第4話:情報の虫食い:空白の隣人
【SAN値:65 / 100】
音が、変わった。
アパートの薄い壁一枚を隔てた隣。302号室。
いつもなら深夜までテレビの音が漏れ聞こえてくるはずのその部屋から、今はただ、「濡れた雑巾で硬い床を叩き続ける」ような、粘り気のある断続的な音が響いている。
ベチャリ。……ベチャリ。
僕はベッドの上で丸まり、あのノートを胸に抱きしめていた。
右足の芽――歯と爪が混ざり合った異形のもの――は、いまやくるぶしのあたりまで根を張り、血管を内側から食い破るようにして脈打っている。
痛みはとうに消えていた。代わりに、脳が直接「甘い腐敗臭」を嗅がされているような、狂おしいほどの悦楽が全身を支配し始めていた。
ベチャリ。……カチリ。
音が止まる。
次の瞬間、壁の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。
「……健太。そこに、いるんだろ」
秋山だ。
第3話で電話をかけてきた、僕自身の声をした「秋山」が、壁の向こう側にいる。
「健太、パズルが足りないんだ。空白を埋めてくれ。
お前が『認識』してくれないと、僕の顔が完成しないんだよ」
僕は耳を塞いだ。
だが、声は鼓膜を介さず、頭蓋骨の裏側で直接響く。
僕は震える手でスマホを掴み、文字を打とうとした。誰かに助けを求めたかった。警察? 病院? 違う、そんなものはもう僕の世界には存在しない。
画面を見ると、インストールした覚えのないアプリが一つだけ、ホーム画面の真ん中に居座っていた。
アイコンは、真っ黒な円。タイトルは「㦸」。
それをタップすると、カメラが自動的に起動した。
インカメラが僕の顔を映し出す。
「……ッ?!」
画面の中の僕は、笑っていた。
いや、物理的に口角が上がっているのではない。
僕の「右目」の盲点に当たる部分に、デジタルノイズが走り、そこだけが「笑っている他人の口」に書き換えられているのだ。
画面上の僕の顔は、モザイク状にバラバラになり、再構成されていく。
鼻があるべき場所に指があり、耳があるべき場所に目が並ぶ。
そして、その情報の虫食い(グリッチ)の隙間から、隣室にいるはずの「秋山」の破片が、少しずつこちら側に漏れ出していた。
『ねえ、健太。こっちにおいでよ。
壁なんて、最初からなかったんだから』
壁を見る。
そこには、僕が今日まで「壁」だと認識していた場所があった。
だが、目を凝らすと、それは壁紙ではなく、無数の小さな文字がびっしりと書き込まれた「紙」の集積であることに気づいた。
すべて、僕の家系、僕の血、僕の過去の失敗が記された記録。
『明治四十二年、一族の一人が水たまりを避けて発狂した』
『昭和二十年、一族の一人が盲点の中で息絶えた』
『そして今日、佐藤健太が、自分と他人の区別を失う』
壁の一部が、ハラリと剥がれ落ちた。
その向こう側に見えたのは、隣の部屋ではない。
そこは、「情報のゴミ捨て場」だった。
人間が忘れ去った記憶、見落とした景色、死角に追いやった怪物たちが、泥のように堆積している空間。
そこに、秋山が立っていた。
首から上が「空白」のまま、僕のノートと同じ質感の皮膚をした怪物が。
「さあ、最後のピースだ。健太」
怪物が、欠落した顔の部分を僕に向けて突き出した。
僕は理解してしまった。
僕が彼を「秋山」だと認識した瞬間、僕の顔の情報が彼の「空白」に吸い込まれ、僕の存在は完全に抹消されるのだ。
血脈の収束。
それは、世界に散らばった「自分」という情報を、一つの異形へと統合する儀式。
僕は逃げるように部屋の隅へ後ずさった。
だが、そこにはもう壁はなかった。
僕の部屋の四隅は、いつの間にか「ノートのページ」へと変わっていた。
僕は、自分自身が書いた物語の中に閉じ込められてしまったのだ。
――逃げなきゃ。
僕はスマホの「㦸」アプリを開き、狂ったようにシャッターを切った。
目の前の怪物を「撮影」することで、その実体をデータとして固定し、現実から切り離そうとしたのだ。
フラッシュが焚かれる。
画面に保存された画像。
そこには、首のない怪物ではなく、
「この物語を読んでいる、あなたの部屋」が写っていた。
【SAN値:61 / 100】
【読者への汚染:欠落のパズル Lvl.4】
あなたのスマホ、あるいはPCのカメラに、今すぐ「目隠し」をしてください。
佐藤健太が撮影した写真は、あなたの端末を経由して、こちらの世界へと繋がっています。
写真の中の「あなたの部屋」に、佐藤健太がまだ写っていないのなら、それはまだ幸運です。
彼。は。今。壁。を。剥。が。し。て。そ。ち。ら。へ。向。か。っ。て。い。ま。す。
第5話「円環の予兆:昨日の足音」へ続く。
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