06 波瀾
ミケル:森に住む少年(シスコン)
リリア:マダリア王国王女(なんだかんだ箱入り娘)
ジュリア:マダリア王国聖騎士(金髪ところにより鈍感)
バルじい:戦闘隊長バルトークの呼称。リリアだけがこう呼ぶ。
ミケルは逸る心臓を押えながら、駆け足で来た道を戻っていた。
先程まで一緒にいた、自分とそう年の変わらない人物のことを思い返す。
声を聞いた感じでは少女のようだったのだが、そこに触れる事をミケルは敢えて避けた。あちらの都合に首を突っ込もうとは思わない。
従者と分かる格好をしていたが、とても仕立てのいい服を着ていた。触った感触がいかにもすべらかそうな、上等の布地だ。自分が毎日身につけている襤褸とはまるで違う。牽いていた馬もたくましく色艶が良くて、なめらかな毛並みはよく世話がされている駿馬だということを窺わせた。それは、馬が身につけていた鞍や鐙などの馬具からも明らかだった。装飾過多というわけではなく、使い慣らされた中にも上流階級に通ずるセンスのよさが感じられた。
あの馬一頭で、どれだけの金が手に入るだろうか。
初めてあの馬を目にした時、ミケルはそう思った。
何やら身元に不透明なところがあったあの人物は、案外気安く話し返してくれたので、従わせる者ではなく従う側の立場にいる人間なんだろうとミケルは察したのだが、その手を思い出して眉をひそめる。
とてもすべらかな手をしていた。肌荒れひとつなく真っ白で、整えられた薄桃色の爪がきれいに並んでいた。自分や姉や祖父とはあまりに違う。まめができてでこぼこだったり、しわくちゃだったり、たこができていたり、節くれだっていたり、そういった生活の中でできる苦労の証が、あの手にはなかった。若輩のミケルよりもずっと華奢で、やわらかそうな手をしていた。
あの人物はただ馬を牽くだけで生活の糧が保障されるような環境にいるのだろうか。馬丁がそんなにも割りのいい職業だとは思えないが、そうだとしたらあまりに不公平だとミケルは思った。
ミケルだってこの世が平等にできているなんて事を信じちゃいない。別に金持ちに生まれたかったわけでもない。つつましい中にも、身の丈にあった今の暮らしを彼は愛していたし、森の番人としての務めを彼は誇りに思っていた。
それでも自分とそう年の変わらなさそうな少女が何一つ苦労なく暮らしているだろう事を想像すると、複雑な思いが胸をよぎった。
今自分達が置かれている窮地を思えばこそ、自分より恵まれている者に後ろ暗い思いを抱かずにはいられない。
ミケルは気持ちを切り替えるようにぶるぶると首を振った。
別にこれくらいどうってことないはずだ。
馬の背には充分な荷物が乗せられていたし、あの人が一文無しになることもないだろう。これは親切心の代償に過ぎない。
ミケルは自分を正当化することに躊躇は覚えなかった。
罪悪感よりも来る災厄の方に心は走る。
ルイーズがいない今、姉を守るのは自分なんだと心に誓う。
その時、がさりがさりと大人数が森の中を移動する音をとらえ、ミケルはさっと身を伏せた。
少女とはぐれた一団だろうか。
そっと葉叢から顔を出す。
だが彼の予想は外れた。
(あいつらっ、こんな所までっ!!)
