第14話 二人の美少女からの誘い
ここ最近、僕の日常は確かに変わり始めていた。
少し前まで、学校で僕に話しかけてくる人といえば、神木さんか笹浪さんくらいのものだった。
教室では誰の視界にも入らず、廊下を歩いていても名前を呼ばれることはない。
僕自身も、目立たなければ傷つくこともない、それでいいと本気で信じていた。
けれど今は違う。
三郷と仮交際を始め、笹浪さんは僕へ見てもらうために身なりを整え、天音さんや椎名さん、凛花さんまでが僕のことを気にかけてくれるようになった。
神木さんから受けた嘘の告白は、僕の心へ深い傷を残した。
それでも、あの出来事がなければ、今のような温かい日々も訪れなかったのだろう。
良くも悪くも、僕の日常はもう、以前と同じ孤独な形には戻れなくなっていた。
※ ※ ※
神木さんたちとの一件や、凛花さんと話していたこともあり、昼休みはすでに半分ほど過ぎていた。
僕は一度教室へ戻り、次の授業の準備を簡単に済ませると、三郷のいる一年五組へ向かった。
教室の前へ着くと、三郷はすでに廊下で待っていた。
その腕には、二人分の弁当箱が大切そうに抱えられている。
「あら。ようやく来たわね、なつめ」
責めるような言葉とは裏腹に、僕を見つけた彼女の表情には明らかな安堵が浮かんでいた。
「遅くなってごめん。少し色々あって……」
「何かあったの?」
三郷の瞳が鋭く細められる。
神木さんたちのことを話せば、今すぐ彼女たちの教室へ向かいかねない。
凛花さんのおかげで解決したことを伝えると、三郷は不満そうに眉を寄せながらも、それ以上追及しなかった。
「本当に無事なのね?」
「うん。凛花さんが助けてくれたから」
「……立花さんが」
僅かに声が低くなった気がした。
「それでも、心配させたことは謝るよ」
「もういいわ」
三郷は僕の手を取り、指を深く絡ませた。
いわゆる恋人繋ぎだ。
「待たされた分は、これから取り戻すから」
「昼休み、もう半分しか残ってないけど」
「時間の長さは関係ないわ」
僕の手を自分の胸元へ引き寄せ、三郷は柔らかく微笑む。
「あなたと一緒なら、短い時間でも特別になるもの」
「……そういうことを急に言われると、恥ずかしいよ」
「あら」
三郷は楽しそうに目を細めた。
「私ばかり、いつも恥ずかしい思いをさせられているもの。たまには仕返しをしてもいいでしょう?」
僕には、彼女を恥ずかしがらせている覚えなどない。
けれど、握られた手から伝わる熱のせいで、それ以上聞くことはできなかった。
※ ※ ※
僕たちは、そのまま校舎の中央にある中庭へ向かった。
昼休みも半ばを過ぎているため、人の姿はまばらだった。
木陰に置かれたベンチへ並んで腰を下ろすと、三郷は膝の上へ二つの弁当箱を置いた。
「こちらが、なつめの分よ」
「ありがとう」
受け取った弁当箱を開ける。
中には、綺麗に巻かれた卵焼き、彩り豊かな野菜、形を崩さず焼かれた魚、それに一口大の唐揚げが整然と並べられていた。
栄養だけでなく、色の組み合わせまで計算されている。
三郷らしい、隙のない弁当だった。
「すごい……」
「そんなに見つめないで」
「だって、本当に美味しそうだから」
「味はまだ分からないでしょう?」
三郷は平静を装っているものの、膝の上で揃えた指が僅かに落ち着きなく動いている。
もしかすると、僕の反応を気にしているのかもしれない。
「いただきます」
最初に卵焼きを口へ運ぶ。
程よい甘さと、出汁の優しい味が口の中へ広がった。
「美味しい」
「……本当に?」
「うん。すごく美味しいよ」
思わずもう一口食べると、三郷の肩から目に見えて力が抜けた。
「よかった」
「もしかして、緊張してた?」
「少しだけ」
意外な答えだった。
「三郷にも、苦手なことがあるんだね」
「料理が苦手なわけではないわ」
「じゃあ、どうして?」
三郷は自分の弁当へ視線を落とす。
「好きな人に食べてもらうのは、初めてだったから」
箸を持つ手が止まった。
「す、好きな人って……」
