第2話:マリオットの怪物
【SAN値:88 / 100】
スマホの画面に映り込んだ「それ」を視認した瞬間、僕の全身の毛穴が逆立ち、内臓がせり上がるような悪寒が走った。
僕の肩越しに、画面を覗き込む白く細長い指。
関節の数が一つ多いような、不自然な曲がり方をした「腕」。
僕は叫び声を上げることもできず、椅子から転げ落ちるようにして振り返った。
誰もいない。
六畳一間のアパート。湿った空気と、脱ぎ捨てたジーンズ。それ以外には、何も。
「……はあ、はあ、はあ……」
荒い呼吸が、静まり返った部屋に響く。
錯覚だ。またパレイドリアだ。スマホの液晶画面の汚れと、背後のカーテンの影が偶然重なって、腕のように見えただけだ。
そう自分を納得させようとして、僕は気づいた。
右手の指先が、熱い。
ノートの空白を掻きむしった人差し指の先から、どろりとした鮮血が滴り、畳に黒いシミを作っていた。
痛みはない。ただ、何かが「入り込んでくる」ような、不快な熱だけがある。
チカッ、チカッ
スマホが再び震える。友人、秋山からの追撃。
『返信しろよ。あのノート、絶対にお前が持ってるだろ。
悪いことは言わない。今すぐ、それを( )に捨てろ。
じゃないと、お前の【盲点】が、手遅れになるぞ』
秋山がなぜ、僕の視界の異常を知っている?
僕は震える指で、血を画面にこすりつけながら文字を打った。
「どうして知ってる。盲点ってなんだ。あのノートは何なんだ」
送信。
既読は一瞬でついた。
『心理学で習っただろ。マリオット盲点。
視神経が束ねられる場所に、光を感じない「穴」がある。
普通、脳はその穴を周囲の景色で「適当に」埋めて、僕たちに嘘の景色を見せている。
でもな、健太。
もし、その穴を埋めているのが「脳」じゃなかったら?
外側にある「何か」が、自分の姿を隠すために、その穴を勝手に埋めていたとしたら?』
画面を見つめる僕の指が止まる。
秋山の言葉は、僕がさっき図書館で考えていた仮説の、さらにその先を突いていた。
『あのノートは、その「穴」を広げるためのマニュアルだ。
読めば読むほど、空白を意識すればするほど、穴は大きくなる。
最後には、お前の視界の半分が「奴ら」の都合のいい景色に書き換えられる。
そうなったら、お前はもう、自分の部屋に誰が立っているのかさえ、一生気づけない。』
心臓が喉まで競り上がってくる。
僕は反射的に、部屋の隅々を見渡した。
何もいない。テレビの横、クローゼットの隙間、ベッドの下。
どこにも、何もいない。
……本当に?
僕が見ているこの景色は、僕の脳が「何もいないはずだ」と判断して作り上げた、ただの補完データではないのか?
現に、僕の視界の「右後ろ」にいるあの黒い染みは、一回り大きくなっている気がする。
僕は実験せずにはいられなかった。
ノートの端を破り、そこに小さな●と、十センチほど離して+を描く。
心理学の教科書に載っている、マリオット盲点を確認するための簡単な図。
左目を閉じ、右目で+を見つめながら、紙を顔に近づけていく。
ある一点で、左側に描いた●が、ふっと視界から消えるはずだ。
十センチ。十五センチ。
……消えた。
●が消え、そこにはただの「白い紙の地」が見えている。
本来そこにあるはずの黒い点が、脳の補完によって抹消された瞬間だ。
だが、その「白い空白」の中に。
……何かがある。
真っ白なはずの空白の中に、蠢くものが見えた。
それは、小さな、無数の、人間の「歯」のようなものだった。
白い紙の色に擬態した、真っ白な歯が、何かを咀嚼するようにガチガチと震えている。
「ひっ……!」
僕は紙を投げ捨てた。
投げ捨てた紙が畳に落ちるまでの間、その「歯」は、僕の視界の端でずっと笑っていた。
ブブッ。
スマホに通知。秋山からではない。
知らないアカウントからの、画像付きのメッセージ。
恐る恐る、それ。を。開。く。
画像は、僕のアパートの外観だった。
二階の、僕の部屋の窓。
カーテンがわずかに開いたその隙間から、
――血まみれの指先で、ノートを必死に読み耽っている「僕」が映っていた。
そして、その「僕」の真後ろ。
天井から逆さまにぶら下がった、皮膚のない巨大な何かが、
「僕」の頭を、今まさに飲み込もうと、その大きな口を開けている光景が、鮮明に写し出されていた。
【SAN値:79 / 100】
――上を。向いてはいけない。
――気づかなければ、まだ、食べられてはいないのだから。
【読者への汚染:欠落のパズル Lvl.2】
あなたは今、この文章をどこで読んでいますか?
自室? 電車? それとも、誰かとの待ち合わせ中でしょうか。
ちょっとした実験をしましょう。
今、スマホの画面に映る自分の顔の「反射」を見てください。
背景に、心当たりのない「白いもの」が映り込んでいませんか?
それは、天井の照明かもしれません。
あるいは――あなたを覗き込む、誰かの「歯」かもしれません。
第3話「血脈の収束:最初の断絶」へ続く。
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