56. ありがとう
「犬だぁ? ふざけてんのかコラ!」
ネルドが怒鳴り、威圧するように詰め寄ってくる。
その後ろで、ルーティは乱れた服を必死にかき合わせながら、氷のような視線を俺に向けていた。
「……何しに来たの。みじめな私を、笑いに来た?」
自嘲気味な声。
でも、震えているのがわかる。
強がりだ。
「約束しただろ。ご主人様が危ない時は駆けつけるって。さあ――ご命令を」
「はぁ? いい加減にしてよ。ふざけてるの?」
「そうだ! てめぇに用はねぇんだよ、消えろ!」
ネルドが吠えるが、俺は一瞥もくれずルーティだけを真っ直ぐに見つめる。
「ご命令を」
「……」
ルーティは唇を噛み、俯いたまま何も言わない。
沈黙が痛い。
けれど、彼女が言葉にするまで俺は動かない。
それが「犬」の役目だ。
「……けて。……助けて」
消え入りそうな、途切れ途切れの声。
それでも、確かに届いた。
「かしこまりました、ご主人様」
俺はルーティに向かって恭しく一礼した。
「どうやら、またボコボコにされてぇみたいだな!」
ネルドが拳を振りかぶる。
風を切る音が聞こえるほどの全力の一撃。
次の瞬間――。
「ぐあっ!? いってえぇ……!」
潰れたのは俺の顔ではなく、ネルドの拳だった。
俺の顔の数センチ手前で、拳は見えない壁に阻まれていた。
「どうだ? 面白いだろ。特定の範囲の分子間のつながりを強化して、分子運動の位相を同期させて作る見えない壁……“エア・シールド”。今考えた」
もちろん、適当な理屈だ。
リゼが難しいことを言っていた気もするけど、要は「硬い空気の壁」をイメージしただけだ。
イメージだけで物理法則すらねじ曲げる。
それがこのギアの力だ。
「くそっ……何か細工しやがったな! 舐めやがって!」
ネルドは腫れあがった拳を押さえ、顔をゆがめて睨みつけてくる。
俺は、そんな奴に向けてゆっくりと右手をかざした。
「じゃ、次はこっちだ」
マナを込める。
ネルドの拳がすっと色を失い、白く染まっていく。
「あ、ぐっ……てめぇ、何をした!」
拳を抱え、ネルドが苦悶の表情を浮かべる。
「感覚、無くなってきてるだろ? 凍っていってるんだよ。手だけじゃない。やろうと思えば、全身を一瞬で氷像に変えて、粉々に砕くこともできる」
「おい、一般人にギア使うのは重罪だぞ!? バレたらただじゃ済まねぇぞ!」
「どうぞ呼べば? 警察でもなんでも。こっちでは婦女暴行未遂とこれ、どっちが重いんだろう?」
「くっ……卑怯だぞ……!」
「卑怯? 昼間、数人で取り囲んで殴った奴がよく言うな」
一歩踏み出し、再び掌をネルドへ向ける。
無色の領域がじわじわと手首から腕へと広がっていく。
「ほら、誓えよ。彼女に二度と近づかないって。二度と手を出さないって」
ネルドは歯を食いしばり、脂汗を流しながら後ずさる。
「早く言わないと、その手、本当に使えなくなるぞ」
どこかで聞いたセリフだな……と自分で思う。
もちろん、本当に凍らせるつもりはない。
ただの脅しだ。
昼間の仕返しも含めて。
「くそっ……お、覚えてろよ……!」
「ん? 覚えないといけないのか? それは面倒だから、やっぱりここで――」
言い終える前に、ネルドは脱兎のごとく走り去っていった。
……ふぅ。
肩の力を抜く。
さて、ここからが本番だ。
「……どうして助けたの」
ルーティが険しい目でこちらを見上げる。
「約束したからな。『犬になる』って」
「ふざけないで。私はあなたを利用しようとしたのよ。助けられる道理なんてない」
「でも、『助けて』って言ったよな?」
「……っ、言わされたのよ! あなたが、言わせたんじゃない!」
「俺は紳士だからな。女性が襲われてたら助ける。それだけは譲れない。……でも、それだけじゃない」
彼女の前にしゃがみ込み、視線を合わせる。
「似てるんだよ。俺と君は。落ちこぼれで、どうしようもない壁を見せつけられて、上を見れば化け物みたいな連中ばっかりで。どうせ無理だって、心のどこかで諦めてる」
