機していてください」
ひらりとキールに跨った。
「後は頼んだぞ」
目でドリスの了承を受け取り、ジュリアはすぐさま馬の尾を翻した。
「さーて、というわけだ。姫様が戻るまで俺と一緒に待ってもらうぜ」
「……そちらの事情に何故俺まで巻き込まれなくてはならない」
「いや、まぁ、その通りだけども……、お前のせいでもあるだろうが」
「……」
「姫様が乗ってたの知ってて黙ってただろ」
トントンと荷台を叩いて言ったドリスにサントは無言で森へと足を向けた。
「どこへ行く」
「賭けをしようか」
「賭け?」
「俺が貴方の相棒より先に殿下を見つけられたなら、彼女を説得して三人で城に帰れ」
「おいおい、そんな話があるか。俺がジュリアに殺されるだろうが」
馬車に寄りかかっていた身を起こしてドリスは言う。
「付いてくるのはあんたの勝手だ。付いてこられるのならな」
そう言って森の中に消えていく黒衣にあ~と唸り声を上げたかと思うと溜息を吐き出し、ドリスはモロー氏に顔を向けた。
「すまない、馬を一頭貸してもらえるか」
†††
ジュリアは少し焦っていた。
リリアの乗馬技術を侮っていたわけではないのだが、よほど無茶な先駆けをしたのか、リリアの姿を見失ってしまった。従順なニコルならば騎手の指示に素直に従うであろうが、木々で閉ざされた森の中での走りにくさは平原のそれの比ではない。無理な駆け足をさせて振り落とされたりしてなければいいのだが。
ジュリアはドリスの愛馬であるキールから降りると、注意深く地面を観察しながらリリアの足跡を辿り始めた。主道を外れてしまったらしく、ニコルのものと思われる蹄鉄の跡が途中から途切れてしまっていた。
厄介なことになったと眉をひそめる。
あまり奥に入られて迷いでもされたらジュリアでも手が出せない。森の民に協力要請をする必要が生じてくるだろう。
森の民とはその名の通り森の中で暮らす人々のことで、基本的に自給自足、狩猟や植物の採取で生計を立てている。
彼らは木を切り良質な木材を売りに出したり、採取した薬草を薬に変え薬箱を背に森の外を練り歩いたりして収入を得ている。樵と薬屋が彼らの主な生業と言えるのだろう。
それと同時に彼ら森の民は、森の管理人とも言われていた。
森の産業を支えるため、森林保護や森の生態系にも気を配っている。もちろん森の中を案内させたら右に出る者はいない。狩に入る者がガイドとして彼らを雇うこともしばしばあり、娯楽のためではなく、日々の糧のために狩猟をしている彼らはそういう時よき教師にもなった。
元々外での暮らしに脱落した者達が森の中に逃げこもって寄せ集めの集落を作ったのが始まりとされている。犯罪に手を染めてしまった者や、何らかの理由で追っ手をかけられた者、行くあてがどこにもない者など、行き場所に困った人々が身を潜める場所が、この森だったのだ。それが『影隠しの森』と呼ばれるようになった所以である。
現国王ユリウス=シーザーが即位する前までは、文字通りこの森は無法者の隠れ家とされていた。森の中と外では治外法権が適応され、人々は恐れをなして滅多なことではこの森に近寄ることをしなかった。
国も森の中で生活する者達を日陰者として弾劾した。ひどい時には狩に入り、野生動物ではなくそこに暮らす人を狩った。薄暗い森の中で細々と暮らしている彼らを魔女だと罵り、私的制裁を加えることに躊躇を見せなかったのだ。
ユリウスは王として立つと、国に捨てられていたと言っても過言ではなかったこれら森に根付いた人々を、国土を占める森の環境保全を担う森の民として公に認めた。
彼らが出稼ぎと称して森の外に出て、森の資源で商いを始めるようになったのは、ユリウスが彼らをマダリアの国民として正式に認めてからだ。それまで、古くからそこに住み着いていた彼らには戸籍も人権もなく、本当に閉じられた環境で疎外されながら身を潜めるように暮らしていた。
