66. 朝から修羅場、そして旅立ち
「ん……」
小鳥のさえずりと、窓から差し込む眩しい日差し。
まどろみの中で意識がゆっくりと浮上していく。
どうやら、作業の合間にいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
……それにしても、温かい。
暖房の効いた工房の中とはいえ、それ以上だ。
まるで極上の羽毛布団に包まれているような、妙に安心する温もり。
それに、何か柔らかい感触と、ほのかに甘い匂いがする。
「……すぅ……んゅ……」
耳元で可愛らしい寝息が聞こえた。
重たいまぶたをゆっくりと開く。
――目の前。
距離にして、ほんの数センチ。
そこにあったのは、ルミナの寝顔だった。
あどけない表情で無防備に口を開け、すやすやと眠っている。
俺とルミナは一枚の大きな毛布にくるまり、身を寄せ合うような格好で眠っていた。
「うわっ!?」
慌てて身を離そうとしたが、ルミナが俺の腕を抱き枕のようにぎゅっと掴んでいて、びくともしない。
「むにゃ……待ってぇ……」
「ちょ、ちょっと……起きろルミナ! これは色々とまずい!」
何がどうしてこうなった。
昨夜、疲れてソファで仮眠を取ろうとしたところまでは覚えている。
確かルミナが「寒いから毛布持ってくるねー」と言って……そのあたりから意識が途切れた。
まさか一緒に入ってくるとは思わないだろ。常識的に!
ガチャリ。
工房の扉が開く音がした。
空気が凍りつき、背筋を絶対零度の悪寒が駆け抜けた。
恐る恐る、入口の方へ首を回す。
そこには、マリアが立っていた。
能面のような無表情でこちらを見つめている。
「あ、おはよう、マリア。これは、その……違うんだ。不可抗力というか、事故というか……」
マリアは何も言わず、ゆっくりと視線を動かした。
俺の顔から、腕に絡みつくルミナへ。
そして、毛布の中で密着した身体へ。
――確認が丁寧すぎる。
やがて、マリアはニッコリと微笑んだ。
けれど、その目はまったく笑っていない。
「朝食に呼びに来たんだけど。どうやら……お邪魔だったみたいね」
それだけ告げると、マリアはくるりと背を向ける。
「……どうぞ、ごゆっくり」
「ちょ……違う――!」
バタンッ!
盛大な音を立てて、工房の扉が閉められた。
「……誤解だぁ……」
俺の悲痛な叫び声が工房に虚しく響く。
「んぁ……?」
その声で、ようやくルミナが目を覚ました。
「たー坊、おはよー……。……ん? なんかあった?」
……全ての元凶が心底きょとんとしていやがる。
言いたいことは山ほどあったが、喉の奥で全部つかえて言葉にならなかった。
気まずさを引きずったまま、母屋のリビングへ移動した。
食卓にはシチューに焼きたてのパン、彩りのいい副菜まで並ぶ豪華な朝食。
けれど俺の胃は喜ぶどころか、きりきりと痛んでいる。
マリアは俺とルミナの存在を完全に無視して、無言でパンを口に運んでいた。
視線すらこちらに向けない。
セシルもリゼも、張り詰めた空気を察してか、必要最低限の動きしかしない。
この場に漂う空気は静かだが、明らかに重かった。
「……ごちそうさま」
ルミナがカトラリーを置き、背筋を伸ばす。
その表情から、いつものふざけた軽さは消えていた。
いよいよ、その時が来た。
「ママ。話があるの」
ルミナの声に、ヒルダさんの手が止まる。
「……船、完成したのね」
「うん」
短い返事。
ルミナは視線を逸らさず、母親を真正面から見据えている。
「だからボク、行くよ。みんなと一緒に、天の柱へ」
その瞬間。
ガタン、と椅子が鳴った。
ヒルダさんが勢いよく立ち上がる。
「駄目よ」
短く、けれど強い拒絶。
「あなたはヴァンガードでもない、ただの技師よ。命を張る理由なんて、どこにもない。……たとえ、それがあなたのお父さんの夢だったとしても」
ヒルダさんの視線が鋭く俺に向けられる。
責めるようなその眼差しに、胸が締めつけられた。
「……すみません。でも、俺たちの旅には、ルミナが必要なんです」
「技師が必要なら、ヴァンガードにもいるでしょう! あの子自身が行く必要なんて、ないはずよ!」
「ママ! たー坊を責めないで!」
ルミナが勢いよく立ち上がり、母親の言葉を遮った。
「これはボクが決めたことなの。たー坊は関係ない。ボクが行きたいって言ったんだよ」
「どうして……どうして分かってくれないの!」
ヒルダさんの声が、悲鳴のように震える。
「何があるか分からないのよ!? 帰ってこられる保証なんてどこにもない! お父さんだけでなく、あなたまで……!」
リビングに張り裂けそうな叫びがこだました。
祖母が慌ててヒルダさんの肩に手を置くが、その体の震えは止まらない。
「わかるよ。ママが心配してくれてるの、すごくわかる。……でもね」
ルミナは胸に手を当て、一度、深く息を吸った。
そして、少し潤んだ瞳で俺たちを見渡してから、まっすぐに母親を見据える。
「ボクね……愛してるんだ」
――え?
