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第29話 夕暮れのキスと、冷ややかな乱入者

 触れそうなほど近くにある、笹浪さんの瑞々しい唇。


 目を閉じた彼女の長い睫毛が、緊張でぷるぷると震えている。


 鼻先をかすめる甘いイチゴの香りと、彼女の身体から伝わる熱気。僕の心臓は、耳の奥で警報のように激しく鳴り響いていた。


 あ、ダメだ……僕、このままじゃ――


 思考が真っ白に染まり、身動きが取れない。


 あと数ミリ。お互いの吐息が完全に重なり、唇が触れ合う――まさに、その一瞬前だった。


 ピリリリリリッ! ピリリリリリッ!


 夕暮れの静かな公園に、無機質で甲高いスマートフォンの着信音が爆音で響き渡った。


「っ……!?」


「きゃっ!?」


 弾かれたように、僕たちは同時に身体を飛び跳ねさせた。


 重なりかけていた唇が間一髪で離れ、笹浪さんは顔を真っ赤にしてベンチの上で固まる。


 僕も慌ててポケットに突っ込んでいたスマートフォンを引っ張り出した。


 画面に表示されていた発信者の名前を見た瞬間、僕の全身の血がスーッと引いていく。


『姫月三郷』


「ひっ、三郷……!?」


「えっ……三郷さん!?」


 笹浪さんが目を丸くした、まさにその時だった。


「……電話に出るまでもないわよ、なつめ」


 ベンチのすぐ背後、大きな楠の木の影から、氷点下の声が降ってきた。


 恐る恐る振り返ると、そこには美しい黒髪を夕風に揺らした姫月三郷が立っていた。


 私服姿の彼女は胸の前で優雅に腕を組み、冷徹極まりない黒い瞳で僕たちを射抜いている。


「み、三郷!? どうしてここに……!?」


「どうして、ですって? 私の大切な彼氏が、他の女と二人きりでデートに出かけているのよ? 追跡くらい、恋人として当然の権利だわ」


 三郷は手に持っていたスマートフォンをポケットにしまうと、カツカツと優雅な足音を立てて僕たちの前へと歩み寄ってきた。


 着信音の正体は、彼女が目の前でかけた電話だったのだ。


「三郷さん……! 尾行だなんて卑怯だよ! 今日は私となつめくんの二人きりの日なのに!」


 笹浪さんがベンチから立ち上がり、三郷を真っ直ぐに睨みつける。


 せっかくのいい雰囲気を邪魔された悔しさと恥ずかしさで、彼女の目にはうっすらと涙すら浮かんでいた。


「卑怯も何も、私はあらかじめ『同行する』と宣言していたはずよ。それに……」


 三郷は笹浪さんの抗議を意に介さず、僕の正面に立つと、僕の頬に冷たい手をそっと添えて顔を近づけてきた。


「あと数秒到着が遅れていたら、取り返しのつかない不貞を働かれるところだったわ。……なつめ? 私という恋人がいながら、随分と無防備な顔をしていたのね?」


「あ、いや、これは事故というか、僕も心の準備が……!」


「事故で済むわけがないでしょう。……お仕置きが必要ね」


 三郷の指先が僕の唇をそっと撫で、そのまま妖艶な笑みを浮かべる。


 しかし、笹浪さんがすぐさま三郷と僕の間に割って入り、三郷の手を強引にはじき返した。


「触らないで! なつめくんは三郷さんのものじゃない! 今日一日、なつめくんは私の言葉に喜んでくれて、私のお弁当も食べてくれたんだから!」


「……お弁当? あなた、なつめに何か食べさせたの?」


「そうだよ! 私が一生懸命練習して作ったお弁当! なつめくん、『一番美味しい』って言ってくれたもん!」


 その言葉を聞いた瞬間、三郷の周囲の空気が、冗談抜きで絶対零度まで凍りついた。


「へえ……。私のお弁当を食べた口で、他の女のお弁当を『一番』と称えたのね、なつめ?」


「ち、違うよ! どっちもそれぞれ美味しかったって意味で――!」


「問答無用よ」


 三郷は僕の左腕をガシッと掴み取り、力任せに引き寄せた。


「今日のデートはこれで終わり。これから家まで送る途中で、じっくりとお仕置きのメニューを考えてあげるわ」


「ダメ! なつめくんは私が家まで送るの!」


 笹浪さんも負けじと僕の右腕を抱きかかえ、二人で僕の身体を左右から引っ張り合い始める。


「ちょっと二人とも! 引っ張らないで! 腕が千切れるから!」


 夕焼けに染まる静かな公園に、僕の悲痛な叫び声が響き渡る。


 甘いデートの結末は、結局いつもの逃げ場のない修羅場へと姿を変えていた。


 けれど、引っ張られる腕の痛みの奥で、僕は二人の少女の熱い執着と本気の好意を、痛いほど肌で感じていたのだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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