ユリウスは彼らの存在を正式に認めると同時に、罪を犯した者が逃げ込んだ場合通報するよう彼らに義務付けもした。それ以降、犯罪者が森の中をうろつく数は減少の一途を辿っている。
が、広大な森の中、森の民に把握できない無法者の存在は決してなくなりはしない。
「問題はそういった連中に行き合ってしまうことか…」
ジュリアがその声を聞いたのは、そんなことを考えていた時だった。
ざわざわと騒がしく吹き荒れる不自然な大気の流れに眉をひそめたら、己のところまで襲い掛かってきた風に乗って、確かに求める人の声がぶつかってきたのだ。
己を呼ぶリリアの声と、この状況に尋常ならざるものを感じたジュリアは、血相を変えてキールに跨り、台風の目へと疾走した。
ジュリアがそこに着いた時、まず見つけたのは己の愛馬であるニコルだった。
その周りにはあちこちで尻餅をついたり倒れ伏したりしている男達。立って己の体を支えている者は一人もいない。
馬上からその中に王女の姿がないのを確認し、視線を転じて、――ジュリアは目を見開いた。
黒い外套に背後から抱きすくめられている王女の姿を認めて、言葉を失う。
(何故、彼がいる)
キールから飛び降り、リリアを見つけたことに対する安堵よりもむしろ、サントがそこにいることへの不審さのほうに、内心気を取られていた時だ。
「ジュリア様! 後ろ!!」
背後に押し寄せた気配に、ジュリアは横跳びに体を逃すと同時に剣を抜いた。
ガキンと金属がぶつかり合う音が響き、ジュリアは己に攻撃を仕掛けてきた男に目を眇める。
「誰だ! てめぇはっ!! 餓鬼の仲間かっ!? 一体何をしやがったっ!!!」
喚く男は錯乱状態に陥っているらしく、血走った目で声を荒げている。ただでさえ人相のよろしくない風貌が更に恐ろしげなものになっていた。
ちらりと視線をリリアに転じその表情を確認したジュリアは、ギラリと男を睨み据える。
「貴様、何をした」
ぎりぎりと拮抗する刃と刃の均衡を崩さないよう、体勢を変えて男に相対すると、己の背にリリアを隠した。
真正面から美しい顔に猛々しく睨めつけられ、その迫力に強面の男の方がうっと怯む。その隙をジュリアが逃すはずもなく、瞬間的に身を引いた相手に対して刃を押し込むと、その勢いのまま男をねじ伏せた。
「野郎!!」
仲間がやられて、ようようと復活した男達は勇み立つ。混乱を怒りに変えて、ジュリアに殺到した。ジュリアは苛立ちを抑えて応戦し、一人、二人と、昏倒させていく。技量が違うと理解した男の中の一人が、弱みをつくべくリリアとサントの方へと走り出す。舌打ちがジュリアの口をついて出た。追いかけようとして「まかせろ」という聞きなれた声が己に先んじたのに気がつくと、言いたい言葉を押し殺して目の前の敵に集中した。
一人で複数人と対戦するジュリアにはらはらとしていたリリアは、ドリスの登場にようやく肩から力を抜いた。
あの二人がそろえば、怖いものなしだ。そこらのごろつきでは、相手になるまい。
ほ、と脱力してふと気づく。
包み込むように己を外套の中に招き入れている存在に、ようやく意識が向いた。
「……着替えはありますか?」
背後の人物に静かに問われぎゅっと心臓が縮む心地がした。黒い外套で隠されたその下に、破かれた己のシャツがあるのを思い出し、その肌を這った感触まで思い出してしまった。
いやいやと首を振って再び身を固くしてしまったリリアの肩をそっとなでると、サントはニコルとキールに向かって口笛を鳴らした。
ピクリと耳をそばだてたキールと、同様に耳を動かしながら不安そうに前足で地面を掻いているニコル。ニコルは未だ興奮状態なのか落ち着きがない。
