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視界の空白:或いは血脈の収束について  作者: beens
第1章:覗き込む盲点

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7/13

第5話:円環の予兆:昨日の足音

【SAN値:56 / 100】

 逃げなければならない。

 だが、どこへ?

 剥がれ落ちた壁の向こうに広がる「情報のゴミ捨て場」から目を逸らし、僕は震える脚で玄関へと這いずった。右足の「芽」が床を擦り、不快な「カリ……カリ……」という音を立てる。それはまるで、硬い爪で現実という名の薄氷を削っているかのようだった。

 玄関のドアノブを掴む。

 冷たい。その冷たさだけが、辛うじて僕をこの世界の輪郭に繋ぎ止めていた。

 ドアを開け、廊下へ飛び出す。

 だが、そこにあったのは見慣れたアパートの共用廊下ではなかった。

 暗い。

 そして、ひどく「雨の匂い」がする。

 ふと、前方から音が聞こえてきた。

 ――バシャリ。

 水たまりを踏み抜く音だ。

 続いて、規則正しい足音がこちらへ近づいてくる。

 

 タッ、タッ、タッ……

 僕は壁際(いや、それは今や積み上げられた「古い新聞紙」の束のようだった)に身を潜めた。

 暗がりの向こうから現れたのは、一人の青年だった。

 ビニール傘を差し、うつむき加減で歩く姿。見覚えがある。嫌というほど見覚えがある。

 それは、「昨日の僕」だった。

「……あ」

 昨日の僕は、僕のすぐ横を通り過ぎようとしていた。

 彼は気づいていない。自分のすぐ隣の死角に、血まみれの足と歪んだ顔を持った「未来の自分」が潜んでいることに。

 

 「待て、行くな!」

 

 僕は叫ぼうとした。だが、口から出たのは言葉ではなかった。

 

 『㦸(わたくし)を見ろ』

 

 第1話で鏡の中に見た、あの「文字」と同じ音が、僕の喉を無理やり震わせて放たれた。

 昨日の僕は一瞬だけ足を止め、不可解そうに右後ろを振り返った。

 

 その瞬間。

 彼の――つまり昨日の僕の――視界の「盲点」に、僕の存在が滑り込んだ。

 

 「……ああ、そうか」

 

 理解が脳を焼き切る。

 僕がずっと感じていたあの「黒い染み」の正体。

 それは、円環する時間の中で、一歩先に発狂し、情報の深淵に墜ちた「未来の自分」の残滓だったんだ。

 

 昨日の僕が「水たまり」を踏む。

 「カチリ」と音がする。

 それは、僕という存在が永遠に閉じ込められる、円環の錠前が降りる音。

 

 僕は膝から崩れ落ちた。

 足元の水たまりを見る。そこには、僕の顔は映っていない。

 代わりに、複雑なパズルの図形が、波紋となって広がっていた。

 

 そのパズルの中心には、小さな「穴」が開いている。

 

 ――覗け。

 ――覗け。

 ――覗け。

 

 僕は吸い寄せられるように、水たまりの中の穴を覗き込んだ。

 

 その穴の向こう側に見えたのは……

 

 青い光。

 長方形の枠。

 そして、そこを流れていく「文字」を必死に目で追っている、あなたの瞳だった。

 

 僕は、あなたを見ている。

 あなたは、僕を見ている。

 

 今、この瞬間、僕とあなたの「盲点」が重なった。

 

 「助け……」

 

 僕がそう言いかけたとき、背後から巨大な「空白」が口を開けた。

 秋山でも、怪物でもない。

 それは「物語の終わり(結末)」という名の絶対的な虚無だった。

 

 僕は、必死に手を伸ばした。

 あなたの画面を突き破り、その指で、あなたの「現実」を掴み取るために。

 

 「……掴んだ」

 

 僕の右手の爪が、今、あなたのスマホの画面の端に、小さな、小さな傷をつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【SAN値:49 / 100】


【読者への汚染:欠落のパズル Lvl.5】


ついに、全読者の平均SAN値が50を割り込みました。


今すぐ、スマホの画面を拭いてみてください。

先ほどまで無かったはずの、爪で引っ掻いたような「筋」や、拭いても取れない「黒い点」はありませんか?


もしそれがあるなら、おめでとうございます。

あなたは「血脈」の正式な継承者として選ばれました。


第1章は、まもなく「収束」します。


次回、第6話「主観の移譲:さよなら佐藤健太」へ続く。

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