「仮とはいえ、恋人でしょう?」
三郷はそう答えたものの、頬が赤く染まっている。
今のは恋人役としての言葉なのか、それとも――。
「なつめ」
「な、何?」
「顔が赤わよ」
「三郷が急に変なことを言うからだよ」
「変ではないわ」
彼女は僕の弁当から卵焼きを一つ取り、箸で摘まんだ。
「ほら」
「え?」
「あーん」
「じ、自分で食べられるよ」
「私が食べさせたいの」
周囲に人が少ないとはいえ、完全に誰もいないわけではない。
恥ずかしさから躊躇していると、三郷の表情が少しずつ曇っていく。
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど……」
「なら、口を開けて」
断る理由を失い、僕は覚悟を決めて口を開けた。
「あ、あーん……」
三郷が差し出した卵焼きを食べる。
先ほどと同じ味のはずなのに、なぜか今のほうが甘く感じられた。
「どう?」
「美味しいよ」
「さっきも聞いたわ」
「でも、三郷に食べさせてもらったから、もっと美味しく感じた」
「……っ」
三郷が固まった。
箸を持ったまま、目を大きく見開いている。
「三郷?」
「あなたは本当に……」
彼女は顔を背けると、口元を手で隠した。
「簡単に、人の心を奪うようなことを言うのね」
「そんな大げさな」
「大げさではないわよ」
小さく呟いた三郷の耳は、真っ赤に染まっていた。
しばらく二人で弁当を食べていると、三郷がふと箸を置いた。
「ねえ、なつめ」
「何?」
「私たちが六年前に会ったこと、本当に覚えていないの?」
穏やかな声だった。
けれど、僕の答えを恐れているようにも聞こえた。
「六年前……」
僕は記憶を探る。けれど、三郷と会った記憶は見つからない。
「ごめん。やっぱり、覚えてないと思う」
「そう」
三郷の表情が、僅かに曇った。
六年前――僕が小学生だった頃だ。
あの時期の記憶には、触れたくないものが多すぎる。
毎晩のように聞こえてきた両親の怒鳴り声。クラスメイトから無視され、持ち物を隠された日々。そして、親しかった人を失った記憶。
辛いことを忘れようとするうちに、その周辺の出来事まで曖昧になってしまったのかもしれない。
「小学生の頃の僕は、あまり余裕がなかったんだ。家でも学校でも色々あって、思い出したくないことが多いから。そのせいで、忘れてることもあると思う」
三郷の顔から、寂しさが消えた。
代わりに浮かんだのは、僕の痛みを自分のことのように感じている表情だった。
「もし、僕が三郷に何か失礼なことをしていたなら――」
「断じてしていないわ」
三郷は即座に言い切った。
「あなたは、私を救ってくれたのよ」
「僕が?」
「ええ」
彼女の手が、ベンチの上に置かれた僕の手へ重ねられる。
「私、どれほど優秀でも、どれほど褒められても、誰も私自身を見てくれなかった頃に。あなただけが、姫月三郷という一人の女の子を見つけてくれた」
僕には、その記憶がない。
それなのに、三郷の声から伝わる感情は、作り物とは思えなかった。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも、三郷にとって大切なことなのに、僕は忘れてる」
「そうね。少し悲しいわよ。私は六年間、あなたの名前を一度も忘れなかったから」
胸の奥が強く締めつけられた。
「それでも」
三郷は僕の肩へ、そっと頭を預けた。
「あなたが忘れたのなら、もう一度覚えてもらえばいいわ。今度は、二度と忘れられないくらいにね」
僕の腕へ、彼女の両腕が絡む。
「これからの思い出を、私で埋め尽くせばいいだけだから」
優しい声音だった。
けれど、その言葉の奥には、少し息苦しくなるほど強い執着が隠れている。
「六年前のことは、まだ思い出せないけど」
僕は肩へ乗せられた三郷の頭を見つめる。
「今の三郷のことは、絶対に忘れないよ」
「……本当に?」
「うん。忘れるはずがないよ。傷ついていた僕へ手を差し伸べ、自分のことのように怒り、ここまで僕を変えてくれた人だ。三郷は、今の僕にとって大切な人だから」
