第3話:接触感染:ルポライターの記録
【SAN値:28 / 100】
この原稿を書いている今も、私の指先は微かに震えている。
これが恐怖によるものなのか、それとも、私が触れてしまった「あれ」の副作用なのかは分からない。
私は葉山。しがないフリーのオカルトライターだ。
私が某大学の心理学部生、佐藤健太の失踪事件に興味を持ったのは、ネットの掲示板で奇妙な噂を目にしたからだった。
『北門の水たまりを踏むと、異世界に連れて行かれる』
そんな三流都市伝説の発生源が、彼の失踪と同時期だったのだ。
三月十七日。曇天。
私は大家に強引に頼み込み、佐藤健太が住んでいたアパートの部屋に入れてもらった。警察の捜索はすでに終わっており、「事件性なしの家出」として処理されていたが、部屋は借り手がつかないまま放置されていた。
六畳一間のワンルーム。
ドアを開けた瞬間、鼻をついたのは「湿気た古本の匂い」だった。
部屋は奇妙なほど片付いていた。争った形跡も、急いで荷物をまとめた形跡もない。ただ、生活していた人間だけが、フッと真空パックのように消滅したような、不自然な静寂。
「……なんだ、これは」
部屋の中央。畳の上に、一台のスマートフォンが置かれていた。
充電ケーブルに繋がれたまま、まるで誰かが来るのを待っていたかのように、画面が淡く発光している。
私は手袋をはめ、そのスマホを拾い上げた。
ロックは掛かっていなかった。スワイプすると、開かれていたメモアプリの画面が表示された。
そこには、狂気としか思えない文章が羅列されていた。
『右後ろの染みが話しかけてくる』
『マリオット盲点の中に歯が生えている』
『血脈の収束。僕は選ばれた。僕が器になる』
『( )を見てはいけない。見たら繋がってしまう』
典型的な統合失調症の妄想ノート、あるいは質の悪い創作メモ。
私はそう結論付けようとした。だが、メモの最後に記された一文が、私の視線を釘付けにした。
『この記録を読んだ次の人間へ。 君の右足の親指は、もう無事か?』
心臓が跳ねた。
今朝から、右足の靴擦れが酷く痛んでいたからだ。
まさか。そんな馬鹿な。
私は気味の悪さを振り払うように、スマホのカメラロールを開いた。彼の最期の足取りが分かるかもしれない。
最新の画像データ。
日付は、彼が失踪したとされる三月十五日の深夜。
サムネイルをタップする。
表示された画像を見て、私は息を飲んだ。
それは、真っ暗な部屋の中でフラッシュを焚いて撮影された、一枚の写真だった。
写っているのは、壁一面に貼られた新聞紙の山。
そして、その中央に、カメラに向かって手を伸ばしている「何か」が写っていた。
それは人間ではなかった。
人の形をしていたが、その全身は、皮膚の代わりに「びっしりと文字が書かれた古い紙」で覆われていた。
顔があるべき場所には、ぽっかりと「空白」が開いている。
そして。
その空白の顔が、カメラ――つまり、今スマホを持っている私――を、確かに「見て」いた。
――ベチャリ。
背後で音がした。
誰もいないはずのユニットバスの方角から。濡れた雑巾で床を叩くような音。
私はゆっくりと振り返る。
開けっ放しの風呂場のドア。その奥にある洗面台の鏡。
鏡の中の私は、青ざめた顔でこちらを見ていた。
だが、私の知っている私の顔とは、決定的に何かが違っていた。
鏡の中の私の「右目」には、白目がなかった。
右目の眼窩全体が、あのスマホの写真で見たのと同じ、底なしの「空白」になっていた。
私は悲鳴を上げてスマホを取り落とした。
床に落ちたスマホの画面が、衝撃で一瞬明滅し、そして、カメラモードに切り替わった。
上向きになったインカメラが、私を見上げている。
画面の中の私は、右目を手で覆い、恐怖に歪んだ顔をしていた。
だが、画面の中の私の背後。
天井の隅に。
いつの間にか、あの「紙でできた怪物」が張り付いて、私の頭上を覗き込んでいた。
【SAN値:24 / 100】
【読者への汚染:欠落のパズル Lvl.8】
ルポライターの葉山氏は、佐藤健太が残した「情報」に触れたことで、感染しました。
彼は知らなかったのです。
「怪異」が彼を襲ったのではありません。
彼が情報を認識したことで、彼自身の脳が、怪異をこの世に「出力」してしまったのです。
さて、あなたはどうでしょうか?
あなたが今、このテキストを読んでいる端末。
それは本当に、あなたが買ったものですか?
佐藤健太の部屋に残されていたスマホと、同じものではないと言い切れますか?
第4話「文字化けする認識:崩壊の始まり」へ続く。
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