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視界の空白:或いは血脈の収束について  作者: beens
第1章:覗き込む盲点

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1/13

プロローグ:視界の余白、あるいは産声

『時計の針が重なる時、それは始まる』

【SAN値:95 / 100】

 雨の日は、世界が少しだけ「重く」なる。

 アスファルトに染み込んだ湿り気が、靴底を通じて体温を奪っていく感覚。ビニール傘を叩く不規則なリズム。僕は、心理学の講義で聞いた「感覚遮断」についての話を思い出しながら、大学の北門へと向かっていた。

 僕、佐藤さとう 健太けんたには、幼い頃からの奇妙な癖がある。

 それは、横断歩道を渡るとき、白線からはみ出した「水たまり」を、わざと右足で踏み抜いて歩くことだ。

 深い意味はない。ただ、そうしなければならないような、奇妙な強迫観念。

 水たまりの中央に右足を落とし、泥水が跳ね、靴下が冷たく濡れる。その不快感が脳に届いた瞬間、何かが「カチリ」と音を立てて噛み合うような、奇妙な満足感を得るのだ。

「……またやった」

 北門前の交差点。信号が点滅し始めた。

 僕はいつものように、白線の右側にできた、鏡のように暗い水たまりを見つけた。

 空を映しているはずなのに、その水面は妙に濁り、底が知れないほど深く見えた。僕は吸い寄せられるように、そこへ右足を振り下ろした。

 ――バシャリ。

 冷たい。

 いや、冷たいというより、もっと鋭利な何かが足首を掴んだような感触だった。

 その瞬間、僕は「見た」気がした。

 水たまりの中に、僕を映すはずの鏡面の中に、僕ではない「何か」の視線が、深淵の底からこちらを見上げているのを。

 慌てて足を抜き、歩道を走り抜ける。

 背後に視線を感じた。物理的な視線ではない。脳の裏側に直接突き刺さるような、粘り気のある残響だ。

 大学の図書館。静寂が支配する閲覧室で、僕は濡れた靴下を気にしながら椅子に座った。

 開いた教科書の内容が、全く頭に入ってこない。

 視界の右後ろ。

 ちょうど、首をどれだけ回しても見ることができない、意識の死角。

 そこに、「何か」が張り付いている。

 心理学では、これを「盲点マリオット」の補完作用で説明できるはずだ。

 視神経が束ねられる網膜の欠損部。そこには何も映らないはずなのに、脳が周囲の情報をコピーして「空白」を埋める。

 だから、今僕が感じている「黒い染み」のような違和感も、単なる脳のバグ、あるいは雨の日の疲労が生んだ錯覚に過ぎない。

 そう自分に言い聞かせ、僕はペンを走らせた。

 だが、その時。

 ガサッ。

 隣の席で、誰かが古びた紙をめくるような音がした。

 見ると、そこには誰もいない。

 ただ、テーブルの上に、誰かが置き忘れたような一冊のノートがあった。

 表紙はひどく日焼けし、革のような質感を持ちながら、どこか生物の皮膚を思わせる、不気味な光沢を放っている。

 僕は、手を伸ばしてはいけないと思った。

 本能が警鐘を鳴らしていた。

 だが、僕の指先は、さっき水たまりを踏んだ時と同じような、「抗えない運動」に従って動き、その表紙をめくっていた。

 一ページ目。

 そこには、震えるような筆跡で、たった一行だけ、こう記されていた。

『㦸(わたくし)は、見てしまった。』

 一瞬、読み方を間違えたのかと思った。

 「わたくし」ではない。

 「㦸(ほこ)」……?

 武器を意味するはずの漢字が、一人称の代わりのようにそこに収まっている。

 いや、よく見ると、その文字は微妙に震え、紙の上でうごめいているようにさえ見えた。

 その時、図書館の照明が、一瞬だけ瞬いた。

 ――気づいてはいけない。

 脳内で、誰かの声が響いた気がした。

 自分の声ではない。もっと古く、もっと重い、血の底から這い上がってきたような声だ。

 僕は慌ててノートを閉じ、鞄に押し込んだ。

 心臓の鼓動が、異常なほど速い。

 周囲を見渡すが、他の学生たちは平然と参考書を読み、キーボードを叩いている。

 世界は何も変わっていない。

 雨は降り続き、日常は続いている。

 だが、僕は知っている。

 僕が水たまりを踏んだあの瞬間、何かのスイッチが入ってしまったことを。

 そして、一度認識してしまった「視界の端の黒い影」は、もう二度と消えないことを。

 僕は震える手でスマホを取り出し、無意識に検索窓に打ち込んでいた。

 「盲点 埋める 方法」

 検索結果の最上部。

 そこには、見たこともない奇妙なドメインのサイトが表示されていた。

 タイトルはない。

 ただ、数行の説明文が、僕の視線を吸い寄せた。

『欠落は、あなたを求めている。血脈の収束は、既に始まった。

 このページを読み終えた時、あなたは最初の共犯者となる。』

 僕は、逃げなければならないと思った。

 だが、指は勝手に、そのリンクをタップしていた。

 画面が暗転し、一文字ずつ、ゆっくりと白い文字が浮き上がる。

 それは、今僕が鞄に入れたノートの一ページ目と、全く同じ文章だった。

『㦸は、見てしまった。』

 その瞬間、僕の視界の右後ろにあった「黒い染み」が、一際大きく、どろりと広がった。

 ――ようこそ。

 画面の反射の中に映る自分の顔が、一瞬だけ、左右非対称に歪んだ気がした。

 

 【SAN値:93 / 100】

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