ルーティの瞳が揺れる。
「似てるですって? さっきのギア……あんな力を持っててよく言えるわよ。持ってる側が、持たざる側に適当に共感した気になってるだけでしょ」
「確かに、最近この力を手にして、ちょっとはマシになれたのかもしれない。でもさ、ルーティ。君だって落ちこぼれなんかじゃないはずだ」
「……何が言いたいの?」
「俺、あの時、君に声をかけてもらって救われたんだ。周りのみんなが役割を果たしてる中、自分だけ何もできなくて、情けなくて。そんな時に、君があの笑顔で話しかけてくれた。それだけで気持ちが軽くなった」
あの日のことを思い出しながら言葉を紡ぐ。
「あの笑顔は作りものなんかじゃなかった。君には、人を楽しませて、笑顔にできる力がある。立派な聖女の力だよ」
「何それ。たまたま心細い時に、都合よく寂しさを紛らわせただけじゃん」
「そうだよ。だから……ごめん。俺こそ、君を利用した」
ルーティが息を呑む。
頑なだった表情が崩れ、瞳から涙がこぼれ落ちた。
「……責任、とってよ。好きなの……最初はマリアを困らせるためだった。でも、気づいたら……本当の気持ちがわからなくなって……」
彼女の瞳に、街灯の光が揺れている。
絞り出すような、切実な告白。
「私、ソウタが好き」
その想いを受け止めるように、彼女の瞳をしっかりと見つめる。
もう迷わない。
「……ごめん。君の気持ちには応えられない。本当に、ごめん」
深々と頭を下げる。
傷つけることを恐れて、さらに傷つけた。
最低なのは、俺の方だ。
かすかなすすり泣きが聞こえた。
「……わかりました。……ううん。まだ……すぐには諦められない、かも」
互いに言葉を失ったまま、しばし沈黙が落ちる。
何か言わなきゃと思うのに、適切な言葉が見つからない。
そんなとき――。
「もういい? 話は終わり?」
背後から、棘があるのに何故だか安心できる声が響いた。
振り返ると、案の定、そこにいたのはマリアだった。
腕を組み、まるで三流の芝居でも眺めているかのような冷めた表情。
「ま、マリア……どうしてここに……」
俺の問いには一切答えず、マリアはそのまま横を通り過ぎていく。
向かう先はルーティ。
おい、まさかここで第二ラウンドを始める気じゃ……。
緊張で喉が鳴る。
成り行きを見守るしかない。
「マリア……」
怯えた声でルーティが名を呼ぶ。
その目は、完全に叱られる子供のそれだった。
マリアは無言のままポケットから何かを取り出し、ルーティに突き出した。
ルーティはびくりと身をすくめるが、差し出されたものを見て目を丸くした。
「……マリア、これは……?」
「ゲストキー。私が借りてるマンションの。……どうせ聖堂に居づらくて、ふらついてたんでしょ? 月末まで契約残ってるから、好きに使いなさい」
「え……でも……」
「私にはもう必要ないの。月末までに、これからどうするか自分で考えなさい」
「私……たくさん酷いことをしたのに……なんで……?」
「安心して。今でもあんたのことは嫌いだし、許してもない。お気に入りの服がズタズタにされてた時の絶望感なんて、一生忘れないわ」
「……じゃあ、どうして?」
「仮にも元同僚が、今回の件で路頭に迷うなんて、寝覚めが悪いからよ。これでも慈愛に満ちた聖女なの。ほら、とっとと受け取りなさい」
マリアは言い放ち、カードキーを半ば押し付けるようにルーティの手に握らせた。
「マリア……わたし……っ」
ルーティの頬を、大粒の涙が次々と伝う。
「ご、ごめん……ごめんなさああぁぁ……!」
堰を切ったように、止まらない嗚咽が静かな夜に響く。
まるで、彼女の胸に積もっていた黒いものが一気に溶け落ちていくようだった。
マリアは、やれやれとひとつ溜息をついた。
「そういうときはね――『ありがとう』って言うのよ」
その顔は、皮肉も怒りもなく、どこかほっとしたような優しい表情だった。