あまりにも真っ直ぐな言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。
「愛してるの。パパの夢も、不思議でいっぱいのこの世界も。ボクを信じてくれた、たー坊たち友達のことも」
ルミナは少しだけ顔を赤らめながら、それでも視線を逸らさずに続ける。
「知りたいんだ。パパが目指した場所に、何があるのか。どうして世界が、今の形になったのか」
言葉は静かだが、芯があった。
「それに……守りたい。大切な人たちが傷つくのを、遠くから見てるだけなんてボクにはできない。『何もしなかった』って後悔するくらいなら、行って、ちゃんと向き合いたい」
それは、ただの好奇心でも名誉欲でもない。
技術者としての誇りと、人を想う心が結びついた、紛れもない本心だった。
「愛してるから……行くの。守りたいから」
ヒルダさんは言葉を失い、ただ娘を見つめていた。
その瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。
説得できたのか、それとも――。
張りつめた沈黙がリビングを包み込んだ。
その時。
静寂を切り裂くように、セシルの端末が甲高い着信音を鳴らした。
「……はい。セシルです」
通話に出たセシルの表情が、みるみるうちに強張っていく。
「……はい。……わかりました。伝えます」
短くそう告げて通話を切ると、セシルは青ざめた顔でこちらを見た。
「スティグ支部長からです」
「スティグさんが、何て?」
「中央から連絡が入ったそうです。……アレン隊長が、同行できなくなったと」
「……え?」
一瞬、言葉が理解できなかった。
「どういうことだよ……?」
「上層部からの命令だそうです。詳しい理由までは、支部長にも伝えられていないと」
思わず身を乗り出す。
「世界の危機かもしれないんだぞ……!? そんな状況で、行けないなんて――」
「支部長は、『待っても無駄だ。船を持って、すぐに来い』と」
「無駄って……」
胸の奥にざらついた怒りが湧き上がる。
顔も知らない上層部が、安全な場所から指図している。
その一言で、どれだけの覚悟や準備が切り捨てられているのかも知らずに。
「……勝手すぎるだろ」
誰に向けたとも分からない呟きが、低く零れ落ちた。
「待っても無駄、っていう点には同意ね。上層部の命令ってことは、転移そのものを止められてる可能性が高い。今から何を言っても、覆らないでしょう」
そう言って、マリアは席を立った。
「……なんでそんなに物分かりがいいんだよ」
「上層部の指示ってことは、女神様の意向でもあるってことよ」
「女神の……?」
「そう。つまり女神様は、私たちだけで来ることを望んでる」
「待てよ。上層部と女神が繋がってるってことか? どういう関係なんだ」
「それを知る必要は、あんたにはないわ」
マリアは一瞬だけ視線を逸らし、淡々と続ける。
「どうせ、もうすぐ元の時代に帰るんでしょ。……万が一、帰れないなんてことになったら。その時に教えてあげる」
「ごちそうさまでした。ヒルダさん、泊めていただきありがとうございました」
きちんと頭を下げると、マリアはそのまま早足で玄関へ向かった。
「お、おい、マリア……!」
呼び止める間もなく、彼女の背中は遠ざかる。
「あ、ありがとうございました!」
セシルも慌てて立ち上がり、深く一礼すると、マリアを追うようにリビングを後にした。
残された沈黙の中で、ルミナが母親に向き直る。
「……ごめんね、ママ。行ってきます」
それは、まるで今生の別れを告げる言葉のように響いた。
ヒルダさんは力が抜けたように椅子へと崩れ落ち、両手で顔を覆う。
かけるべき言葉は、何ひとつ見つからなかった。
俺はただ一礼し、何も言えないままリゼと共にルミナの背中を追った。