「なつめ……」
三郷が顔を上げる。
互いの距離が、一気に近づいた。
長い睫毛も、微かに開いた唇も、すぐ目の表にある。
「そんなことを言われると……」
「え?」
「仮交際なんてまどろっこしい段階は吹き飛ばして、今すぐ、あなたを私の本当の恋人にしたくなるわ」
甘い声が、耳へ届く。
頬へ触れようとした三郷の指が、あと少しで僕へ届く――。
「私が目を離した隙に、何をしてるの?」
聞き覚えのある声が、中庭へ響いた。
僕と三郷が同時に顔を向ける。
そこには、弁当箱を抱えた笹浪さんが立っていた。
整えられた茶髪を風に揺らしながら、頬を不満そうに膨らませている。
「笹浪さん?」
「あら。見つけられたのね」
三郷は僕へ触れかけていた手を下ろし、明らかに不機嫌そうな顔をした。
「見つけたも何も、いつもの空き教室に、なつめくんが来なかったから!」
笹浪さんは三郷を真っ直ぐ睨みつける。
「ほかの人に聞いて、ここまで来たの!」
「わざわざ?」
「なつめくんと一緒にお昼を食べるのは、いつも私だったから!」
「今は私の恋人よ」
「仮の」
二人の間に、見えない火花が散る。
僕が止める間もなく、笹浪さんは僕の隣へ強引に腰を下ろした。
三人掛けのベンチとはいえ、両側から密着されると狭い。
「笹浪さんも、お弁当を持ってきたんだね」
「うん。なつめくんに、どうしても食べてもらいたくて。これ、昨日の夜から練習したの」
「僕に食べさせるために?」
「……うん」
笹浪さんは卵焼きを一つ摘まむ。
手が僅かに震えていた。
「なつめくん」
「何?」
「はい。あ、あーん……」
言った本人の顔が、見る見る赤くなっていく。
恥ずかしいのだろう。それでも、箸を引っ込めようとはしなかった。
「あーん」
僕は差し出された卵焼きを、そのまま口に入れた。
「……っ」
笹浪さんの目が、大きく見開かれる。
「どうして、そんなに躊躇なく食べるの?」
「笹浪さんが一生懸命作ってくれたものだから」
「嫌じゃない?」
「嫌なわけないよ。すごく美味しいよ、笹浪さん」
「本当に?」
「うん。僕のために練習してくれたことも含めて、すごく嬉しいよ」
笹浪さんの瞳へ、ゆっくりと光が宿る。
「嬉しい……?」
「ありがとう」
僕が笑いかけると、彼女は胸元を押さえた。
「なつめくん。もう一回言って」
「美味しい?」
「違う!」
「ありがとう?」
「その前!」
「嬉しい?」
「……うん」
「笹浪さんが僕のために作ってくれて、すごく嬉しいよ」
笹浪さんは俯き、弁当箱で顔の下半分を隠した。
「それなら、明日も作る。明日からも毎日私の料理を食べて!」
「でも、三郷のお弁当の予定もあるから、毎日は――」
瞬間、左側から凍えるような冷気を感じた。
恐る恐る視線を向けると、三郷が笑顔で僕を見ている。
ただし、瞳には一切の光がない。
「なつめ」
「は、はい」
「私のお弁当を食べながら、ほかの女の手料理を褒めるのね」
「どちらも美味しいから……」
「私よりも?」
「比べられないよ。三郷は僕の好みを考えて、栄養まで計算して作ってくれた。笹浪さんは慣れていないのに、僕のために練習してくれた。どちらも僕を思って作ってくれたものだから、比べるなんてできないよ」
二人とも、同時に黙り込んだ。
「……本当に、そういうところよ。なつめくんは、そうやって誰にでも期待させるんだから……」
三郷が観念したように額へ手を当てる。
笹浪さんは、どこか嬉しそうに呟いた。
「何かおかしかった?」
「おかしくないわよ」
三郷は自分の弁当から唐揚げを摘まむ。
「ただ、これ以上私の心を乱して、好きにさせないでほしいだけよ。口を開けて」
聞き返す暇もなく、唐揚げを差し出された。
「え?」
「あーん」
今度は三郷だ。
右からは笹浪さんが次の卵焼きを用意している。
「なつめくん、こっちも!」
「待って。口は一つしかないから!」
「先に私よ」
「私、最初に食べさせたんだから、次も私!」
