49. 代償
――どうする?
――どうすれば?
――どうしたらいい?
人生で2度目の窮地に、思考がまとまらない。
『キス、しよっか』
頭の奥で、あの時の声が蘇る。
当時付き合っていた彼女――灯の言葉だった。
あの瞬間、俺は固まった。
触れることも、逃げることもできなかった。
そして、フラれた。
馬鹿みたいに後悔した。
何度も、あの瞬間に戻ってやり直せたらと願った。
同じようなことがあれば、今度こそ迷わない――そう決めていたのに。
……なのに、また足がすくんでいる。
いいじゃないか。相手が望んでるんだ。
どうせ帰る。どうせ別れる。
なら、せめてその時までは楽しく過ごしたって……いいだろ?
きっと柔らかい。きっと、いい匂いがする。
うまくいけば、その先だって――。
下卑た妄想が、次々と頭をよぎる。
それを振り払うのに、全神経を使っていた。
「迷ってます? ……でも大丈夫。ソウタさんの中で、私への気持ちがまだ十分じゃないって、わかってます」
――見抜かれていた。
やっぱり、本気かどうかって、伝わってしまうものなんだな。
「それでもいいです。最初は本気じゃなくても、触れ合っていくうちに、気持ちはあとから追いつきますから」
その言葉に、少しだけ心が揺れた。
そうかもしれない。
けど――。
「ごめん。俺、ルーティのこと……真剣に考えてなかった。言ってくれたのは本当に嬉しい。一緒にいるうちに好きになっていくかもしれない。でも……」
一拍置いて、息を吸う。
「今の、この気持ちで君を汚したくない。だから、本当にごめん」
言葉にした瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れた。
沈黙が流れる。
胸が焼けるように痛い。
自分からチャンスを手放して、我ながらバカだと思う。
それでも――自分の心にだけは、嘘をつきたくなかった。
お互い、言葉を失ったまま。
ふたりの間に、張りつめたような静寂が落ちる。
藍色の空の下、俯いた彼女の表情は見えない。
――と、次の瞬間。
「……そう。わかりました」
小さくつぶやいたあと、かすかに彼女の肩が震えた。
泣かせてしまったのか――そう思った。
「……ふふっ……あは……あはは……アハハハハハッ!」
突然、壊れたような笑い声が響いた。
そのあまりの豹変に、思考が追いつかない。
「……ルーティ?」
「“あの女”が男を奪われたら、どんな顔するのかなって。ちょっと面白そうだから、試してみたくなったんだけど」
声が冷たく変わる。
顔を上げた彼女の瞳から、これまでの愛嬌は完全に消えていた。
「――シラケた」
彼女はつまらなそうに吐き捨てた。
笑顔の名残は、もうどこにもなかった。
「たかがキスひとつでうだうだ悩んで、気持ち悪い。『君を汚したくない』? 汚したくないのは、自分自身のことでしょ。そんなにあの女が大事?」
「待ってくれ! 今までのは……全部演技だったってことか!? それに、“あの女”って誰のことなんだ!?」
「本気で言ってる? マリア=ハーヴィングよ。少し前に、あなたと街を歩いてた。すごく楽しそうに」
心臓が大きく脈を打った。
取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。
「聖堂であなたを見たとき、ピンときたの。チャンスだって。声をかけたら案の定チョロそうで、正直、楽勝だと思ってたんだけど」
「……マリアへの嫌がらせのために、俺に近づいたのか? どうして、そんな……」
「簡単なこと。あの女が大嫌いなの」
底知れぬ悪意が込められた声。
「滑稽ね。あんな汚れた女のために必死になって……あ、もしかして知らないの? あの女に、何があったのか」
セシルでさえ伝えられていない過去。
マリア本人が話すまで、俺は聞かないと決めていた。
「それはね――」
待て。やめてくれ。
今、それを――君の口から聞きたくない。
「襲われたの。熱心な“信者”にね」
……え。
耳が拒絶する。
音として理解しているのに、意味が頭に入らない。
「顔を殴られて、衣服をズタズタに破かれて……泣きながら倉庫から出てくる姿は、そりゃもう見ものだったわよ」
脳裏に、マリアの笑顔がよぎる。
強気な声が、照れた仕草が、鮮明に蘇る。
その彼女が――そんな目に?
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
息が詰まり、指先が震えた。
「媚び売って人気を取ろうとするから、そういうことになるのよ。噂じゃ、寮を出たあとも信者から集めた金で高いマンションに住んでたとか。どうせそこで男でも――」
「違う!!」
言葉が怒鳴り声となって、衝動的に口をついて出た。
「あいつは、そんな奴じゃない!!」
自分でも驚くほどの怒気が混じっていた。
ルーティの目が一瞬だけ怯んだように見えた。
「……あっそ。短い間、楽しかったわ。……さようなら」
興味を失ったように吐き捨て、ルーティは背を向けた。
その背中が闇に溶けるまで、俺はただ立ち尽くしていた。
「なんなんだよ……くそっ……」
拳を握りしめる。
けれど、怒りの矛先なんて、どこにもなかった。
ただ、自分の浅はかさだけが胸の中で疼いていた。
帰り道の景色が、やけに遠く感じる。
足取りは重く、胸の奥は鉛のように沈んでいた。
完全に、身から出た錆だ。
みんながそれぞれの役割を果たしている中で、俺だけが女にうつつを抜かし、しまいにはこのザマ。
自分が傷つくのはまだいい。
けど、マリアの尊厳まで踏みにじられる形になった。
明日は、一緒に出かける約束だった。
――どんな顔して、会えばいいんだ。
気づけば、セシル邸の前に立っていた。
外灯に照らされた玄関扉が、やけに冷たく見える。
ノブを握る手に力が入らず、扉がゆっくりと軋んだ。
「ずいぶん遅かったじゃない。……ったく、こんな時に」
リビングには、マリアだけがいた。
この時間なら、セシルもルミナも戻っているはずなのに。
「……どうしたの? 元気、ないみたいだけど」
視線を合わせられない。
後ろめたさが喉元までこみ上げて、声が震えそうになる。
さっき聞いた話が嘘であってほしいと願いながら、同時に、彼女の顔を見るのが怖かった。
「なんでもないよ。それより、セシルとルミナは?」
自分のことを聞かれたくなくて、無理やり話題を逸らす。
「まだ本部よ」
「今日は遅いんだな。何かあったのか?」
マリアはひとつ、深く息を吐いた。
その表情には、焦りと不安が滲んでいる。
「――リゼと、連絡がとれないの」
その言葉を聞いた瞬間。
世界の色が音もなく、すべて抜け落ちた。




