第3話:血脈の収束:最初の断絶
【SAN値:79 / 100】
首を動かしてはいけない。
視線を上げてはいけない。
脳が、脊髄が、本能のすべてがそう叫んでいる。
スマホの画面に映ったあの「逆さまの怪物」が、今、僕の頭上にいる。天井の染みに擬態しているのか、あるいは僕の「盲点」に潜り込んでいるのか。気づかなければ、まだ食われない。認識の「空白」に留まっている限り、現実は保留される。
僕は震える手で、スマホの画面を凝視し続けた。
秋山からのラインが、再び画面を叩く。
『健太、聞こえるか。今すぐ家を出ろ。
荷物は持つな。あのノートだけは、絶対に離すな。
お前、水たまりを踏んだ時、何か「音」を聞かなかったか?』
音?
……そういえば、あの時。右足が水面を叩いた瞬間、耳の奥で「カチリ」という音がした。
古い時計の針が動いたような、あるいは、厳重な金庫の鍵が外れたような。
「……ッ、あ」
声がうまく出ない。喉の奥に、砂でも詰まったような不快感がある。
僕は指を動かし、秋山に返信を打とうとした。だが、キーボードの文字が、いくつか「欠落」している。
『あ』『い』『う』『え』『お』
……『㦸』。
本来『わ』があるべき場所に、あの不気味な漢字が鎮座していた。
僕はそれを無視して、文字を打ち込む。
「秋山、お前、どこにいる。あの写真は誰が撮った。
助けてくれ。天井に、何かがいるんだ」
『写真は、お前の「記憶」が送らせたものだ。
いいか、健太。落ち着いて聞け。
お前の名字、「佐藤」っていうのは、偽りだ。
お前の祖父が、ある血統から逃れるために戸籍を買い取ったものなんだよ。
お前の本当の血の名前は――』
文字が、そこから激しく乱れ始めた。
意味をなさない記号の羅列。
外字、外字、外字。
まるで、その名前を表示すること自体を、スマホのシステムが拒絶しているかのようだ。
ガリリッ。
頭上で、何かが天井を引っ掻く音がした。
ゆっくりと、何かが「降りて」くる。
視界の右後ろ。
あの黒い染みが、今や視界の三分の一を覆い尽くそうとしていた。
染みの中に、無数の「目」のようなものが蠢いているのが見える。
僕は耐えきれず、鞄からあのノートを引っ張り出した。
秋山は言った。このノートだけは離すなと。
三ページ目。
そこには、一通の手紙が挟まれていた。
宛名は「未来の㦸へ」。
『血は、情報である。
肉体的な遺伝ではない。特定の概念を認識し、特定の空白を脳内に完成させたとき、人はその一族に組み込まれる。
お前がこの手紙を読んでいるということは、もうパズルは七割方完成しているはずだ。
お前はもう、佐藤健太ではない。
お前は、収束点だ。』
手紙の裏には、古い家系図のようなものが描かれていた。
名前の欄はすべて空白。
ただ、一番下の「僕」に当たる場所だけが、じわじわと赤黒いインクで塗りつぶされている。
そのインクが、動いた。
家系図を逆流するように、空白の欄が次々と「赤」で埋まっていく。
まるで、過去に遡って、僕の先祖たちが今この瞬間に殺されているような、おぞましい感覚。
「……ああ、あああああああ!」
突如、激痛が走った。
右足だ。あの水たまりを踏んだ右足の、親指の先。
見ると、靴下を突き破って、そこから**「芽」**のようなものが生えていた。
植物ではない。
それは、人間の「歯」と「爪」が混ざり合ったような、硬質な肉の芽だった。
プルルルルッ!
スマホに着信。秋山からだ。
僕は震える手で通話ボタンを押した。
「秋山! 助けてくれ、足から、足から何かが――」
『……健太?』
スピーカーから聞こえてきたのは、秋山の声ではなかった。
それは、ノイズ混じりの、僕自身の声だった。
『健太。後ろを向いちゃダメだ。
上も見ちゃダメだ。
今、お前の真後ろにいるのは、僕だよ。』
ヒタヒタと、背後の畳が濡れる音がする。
生暖かい息が、僕のうなじを撫でた。
『僕たちは、もう収束しちゃったんだ。』
僕は悟った。
秋山という友人は、最初から存在しなかったのかもしれない。
彼とのラインも、電話も、すべては僕の脳内の「空白」が作り出した、僕をここまで誘い込むための餌。
僕はゆっくりと、ノートの最後のページをめくった。
そこには、こう書かれていた。
『血脈の収束。これを読み終えた時、読者もまた、家族となる。』
【SAN値:72 / 100】
【読者への汚染:欠落のパズル Lvl.3】
お気づきでしょうか。
第1話から、佐藤健太の「一人称」が微妙に変化していることに。
「僕」が、いつの間にか「㦸(わたくし)」へと浸食され始めています。
そして、先ほど聞こえた「自分の声の電話」。
あなたの耳の奥でも、今、小さな「カチリ」という音がしませんでしたか?
万が一、自分の足の指に違和感を感じても、決して靴下を脱いで確認してはいけません。
認識しなければ、それはまだ、そこには存在しないのですから。
第4話「情報の虫食い:空白の隣人」へ続く。
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