サントはもう一度口をすぼめると今度は息を吹き出すだけではなく、わずかに声帯を震わせた。そうすると、不可思議な音が口から漏れる。高くもなく低くもない一定音は、聞く者の不安をやわらげるような透明なまろやかさがあった。
ニコルはブルルと鼻を鳴らすと、じっとサントを見、しばらくしてからそろそろと距離を縮めてきた。次いでキールも興味津々といった様子で近づいてくる。
体温が感じられるほどまでに側によってきた二騎に、サントはそっと手をあてがい鼻筋をなでた。彼らは大人しくその場に留まってされるがままだ。
二頭の馬が壁を作り、向こうの戦闘からちょっとした目隠しをすると、サントは黒衣の中に抱き込んでいたリリアをそっと開放する。
懐から大判の更紗を取り出すとそれを広げてふわりとリリアの肩に掛ける。
ふと顔をあげたリリアに言った。
「前を整えて、胸の前で結べますか」
自分を認め、ぎくりと身を固めたリリアの様子に、サントは一歩退いた。
リリアはきゅっと唇を引き結ぶと、釦が弾けて悲惨な有様になっているシャツの前衣をかき合わせた。肩に掛けられた大きな布をしぶしぶといった体で、胸の前で結び始める。しかし、指の先が震えてなかなか思うようにいかない。見かねてサントが手を伸ばそうとした時だ。
ばしん、と音がしてリリアはその手を払った。
直後、はっと気まずげな顔をしたリリアはきゅうっと唇をかむ。
それでも、彼女は謝りはしなかった。
「さわらないで」
硬い声でそう言うとサントに背を向け、再び取り掛かる。
サントは払いのけられた手を黒衣の中にしまうと、ふっと自嘲を漏らした。
大して強い力でもなかったのに、いつまでもじんじんと痛みを訴える指先の神経に、ぎゅっと堅く拳を握った。
†††
「んで? こいつら何」
最後の一人をあっけなく気絶させてドリスは言った。
「詳しくは分からないが、だいたい察しはつくだろう」
ジュリアはそう言うと、剣を鞘に収めてリリアの元へと近づいていった。
「リリア様、ご無事ですか?」
はっ、と顔を上げたリリアはいつの間にか戦闘が終わっていることに気がつき、しきりに結んだばかりの更紗を気にしていた。
それに気づいたジュリアの顔が一瞬険しくなる。
「へ、へん?」
「いえ……」
ジュリアはそう言うと、外套を外してリリアの肩に掛けた。頭を下げる。
「……遅くなって申し訳ありませんでした」
上げられない頭と重い声にジュリアの自責を感じ取り、リリアは必死に首を振った。
「…あの、わたし……、ごめんなさい」
何かを言い募ろうとして、結局リリアは謝った。
ジュリアの頭を上げさせようと、その袖をきゅっとつかむ。縋るようにジュリアの胸の中に己の額を押し付けながら、その実、意識は先程からずっと背後にいる人物に向けられていた。
これ以上、後ろにいる人物と一緒にいたくない。
それは嫌悪というよりも、むしろ由来の知れない恐怖に近かった。
彼女といると、自分はどんどん醜い人間になっていく気がする。
自分の身の内で、確定できない感情がごちゃまぜになって気分が悪い。
自分を卑下するような感情がその中に含まれていることに気がつき、初めてのそれに、リリアはどんどん自分が汚れていく気がした。
「とりあえずリリア様、森を出ましょう。日が暮れてきました」
「だめっ!!」
肩を抱いてそう促したジュリアを、リリアははっとして引き止めた。
「リリア様?」
「…だめなの。あの、巾着を盗まれてしまって……」
「あいつらにですか?」
倒れ伏す男達の服をドリスが検め始めると、「違うの!」とリリアは首を振った。
「ここまで案内してくれた子がいたの。たぶん、その子だと思う」
「案内してくれた子?」