「私は恋人よ」
「私、一番最初の友達だもん!」
二人の箸が、同時に口元へ迫る。
逃げようにも、両側から体を寄せられていて身動きが取れない。
「ちょ、ちょっと二人とも――」
「なつめくん」
笹浪さんは箸を置くと、僕の頬を両手で包んだ。
「私を見て。三郷さんじゃなくて、今は私だけを真っ直ぐに見て」
整えられた髪が頬へ触れる。
以前より近くなった彼女の顔は、驚くほど綺麗だった。
薄く色づいた唇が、すぐそばにある。
「笹浪さん、近い……」
「近いほうが、私を見てくれるから」
そのまま彼女は僕の頭を引き寄せ、自分の胸元へ抱き込んだ。
「わっ!?」
柔らかな感触と、甘い香りに包まれる。
耳を澄ませなくても、笹浪さんの鼓動が激しく鳴っているのが分かった。
「さ、笹浪さん!?」
「少しだけ……このままでいさせて。三郷さんばかりに、なつめくんを独占させたくないの」
「寿羽さん」
これまでより低い三郷の声が聞こえた。
「私の大切ななつめから、今すぐその手を離しなさい」
「嫌だよ。絶対に離さない」
「彼は私の彼氏よ」
「本物じゃない」
「今は私のものよ」
「なつめくんは、さっき誰のものでもないって言んでたもん!」
笹浪さんは、僕を抱く腕へさらに力を込める 。
「だから、これからなつめくんに、自分で誰を選ぶか決めてもらうの」
彼女は僕の顔を胸元から解放すると、至近距離から瞳を覗き込んできた。
「ねえ、なつめくん」
「な、何?」
「今度の週末、私と二人きりでデートして!」
三郷の動きが止まった。
「……は?」
目に見えないはずの怒りの印が、本当に彼女の額へ浮かんだような気がした。
「笹浪さん、急に何を……」
「前に約束したよね? 三郷さんの次は、私の番だって」
「それは聞いたけど……」
「私とデートするの、嫌?」
潤んだ瞳で見つめられる。
昨日までの自分を変え、慣れない化粧も料理も練習した。その努力が僕へ向けられていると知っているだけに、断るのは難しかった。
「嫌じゃないよ」
「じゃあ、行ってくれる?」
「うん。僕でよければ」
答えた瞬間、笹浪さんの顔が花のように綻んだ。
「約束だからね!」
彼女は僕の小指へ、自分の小指を絡める。
「絶対に、二人きりだからね!」
「ちょっと待ちなさい」
三郷が僕の反対側の手を掴む。
「なつめ。私という恋人がいながら、ほかの女とデートするつもり?」
「でも、笹浪さんには色々と助けてもらっているし、約束だから……」
「それなら、そのデートとやらに私も同行させてもらうわ」
「二人きりがいい」
「許可しない」
「三郷さんの許可はいらない」
二人の視線が、再び正面からぶつかる。
「週末は、なつめくんを借りるから!」
「貸した覚えはないわよ」
「じゃあ、奪うだけ!」
笹浪さんは僕の肩へ頭を寄せ、三郷へ挑むように微笑んだ。
その笑顔は可愛らしい。けれど瞳には、絶対に譲らないという強い光が宿っている。
「三郷さんが六年前から好きでも関係ない!」
「……何ですって?」
「これから、私のことをもっと好きにさせるから! なつめくんの今を、一番近くで埋めるのは私だよ!」
僕の腕へ絡む力が強くなる。
三郷も反対側から僕へ密着した。
「寝言は寝てから言いなさい。六年前も、今も、これからも。なつめの隣は私よ」
「ちょっと二人とも、顔が近――」
右を向けば笹浪さん。左を向けば三郷。
どちらへ顔を動かしても、触れそうなほど近くに美少女の顔がある。
昼休みの穏やかな中庭で、僕の心臓だけが壊れそうなほど激しく鳴っていた。
少し前まで、僕の日常は静かで、誰にも気づかれないものだった。
それが今では、二人の少女から両腕を奪い合われ、次の休日まで予約されている。
僕の日常は、もう飛躍どころではない。
どこへ向かって手いるのかさえ分からないほど、甘く、騒がしく、そして逃げ場のないものへ変わり始めていた。
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