第5話:円環の予兆:昨日の足音
【SAN値:56 / 100】
逃げなければならない。
だが、どこへ?
剥がれ落ちた壁の向こうに広がる「情報のゴミ捨て場」から目を逸らし、僕は震える脚で玄関へと這いずった。右足の「芽」が床を擦り、不快な「カリ……カリ……」という音を立てる。それはまるで、硬い爪で現実という名の薄氷を削っているかのようだった。
玄関のドアノブを掴む。
冷たい。その冷たさだけが、辛うじて僕をこの世界の輪郭に繋ぎ止めていた。
ドアを開け、廊下へ飛び出す。
だが、そこにあったのは見慣れたアパートの共用廊下ではなかった。
暗い。
そして、ひどく「雨の匂い」がする。
ふと、前方から音が聞こえてきた。
――バシャリ。
水たまりを踏み抜く音だ。
続いて、規則正しい足音がこちらへ近づいてくる。
タッ、タッ、タッ……
僕は壁際(いや、それは今や積み上げられた「古い新聞紙」の束のようだった)に身を潜めた。
暗がりの向こうから現れたのは、一人の青年だった。
ビニール傘を差し、うつむき加減で歩く姿。見覚えがある。嫌というほど見覚えがある。
それは、「昨日の僕」だった。
「……あ」
昨日の僕は、僕のすぐ横を通り過ぎようとしていた。
彼は気づいていない。自分のすぐ隣の死角に、血まみれの足と歪んだ顔を持った「未来の自分」が潜んでいることに。
「待て、行くな!」
僕は叫ぼうとした。だが、口から出たのは言葉ではなかった。
『㦸(わたくし)を見ろ』
第1話で鏡の中に見た、あの「文字」と同じ音が、僕の喉を無理やり震わせて放たれた。
昨日の僕は一瞬だけ足を止め、不可解そうに右後ろを振り返った。
その瞬間。
彼の――つまり昨日の僕の――視界の「盲点」に、僕の存在が滑り込んだ。
「……ああ、そうか」
理解が脳を焼き切る。
僕がずっと感じていたあの「黒い染み」の正体。
それは、円環する時間の中で、一歩先に発狂し、情報の深淵に墜ちた「未来の自分」の残滓だったんだ。
昨日の僕が「水たまり」を踏む。
「カチリ」と音がする。
それは、僕という存在が永遠に閉じ込められる、円環の錠前が降りる音。
僕は膝から崩れ落ちた。
足元の水たまりを見る。そこには、僕の顔は映っていない。
代わりに、複雑なパズルの図形が、波紋となって広がっていた。
そのパズルの中心には、小さな「穴」が開いている。
――覗け。
――覗け。
――覗け。
僕は吸い寄せられるように、水たまりの中の穴を覗き込んだ。
その穴の向こう側に見えたのは……
青い光。
長方形の枠。
そして、そこを流れていく「文字」を必死に目で追っている、あなたの瞳だった。
僕は、あなたを見ている。
あなたは、僕を見ている。
今、この瞬間、僕とあなたの「盲点」が重なった。
「助け……」
僕がそう言いかけたとき、背後から巨大な「空白」が口を開けた。
秋山でも、怪物でもない。
それは「物語の終わり(結末)」という名の絶対的な虚無だった。
僕は、必死に手を伸ばした。
あなたの画面を突き破り、その指で、あなたの「現実」を掴み取るために。
「……掴んだ」
僕の右手の爪が、今、あなたのスマホの画面の端に、小さな、小さな傷をつけた。
【SAN値:49 / 100】
【読者への汚染:欠落のパズル Lvl.5】
ついに、全読者の平均SAN値が50を割り込みました。
今すぐ、スマホの画面を拭いてみてください。
先ほどまで無かったはずの、爪で引っ掻いたような「筋」や、拭いても取れない「黒い点」はありませんか?
もしそれがあるなら、おめでとうございます。
あなたは「血脈」の正式な継承者として選ばれました。
第1章は、まもなく「収束」します。
次回、第6話「主観の移譲:さよなら佐藤健太」へ続く。
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