風体のよろしくな男達が数人で屯していた。
武器を身につけ軽薄な声で仲間と何やら会話をしながら歩いている。
憎々しげにミケルはその一団をねめつける。
我が物顔でこの森を闊歩する男達にはらわたが煮えくり返った。
自分がもっともっと強かったら、あんな奴らの好きになんかさせないのに。
子供の自分ではこの森を守ることができない。
それが悔しくてしょうがない。
ミケルは歯軋りしながらそっとその場を離れた。
早く家に帰って今後の事を祖父と相談しなくては。けんかなどしている場合ではないのだ。
さもないと、たった一人の姉が連れて行かれてしまう。
その一念でミケルは帰途へと足を速めた。
だが、彼は男達が進んでいる方向がまさしく今自分が戻ってきた方向であることにまでは、ついぞ気を回すことができなかった。
ほお、とひとつリリアは溜息をついて、抱えた膝に顔をうずめた。
(ジュリア様、早く来て)
何度も何度も、お姫様を迎えに来る王子様の姿を想像しては、苦しい想いに吐息を吐く。
何故だろう。ジュリアのことを考えるだけであんなにきらきらと輝いていた世界が、今は重苦しく塞がっているように思える。
締め付ける胸の痛みは、きゅんと音がするような甘酸っぱさではなく、いがいがとした苦味を訴えていた。
リリアは金髪の王子様と対峙してた黒い死神を思い出して、己の中でどろどろと渦巻く感情に手を伸ばす。
あの〝黒の君〟ともてはやされていた人物が、全ての元凶だという気持ちが抑えられない。
父に手を引かれ踊っていた美しい女を思い出す。
何故あの時父に問い詰めなかったのだろう。母が死んでから、父が自分以外の人間にあの場所を与えることなどなかったのに。
左手の薬指にはめられていた指輪を思い出し、〝なんで〟という思いが湧き上がる。最も信頼していた人に裏切られたような、嫌な気持ちが消えてくれない。
(なんで? なんでなの? お父様)
どうしてこの指輪が彼女の指にはまっていたの?
そっと腰元に手を伸ばし、リリアはひやりとした。
(あれ?)
顔を向けて、蒼ざめる。
「なんでっ!? 確かちゃんとここにっ!!」
腰に括り付けておいたはずの巾着がないことに気がついて、リリアは倉皇となった。
あの中にはお金と、あの指輪が入っていたのだ。
お金は諦められても、あの指輪だけは譲ることなどできない。
マダリア王家の紋章が細工された、代々王家の后が継いで来たといわれる指輪。
肖像画の王后達が左手の薬指にはめている絵でしか見たことがなかったもの。
父が即位するまでの、国の擾乱期に紛失してしまったと云われていたあの指輪だと――、リリアが気がついてしまった時の驚きと、その後吹き荒れた疑念は筆舌に尽くしがたかった。
どくん、どくん、と心臓が嫌な音を立て始める。
「どうして!? 走っている時に落としてしまったの!?」
ちゃんとここにつけていたはずなのに、とリリアは腰に手をやって、ふと思った。
(――まさか)
「あの子っ!!」
巾着のかわりに括りつけられていた水筒の存在に、ようやくリリアはミケルに騙されたのだということに気がついた。とても親切にしてくれたから、気を許してしまった。まさかこんな手痛い仕打ちを受けるとは。
(どうして!?)
憤慨してリリアは立ち上がる。
確かに彼は親切にしてくれたけど、あの優しさは全て下心から来るものだったのだ――そう、思えば思うほど、心が乱れてふつふつと裏切られたんだという気持ちが湧き上がる。
人から親切にされることが常であり、裏切られたことなど一度もなかった彼女は胸の痛みを怒りに変えた。
そういえば、年の割りに大人びた子供だった。年上のはずのリリアよりもよっぽどしっかりしていたではないか。それでもやっていることは泥棒だ。許すべきことではない。
「ニコル!! 行くわよ!」
そう言って、リリアが少年の消えていった方に馬首を返そうとした時だ。
「おっ!! なんだ? えらい立派な馬がいるぜ」
「なに? どっかのぼんぼんが狩にでも入ったか?」
野太い声がして、リリアは周囲に人相の悪い数人の男達を見つけた。
「おや? なんだ、なんだ? かわいい嬢ちゃんだぜ」
「本当か? こんな格好してるんだ。どっかの小姓だろ? 男じゃないのか?」
「男か女なんかどっちでもいいだろ。こんだけきれいなら、どっちでも高値がつく」
がやがやと品定めしながら近寄ってくる男達に、リリアは身震いした。
