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視界の空白:或いは血脈の収束について  作者: beens
第1章:覗き込む盲点

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第1話:継承される染み

【SAN値:93 / 100】

 アパートに帰り着いた僕は、濡れた靴下を脱ぎ捨てるのも忘れ、玄関先に座り込んでいた。

 狭いワンルーム。見慣れたはずの景色が、今は妙に「書き割り」めいて見える。

 背負っていたリュックが、鉛のように重い。その中には、図書館で手に入れてしまったあの「ノート」が入っている。

 ――開けてはいけない。

 ――読んではいけない。

 そう自分に言い聞かせるほど、指先が微かに震え、リュックのジッパーに吸い寄せられていく。これは好奇心ではない。もっと生理的な、例えば呼吸を止められないのと同じような、抗いようのない「欲求」だった。

 ふと、視界の右後ろを意識する。

 やはり、「それ」はそこにいた。

 

 大きさは親指の爪ほどだろうか。すすを水で溶かして、虚空にぶちまけたような黒い染み。

 視線を向けようとすれば、それは視線の動きに合わせて逃げていく。常に僕の死角――「盲点」に居座り続ける。

 

 僕は洗面所へ向かい、鏡の前に立った。

 

 「……っ」

 

 鏡の中に映る自分の顔。

 右目の瞳孔が、左目よりもわずかに大きく開いている、気がした。いや、それだけではない。右目の奥に、もう一つ別の「瞳」が重なっているような、言いようのない違和感。

 僕は力任せに顔を洗い、冷水で無理やり思考を遮断した。

 

 タオルで顔を拭い、顔を上げた時。

 鏡の隅に、文字が書かれているのに気づいた。

 

 いや、書かれているのではない。

 飛び散った水滴の跡が、偶然にも、ある形を成していたのだ。

 

 『㦸(わたくし)を見ろ』

 

 心臓が跳ねた。

 僕は狂ったように手で鏡を拭った。水滴はただの飛沫に戻り、意味を失った。

 錯覚だ。パレイドリア現象というやつだ。人間は三つの点があれば顔に見え、意味のない模様に言葉を見出す。心理学の初歩的な知識が、必死に僕を現実へと繋ぎ止めようとする。

 

 僕は逃げるようにベッドに潜り込み、リュックからノートを取り出した。

 この恐怖の正体を確認し、それが単なる誰かの悪戯か、あるいは僕の精神疾患であることを証明したかった。

 

 ノートの二ページ目を開く。

 

 そこには、一ページ目とは明らかに異なる、殴り書きのような筆跡があった。

 

 『三月十四日。雨。

 水たまりを踏んだ。右足。感触が残っている。

 血脈は、水を通じて伝播する。

 祖父が死んだ理由がようやくわかった。

 彼は逃げたのではない。収束しゅうそくさせるために、自ら空白になったのだ。』

 

 三月十四日。

 それは、僕の誕生日だった。

 

 読み進めるうちに、喉の奥がヒリヒリと焼けつくような感覚に襲われる。

 文章の端々に、不自然な「空白」があった。

 

 『奴は(  )にいる。

 目を閉じても無駄だ。瞼の裏にも(  )はあるから。

 逃れる唯一の方法は、パズルを完成させること。

 (  )、(  )、(  )。

 この三つの欠片を揃えた時、㦸は㦸ではなくなる。』

 

 (  )の部分は、ただの空白ではない。

 紙の繊維がそこだけ毛羽立ち、まるで「誰かが物理的にそこにあった言葉を剥ぎ取った」かのような、生々しい傷跡になっていた。

 

 僕は無意識に、その空白に当てはまる言葉を脳内で探していた。

 「奴は(後ろ)にいる」?

 「奴は(鏡の中)にいる」?

 

 その瞬間、ガリリ、と耳元で音がした。

 

 自分の指先を見て、僕は絶叫しそうになった。

 いつの間にか、僕の右手の人差し指の爪が、ノートの空白部分を激しく掻きむしっていた。

 爪の間に、古びた紙の繊維と、自分自身の血が混じり合ってこびりついている。

 

 「あ……ああ……」

 

 痛みは遅れてやってきた。

 だが、その痛み以上に、僕は一つの「理解」に辿り着いてしまった。

 

 このノートの空白を、読者(僕)が想像力で補完した瞬間。

 剥ぎ取られていた「禁忌の知識」が、僕の脳内で再生され、定着していく。

 これは記録ではない。

 読んだ者の脳を書き換える、インストール・プログラムだ。

 

 スマホが震えた。

 通知画面に表示されたのは、大学の友人からのラインだった。

 

 『健太、今日図書館にいた? 変なノート、拾わなかった?』

 

 僕は震える指で返信しようとした。

 だが、スマホの画面に映る自分の顔の横に、

 「黒い染み」以外の「何か」が、はっきりと映り込んでいた。

 

 それは、僕の肩越しに、スマホの画面を覗き込む――。

 

 指がないはずの、異様に長い「腕」だった。

 

 【SAN値:88 / 100】


【読者への汚染:欠落のパズル Lvl.1】


あなたは、ノートの空白に何を当てはめましたか?


「奴は(  )にいる」


もし、あなたが「背後」や「画面の向こう」といった言葉を思い浮かべたのなら、注意してください。

パズルのピースは、既に一枚、あなたの脳内に置かれました。


次回、第2話「マリオットの怪物」に続く。

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