57. 約束
マンションまでルーティを送り届けたあと、マリアとふたりで帰路についた。
並んで歩きながらも、お互いひと言も発しない。
夜風が肌を刺すはずなのに、横を歩くマリアの沈黙の方がよほど冷たく感じた。
絶対、まだ怒ってる。
そんな確信めいた予感が胃をきりきりと締めつける。
このままでは屋敷に帰り着く前に、俺の精神が崩壊するのが先だ。
とにかく、何か話さなければ。
まずは無難な話題から。
「よ、夜って……やっぱ冷えるな」
マリアは瞬きひとつせず、前を向いたまま無言で歩き続ける。
無視。
完全なる無視だ。
――あ、これダメなやつだ。
背中に冷や汗が流れる。
もはや小手先の誤魔化しは効かないと悟り、覚悟を決めた。
「その……ごめん」
まずは謝るしかなかった。
「……何が?」
視線は向けないまま、短く冷たい一言。
それでも、拒絶の沈黙から抜け出したというだけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「その……みんなが頑張ってるときに、俺だけうつつを抜かしてたこと」
「……それだけ?」
「それが原因で……リゼを危険にさらした」
「他には?」
淡々と突いてくる。
逃げ道はない。
「マリアの……昔のこと。過去の事件。……聞いてしまった」
ピタリ、とマリアの足が止まった。
一瞬の間のあと、彼女は再び歩き出す。
「エミリアから聞いたんだ。……未遂だったって」
「……あの子まで巻き込んだのね」
「ごめん……」
「あの日、誰かが倉庫の鍵を開けてくれた。それで助かったの。あれがなかったら……私は、たぶん今ここにいないわ」
その声は静かで淡々としていたが、妙に重かった。
ここにいない――その言葉が何を意味するのか。
心が壊れていたか、それとも命そのものを絶っていたか。
想像するだけで胸が苦しくなり、俺は拳を握りしめた。
「……で?」
「えっ」
「まさか、それで全部? まだあるでしょ」
「うぐ……」
「ほら、言いなさいよ」とでも言いたげな目。
しかし、他に何があるのか思いつかない。
必死に頭を回す。
「もしかして……あのチョコレート食べたこと? あれ、マリアが戸棚の奥に隠してたやつ」
「違うわよ。ていうか、あれ食べたのあんた!? 楽しみにしてたのに! ……最低」
「ごめん……。って、そのことじゃないのか。正直、これ以上思い当たらないよ」
マリアは大きく、呆れたようにため息をついた。
「そういうところよ。ほんと鈍いんだから。……ルーティのこと、傷つけたでしょ」
「……」
「私はあいつのこと嫌いだけど、それはそれ。あんたがやったことは普通に酷いわよ。その気がないくせに、思わせぶりな態度で期待させて」
「そんなつもりは……」
「なかったって、本気で言えるの? 寂しさを埋めるのに丁度いいって、無意識に甘えてたんじゃない?」
図星だった。
鋭い問いに、言葉が詰まる。
「女の敵ね。……でもま、最後はちゃんと線引きしたみたいだし、ギリ及第点ってことにしておくわ」
ことばの棘が、ほんの少しだけ丸くなっていた。
このままずっと軽蔑され続けるのかと思っていたから、それだけで救われた気がした。
……それにしても。
マリアは俺とルーティのやり取りを、どこまで聞いていたんだろう。
地下のやつも、さっきのも、聞かれてたら普通に死ぬほど恥ずかしい。
「あのさ……ルーティとのやり取り、どこまで聞いてたんだ? 聖堂の地下のことも、さっきのも……」
マリアは前を向いたまま、そっけなく言った。
「さあ。どうかしら」
はぐらかされた。
その含みのある言い方は、絶対いろいろ聞いてるやつだ。
「でも、振ってよかったの? 似た者同士で、案外お似合いだと思ったけど」
「いいんだよ。元の時代に帰ったら会えなくなるし……それに、俺だって誰でもいいってわけじゃないんだ」
「……そっか」
暗い夜道で、こちらを見ようともしないから、マリアの表情はまるで読めなかった。
再び無言のまま歩き続け、屋敷が見えてきた頃。
不意にマリアが立ち止まった。
「どうした?」
「ねえ……まだ、何か忘れてない?」
何だ?
まだ何かあるのか?
これ以上の失態なんてあったか?
「うーん、これ以上は……」
「本当に忘れたの? 約束」
――あ。
そういえば今日はマリアと出かける予定だった日だ。
色々ありすぎて、完全に頭から抜け落ちていた。
「そうだ……一緒に出かけるって、約束してたな」
「こんなかわいい女の子との約束を忘れるなんて。いい度胸ね」
「ご、ごめん! 本当に悪かった!」
「……ま、思い出したからギリセーフってことにしてあげる」
その言い方はいつもの棘だらけなのに、どこか少しだけ柔らかい気がした。
もしかして、楽しみにしてくれてたのか。
「残念だったな……。あ、今からでもどこか行く?」
「本気で言ってるの? 流石に今日は疲れたわ」
そう言いながらマリアはそっと視線を横へ流し、ほんの少し声のトーンを落とした。
「でも――明日なら、いいわよ」