「森の中で会ったの。主道から外れてしまったら、ここまで連れてきてくれて……。森の民だと言っていたわ」
どおりでなかなか見つけられなかったわけだとジュリアは嘆息する。森の民は彼らにしか分からない森の道に精通しているのだ。彼らの土地勘をもってすれば容易に追いつくことはできない。
「森の民だと分かっているのなら、後で人をやって探させましょう。今はこの森を出るのが先決です」
「大事なものなの。とても人に任せられない」
背を押すジュリアに抗うようにリリアは言った。
「一体何が入っていたんです? ただの金じゃないんですね?」
ドリスのもっともな質問にリリアは一瞬息を呑み、先程から沈黙を守っている背後の人物に、痛いほど背中の神経を集中させた。
彼女は今どんな顔をしているのだろう。
「――マダリアの紋章が刻まれた、代々受け継がれてきた王族の証」
この世に二つとない――、とリリアが続けると、ジュリアとドリスは見るからに硬直した。
「……姫様、冗談ではなく? 嘘でしたじゃ済まされませんよ」
「…ごめんなさい。嘘じゃないの。嘘だったらよかったのだけど……」
ドリスは片手で顔を覆うと宙を仰いだ。
「一日目にして、波乱万丈すぎやしないか?」
「……どうする、ドリス」
「どうする、たって……」
ドリスは指の隙間からちらりとサントを窺った。
このままでは本来の使命から、どんどん遠ざかっていく。
それは、サントにとっては好都合なことに違いない。リリアの密入を黙秘した彼の思う壺にはまってしまっている。かと言って王女の言を打ち捨てるわけにもいかない。やはりジュリアの言うとおり二手に分かれるのが得策かと思案したところで、――サントが動いた。
「森の民とはこの森の住人のことか?」
「ああ、それが?」
「協力しよう」
ドリスは驚く前に眉をひそめさせた。
「急にどういった風の吹き回しだ?」
あれほど頑に離れようとしていたのに、付き合っていられないと嬉々として言い出すかと思いきや、先程の一方的な賭けの件はどうなったのか。
「俺はこの森を抜けて国を出る。森の民に道を聞く必要があるだろう。あんたらは目当ての物を見つけたら王女を連れて帰ればいい。途中までは利害が一致する」
〈……どうする?〉
ドリスがジュリアに近づき小声で尋ねると、ジュリアはじっとサントを見据えた。サントは続ける。
「ただし、その場合このまま進ませてもらう。時間が惜しい。引き返して殿下の安全を図るのなら、ここでお別れだ。そこまでの譲歩はしない。二手に分かれるのならそれでもいいが?」
「私もいきます」
どうする、というサントの暗黙の問いに答えたのは、ジュリアでもドリスでもなく、リリアだった。ジュリアの胸に縋りながら、挑むようにサントを睨めつけている。
ジュリアとドリス、双方から深い溜息が漏れた。
「お願い、ジュリア様。本当に大切なものなの。一刻も早く取り戻したいし、引き返している余裕なんてないわ。それに当事者である私がいた方がいいに決まってる。
あれは王族の、――マダリア王家の血を引く者こそが持つべき物。他人には任せられないし、任せるべきではない。正統な所有者である私が、取り返しに行くべきものだわ」
言い募るリリアの瞳の中に、今までにない真摯な光を見つけて、ジュリアとドリスは互いの顔を見合わせた。
鬼気迫るというべきか――、容易にその意思は覆せないとはっきりと分かる強い強い視線だった。十四歳の奔放な少女が思いつきにするのではない――、年齢に関係なく、他者に命令することを呼吸と同じように扱う王族のする、強制力のある目だった。
己の我を通すことに何の躊躇も覚えない、傲慢で、かつ統制されているという矛盾をはらんだ、かえって潔いと思えるほどの視線。
