第32章 論文
休校日。
真司は、博物館の入口に立っていた。
建物の正面には、大きな垂れ幕が下がっている。
――特別企画展。
――量子力学から考えるパラレルワールド。
「真司さん」
声に振り返る。
舞がこちらへ歩いてきた。
「待ちました?」
「いや、今来たところです」
「本当ですか?」
「本当です」
「ならいいですけど」
舞は垂れ幕を見上げた。
「結構、人いますね」
「タイトルが強いですからね」
「パラレルワールド?」
「もう一つの世界があるかもしれないって言われたら、気になるでしょう」
「真司さんは特に気になりそう」
「舞さんもでしょう」
「まあ、そうですけど」
二人は並んで館内へ入った。
*
最初の展示室には、量子力学の歴史が紹介されていた。
原子。
電子。
光。
観測。
模型や映像を眺めながら、二人はゆっくりと進んでいく。
「あ、これ昨日読んだやつだ」
舞が小さく呟いた。
「昨日?」
「あ」
舞が真司を見る。
「ちょっと予習したんです」
「博物館の?」
「少しだけ」
「息抜きじゃなかったんですか?」
「……真司さん、それ気に入ってますよね」
真司が笑った。
「でも、僕より詳しそうだ」
「一応、理系ですから」
「じゃあ、分からなかったら聞きます」
「自分でも考えてください」
二人は次の展示へ進んだ。
やがて、大きなスクリーンの前で真司が足を止める。
一本の光が、二つに分かれる。
さらに分かれ、いくつもの光となって広がっていく。
――多世界解釈。
その文字を、真司はしばらく眺めた。
「昨日、コグニティブにも聞きました」
舞が言った。
「そこまで予習したんですか?」
「せっかく来るんだから、少しくらい知っておこうと思って」
「真面目ですね」
「普通です」
「休みの日の博物館を予習するのは、あんまり普通じゃないと思いますよ」
「もういいです」
舞は先へ歩き出した。
真司も笑いながら後を追う。
次の展示には、同じ街を描いた二枚の絵が並んでいた。
一方には雨が降っている。
もう一方には青空が広がっている。
――異なる可能性。
舞が立ち止まった。
「こういうの見ると、不思議ですね」
「何が?」
「もし本当に違う世界があるなら、そっちにも私たちがいるのかなって」
「いるかもしれませんね」
「全然違うことしてたり?」
「僕が物理学者になってるかもしれない」
「それはないんじゃないですか?」
「即答ですか」
舞が笑った。
「じゃあ、私が哲学者とか?」
「それも想像できないな」
「お互い様じゃないですか」
二人は顔を見合わせて笑った。
舞はもう一度、二枚の絵を見る。
「じゃあ……」
「うん?」
「真司さんと会わなかった私の世界も、あるのかな」
真司は少し考えた。
「この考え方なら、あるかもしれませんね」
「そっか」
舞は小さく頷いた。
少しだけ間が空く。
「……それは嫌だな」
「え?」
「なんでもないです」
舞は先へ歩き出した。
「次、行きましょう」
「今、何か言いました?」
「言ってません」
「言ったでしょう」
「気のせいです」
真司は首を傾げた。
舞は振り返らない。
真司はもう一度、二枚の絵を見てから、その後を追った。
*
一通り展示を見終え、二人は博物館を出た。
「結構、面白かったですね」
真司が言う。
「でしょう?」
「息抜きになったかは分かりませんけど」
「なりましたよ」
「ならよかった」
舞が周囲を見る。
「ちょっと休んでいきません?」
「いいですね」
博物館から少し歩いたところにあるカフェへ入り、二人は窓際の席に座った。
真司は珈琲。
舞はカフェラテを頼んだ。
「結局、パラレルワールドがあるかどうかは分からなかったですね」
舞が言った。
「分かったら大変ですよ」
「確かに」
舞はカフェラテを一口飲んだ。
「真司さんは、どう思いました?」
「面白かったですよ」
「それだけ?」
「……一つ、気になったことはあります」
「何です?」
真司は珈琲のカップを手にしたまま、少し考えた。
「別の世界があるとして……普通、繋がらないんですよね」
「展示では、そういう話でしたね」
「じゃあ――」
真司はカップを置いた。
「なんで繋がったんだろう」
舞が真司を見る。
「掲示板ですか?」
「うん」
真司は頷いた。
「あの人と僕が、本当に別の世界にいるなら、どうしてやり取りできたんだろうって」
「……確かに」
「まあ」
真司は少し笑った。
「本当に別の世界なのかも、まだ分からないですけどね」
「そこまで考えて、戻るんですね」
「分からないものは分からないですから」
舞が笑った。
「真司さんらしいです」
「そうですか?」
「はい」
少しの間、二人とも黙っていた。
窓の外を、人が行き交っている。
真司はその様子を眺めながら、珈琲を飲んだ。
「……あ」
「どうしました?」
「そういえば、お礼言ってなかった」
「お礼?」
「今日」
真司は舞を見る。
「誘ってくれて、ありがとう」
「急ですね」
「今、思い出したんです」
「忘れてたんですか?」
「違いますよ」
舞が笑った。
「じゃあ、どういたしまして」
真司も笑い、珈琲へ目を落とした。
「でも、本当に来てよかったです」
「パラレルワールドが面白かったから?」
「それもあるけど……」
真司は少し考えた。
「最近、起きてることばっかり追いかけてたから」
四つの月。
日蝕。
消えた書き込み。
考えることは増えた。
だが、気づけば答えのないものばかりを追いかけていた。
「自分が何を考えてたのか、ちょっと忘れてたのかもしれない」
「何を?」
「意識とか、進化とか」
真司は窓の外を見る。
「父さんのことを調べ始める前から、ずっと考えてたことです」
舞は静かに聞いていた。
「久しぶりに、論文を書こうと思います」
「論文?」
「うん」
「何についてですか?」
「まだ、ちゃんとは決めてないです」
「決めてないんですか」
「これから考えます」
舞が笑った。
「でも」
真司は続けた。
「書きたいことは、少し見えてきた気がします」
「なら、今日誘った甲斐がありましたね」
「ええ」
真司は頷いた。
窓の外では、いつもと変わらない街を人々が行き交っていた。