いかつい男達は騎士団の男所帯で見慣れているはずのリリアでも身がすくんだ。バルじいだってこんなに怖いと感じたことはない。厭らしい目つきと不潔な姿に男性に対する嫌悪感というものを初めてリリアは抱いた。
「な、なんなのですっ!! あなたたちっ!!」
威厳をもって発した声は震えずに森を通った。毅然と男達を睨みつける。
一瞬虚を衝かれたようにリリアを見た男達は次の瞬間どっ!!と哄笑した。
「何がおかしいのです!!」
憤然とリリアが言えば、「何がおかしいのです、だってよぉ」と更に高笑いがひどくなる。
「お嬢ちゃんが勇ましいのが面白いのさ。きれいな声で威勢がいいね」
声で女だと判断されたのだろう、一人の男がリリアのすべらかな頬に手を伸ばす。
「触らないでっ!!」
毛深い手を叩き落し、リリアはぎゅっと手綱を握った。
ニコルは不穏な空気に、耳をぴくぴくとしきりに動かし目をきょろきょろさせ皮膚をぶるぶると震わせている。鼻息荒く前足で地面を引っかき始めた。不安が最高潮に達している合図だ。
リリアに手を叩かれた男は周囲の嘲笑に鼻の穴を膨らませて顔を赤らめた。
鐙に足を掛けてニコルの背に飛び乗ろうとしたリリアの腕を引き倒す。
「きゃっ!!」
「お嬢ちゃん、大人の男を怒らせちゃいけないよ? ひどい目に合う」
「はなしてっ!!」
耳元をなぶる生ぬるい吐息に、全身の肌が粟立った。
「離しなさいっ! 私に何かしてただですむと思っているの!?」
「へぇ、たとえば、お嬢ちゃんにこんなことをしたら、俺はどうなるのかな?」
びりりっと絹の生地が引き裂かれる音が響く。
「やっ!!」
リリアは信じられない思いで身をよじった。
男は後ろからがっちりとリリアを囲い、片手で彼女の両手首を拘束し、残った方で引き裂かれた服の合間に手を忍ばせる。
(ひっ!!)
分厚い手が己の肌の上を乱暴にまさぐるのを感じて、リリアは身を固めた。
息もできない。
「おいおい、せっかく上等な服だったのによぉ。いきなり破くなんて何考えてんだ。そういうことは、裸にひんむいてからにしろよ。その服だけでもけっこうするぜ?」
不満げな声を上げた男の顔もいやらしく笑っている。
(ジュリア様っ!!)
声も出せず、リリアが心の中で強烈に叫んだ時だった。
ごおおおおおおっ、と森がうなり声を上げた。
「な、なんだ!?」
突如湧き上がった気流に周囲の木々から葉っぱや枝がむしりとられていく。
周囲の空気が狂ったように暴れ、呼吸もできなくなった男達は恐慌状態に陥った。
ニコルは大きく嘶くと、後ろ足を跳ね上げ、その場で暴れ始める。数名がその蹴りを喰らって昏倒した。
リリアはぎゅっと目を閉じたまま像のように身を固めていた。
耳鳴りよりも、激しく吹き荒れる空気の荒々しさよりも、己に触れる汚らわしい感触をどうにかしたい。
風に叩かれ、眦からにじんだ雫が宙に浮き上がって空に飛んでいった。
その瞬間、リリアは自分の体が宙に浮くのを感じた。
まとわりつくようだった男の体温が背後から消えたと思ったら冷たい嵐の中に身をさらされる。
足が地面から離れ空中に放り出されたような感覚に心臓が冷える。
目を閉じたまま天地も分からず、耳元を絶えず横切っていく風の悲壮な叫び声に、不安が加速した。
(ジュリアっ……、お父様っ!!)
命の危機を感じて、声にならない悲鳴を上げた瞬間、ぽすんと音がして背中をやわらかい何かに受け止められる感触がした。ふわりと、体を包まれる。
(えっ?)
耳鳴りがやんで、代わりに静かな声がやけにはっきりと耳元で囁いた。
「――呼んでください。貴女の騎士を」
温かい何かに包まれ告げられた優しくも真摯な声に、リリアは目を瞑ったまま何かに突き動かされるように、金髪の騎士の名前を読んだ。
「――ジュリア様!!!」
決死の声は散りあがる緑を巻き込み風に乗って地を駆けた。
息を呑み、いまだ目も開けられず、震えているリリアを包み込んでいたぬくもりごと、体がふわりと宙を飛んで後ろに下がったのが分かった。
頬を柔らかな風がなでる。
(なに? なんなの?)
先程までとは、あまりに対称的な優しい空気のふれあいに、リリアの肩から力が抜けた。
その時、馬蹄がどっどと大地を揺るがす音が響いた。
「リリア様――!!!」
恋してやまなかったその声に、リリアはぱっと瞼を見開く。
その目が映したのは馬に乗って疾風のように駆けてくる愛しの王子様だった。
【倉皇】…あわてふためくさま。
【擾乱】…入り乱れること。乱れ騒ぐこと。