この〝お願い〟とは名ばかりの命令を無下に扱えば、リリアの王女としての矜持を著しく傷つけるだろうということが、ジュリアとドリスには分かってしまった。
彼女は今、己の地位を利用して私意を振うためにではなく、王族としての己の信念の本に、無理往生を承知で我を通そうとしているのだ。
これは、断ってはいけない命令だ。
彼らがマダリアに属し、王家に忠誠を誓っているのならば、決して首を横に振ってはいけない類の。たとえそれが、最善の選択とは言えず、むしろ手としては下の下であると、明らかであったとしても。
上の人間の無茶苦茶な要求にも応えてみせるのが、臣下の務めだ。無理難題だと分かっていながらその命を遂行できるかどうかは、結局個々人の器量の有無に委ねられるのだろう。〝主人のためなら、無理をしろ〟――それが仕える側の立場にいる人間の、究める道なのだ。
ジュリアはリリアの目に覚悟を決めた。
「条件があります。リリア様の意を受ける代わりに、これから先は必ず私達の指示に従っていただきたのです。先刻のような行動を慎み、御自分の意思のみで動かないことを約束できるのなら――、このまま一緒に進みましょう。ご不快に思われたとしても、安全を確保し円滑に事を進めるために、リリア様に我慢を強いることがあると思います。――それでもよろしいですか?」
「構いません。もう勝手なことはしないと約束します」
「わかりました」
ジュリアは一つ嘆息すると、ドリスを見た。ドリスは肩をすくめて言う。
「モロー氏には俺達が二時間たっても戻ってこなかったら、城に戻ってあらましを伝えてくれるよう、一応頼んどいた」
「それならすぐに親衛隊が出てくるか」
ふむ、と下唇に指をあて一瞬考え込むと、ジュリアは顔を上げた。
「ドリス、あいつらをその辺にある蔓で縛っておけ」
あいよ、と答えたドリスは樹木に絡みつくように伸びている、太く丈夫そうな蔓性の蔦を見つけると、腰に差していた短剣でそれを切り取った。男達を一まとめに集めると、慣れた手つきで縛り上げていく。
その間にジュリアは、ニコルの尻に括り付けられていた荷から筆記用具を取り出すと、さらさらと何かを書き始めた。それを小さくたたみ、騎士団の徽章の入った手巾に包むと、ドリスが乗ってきたモロー氏の馬車馬に近づいていった。首をなでて落ち着かせると、脚の細いところに結びつける。何事か話しかけながら顔をなで、森の出口に馬の首を連れて行くと、尻を叩いて送り出した。
ある程度の帰巣本能があれば城まで行くだろう。そうでなくとも、王城から派遣された優秀な騎士達なら、モロー氏の話を聞けば見つけ出してくれるに違いない。まぁ、あの手紙を読んで批判は買うことになるだろうが。
王女を連れて影隠しの森に入るなどと言ったら、大老大臣のパジェスが聞いたら卒倒ものだ。任務を無事終えて帰ったとしても、減俸どころでは済まされないだろう。冗談ではなく王の側に復帰することはできないかもしれない。寛容な王でさえ、ジュリアの取ろうとしている選択を知れば、きっと眉をひそめて難色を示すだろう。もしかしたら失望させてしまうかもしれない。
愚かなことをしようとしている自覚はあったが、己の責任の内で全てが収まるよう全力を挙げることに、ジュリアはもう腹を括ってしまった。
あとは、後から応援が駆けつけて来てくれることを頼みとするしかない。後援にリリアを託すことができれば、その後本来の任務を全うすることも可能だろう。
この時ジュリアはそう考えていた。
だが、彼はまだ知らない。
事はそう単純に進みはしないということを、この後彼は嫌というほど思い知らされることになる。
否応なしに巻き込まれる荒々しい運命の一端に、彼は既にその片足を踏み入れていた。
【翻意】…意志をひるがえすこと。
【無理往生】…無理強いに屈服させること。