プロローグ:視界の余白、あるいは産声
『時計の針が重なる時、それは始まる』
【SAN値:95 / 100】
雨の日は、世界が少しだけ「重く」なる。
アスファルトに染み込んだ湿り気が、靴底を通じて体温を奪っていく感覚。ビニール傘を叩く不規則なリズム。僕は、心理学の講義で聞いた「感覚遮断」についての話を思い出しながら、大学の北門へと向かっていた。
僕、佐藤 健太には、幼い頃からの奇妙な癖がある。
それは、横断歩道を渡るとき、白線からはみ出した「水たまり」を、わざと右足で踏み抜いて歩くことだ。
深い意味はない。ただ、そうしなければならないような、奇妙な強迫観念。
水たまりの中央に右足を落とし、泥水が跳ね、靴下が冷たく濡れる。その不快感が脳に届いた瞬間、何かが「カチリ」と音を立てて噛み合うような、奇妙な満足感を得るのだ。
「……またやった」
北門前の交差点。信号が点滅し始めた。
僕はいつものように、白線の右側にできた、鏡のように暗い水たまりを見つけた。
空を映しているはずなのに、その水面は妙に濁り、底が知れないほど深く見えた。僕は吸い寄せられるように、そこへ右足を振り下ろした。
――バシャリ。
冷たい。
いや、冷たいというより、もっと鋭利な何かが足首を掴んだような感触だった。
その瞬間、僕は「見た」気がした。
水たまりの中に、僕を映すはずの鏡面の中に、僕ではない「何か」の視線が、深淵の底からこちらを見上げているのを。
慌てて足を抜き、歩道を走り抜ける。
背後に視線を感じた。物理的な視線ではない。脳の裏側に直接突き刺さるような、粘り気のある残響だ。
大学の図書館。静寂が支配する閲覧室で、僕は濡れた靴下を気にしながら椅子に座った。
開いた教科書の内容が、全く頭に入ってこない。
視界の右後ろ。
ちょうど、首をどれだけ回しても見ることができない、意識の死角。
そこに、「何か」が張り付いている。
心理学では、これを「盲点」の補完作用で説明できるはずだ。
視神経が束ねられる網膜の欠損部。そこには何も映らないはずなのに、脳が周囲の情報をコピーして「空白」を埋める。
だから、今僕が感じている「黒い染み」のような違和感も、単なる脳のバグ、あるいは雨の日の疲労が生んだ錯覚に過ぎない。
そう自分に言い聞かせ、僕はペンを走らせた。
だが、その時。
ガサッ。
隣の席で、誰かが古びた紙をめくるような音がした。
見ると、そこには誰もいない。
ただ、テーブルの上に、誰かが置き忘れたような一冊のノートがあった。
表紙はひどく日焼けし、革のような質感を持ちながら、どこか生物の皮膚を思わせる、不気味な光沢を放っている。
僕は、手を伸ばしてはいけないと思った。
本能が警鐘を鳴らしていた。
だが、僕の指先は、さっき水たまりを踏んだ時と同じような、「抗えない運動」に従って動き、その表紙をめくっていた。
一ページ目。
そこには、震えるような筆跡で、たった一行だけ、こう記されていた。
『㦸(わたくし)は、見てしまった。』
一瞬、読み方を間違えたのかと思った。
「私」ではない。
「㦸(ほこ)」……?
武器を意味するはずの漢字が、一人称の代わりのようにそこに収まっている。
いや、よく見ると、その文字は微妙に震え、紙の上でうごめいているようにさえ見えた。
その時、図書館の照明が、一瞬だけ瞬いた。
――気づいてはいけない。
脳内で、誰かの声が響いた気がした。
自分の声ではない。もっと古く、もっと重い、血の底から這い上がってきたような声だ。
僕は慌ててノートを閉じ、鞄に押し込んだ。
心臓の鼓動が、異常なほど速い。
周囲を見渡すが、他の学生たちは平然と参考書を読み、キーボードを叩いている。
世界は何も変わっていない。
雨は降り続き、日常は続いている。
だが、僕は知っている。
僕が水たまりを踏んだあの瞬間、何かのスイッチが入ってしまったことを。
そして、一度認識してしまった「視界の端の黒い影」は、もう二度と消えないことを。
僕は震える手でスマホを取り出し、無意識に検索窓に打ち込んでいた。
「盲点 埋める 方法」
検索結果の最上部。
そこには、見たこともない奇妙なドメインのサイトが表示されていた。
タイトルはない。
ただ、数行の説明文が、僕の視線を吸い寄せた。
『欠落は、あなたを求めている。血脈の収束は、既に始まった。
このページを読み終えた時、あなたは最初の共犯者となる。』
僕は、逃げなければならないと思った。
だが、指は勝手に、そのリンクをタップしていた。
画面が暗転し、一文字ずつ、ゆっくりと白い文字が浮き上がる。
それは、今僕が鞄に入れたノートの一ページ目と、全く同じ文章だった。
『㦸は、見てしまった。』
その瞬間、僕の視界の右後ろにあった「黒い染み」が、一際大きく、どろりと広がった。
――ようこそ。
画面の反射の中に映る自分の顔が、一瞬だけ、左右非対称に歪んだ気がした。
【SAN値:93 / 100】
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