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【地底芸人 モスクムオル】第3章

第1話「リングの下、地底より」


殿下は、高架下の小さな喫茶店で、ブラックコーヒーの沈黙と向かい合っていた。トレーニングウェアのジッパーは半分だけ上がり、手には使い込まれたグローブが握られている。「…ほんまに、プロレスなん?」背後から声がして、振り返ると、そこに栗尾鞠子が立っていた。スカーフを巻いた彼女の視線は、殿下の膝に置かれたレスリングシューズに釘付けだった。


「地上でツッコミしても誰も聞かん。でもな、リングの上やったら、叫べる気がしてん」殿下はそう言って、ぎこちなく笑った。それはどこか、立ち位置の狂った芸人のボケみたいだった。


「モスクムオル、解散してからも、ずっと考えた。俺が地底におった意味って、なんやったんやろって」鞠子は黙って座り、砂糖を入れない紅茶を一口飲んだ。「答え、見つかりそう?」「いや。たぶん、まだ見つかってへん。でもな、マットの上で落ちる痛みって、ツッコミの延長に似てんねん」鞠子は微かに笑った。その笑みには、懐かしさと、ほんの少しの寂しさが混じっていた。


ジーサンは今、鶴橋の路地裏で「紙芝居キャバレー」をひとりで始めていた。紙芝居の幕を開けた瞬間、キャストは全員いなかった。観客もいない。だが彼は語った。「今日の演目は、“叫ぶ赤ん坊と沈黙する世界”や。ええか、鏡」自分の顔を映した鏡に向かって叫び、そして照れたように笑った。


先生は西成の小さな保育園で、なぜか“人生の授業”という謎の講座を受け持っていた。保護者向けのクラスで、今日のテーマは「自分をあきらめない方法」。「夢って、地下に埋まってるもんなんですよ。だから、掘らんとあかんのです」すると一人の若い母親が言った。「でも、もう、しんどいです…」先生は答えた。「なら、地底芸人を見てください。どれだけスベっても、まだ諦めてないバカがおる」笑いと、涙が、ほぼ同時に起きた。


夜。殿下は体育館の端で一人、マットに倒れていた。声が枯れるほど叫び、誰にも届かないマイクに語りかけるような時間。それでも、彼の目は生きていた。遠く離れた場所で、ジーサンは犬の遠吠えを聴き、先生は熟女たちに囲まれて「プロレスって案外ロマンチックですよ」と真顔で語っていた。そしてふと、三人はそれぞれに思った。そろそろ、呼ばれてる気がする。あの名前が、どこからか囁かれている。「モスクムオル…」それは、リングの下から聞こえてくるような、夜のテレビの裏側から漏れるような、地底より、さらに深い場所の声だった。


第2話「リングの下で、笑ってるか?」


殿下は、狭いロッカールームのベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。耳元では団体スタッフが手順を確認しているが、殿下の耳にはほとんど入っていなかった。「今日の相手、元ボクサーの“電撃パパ”らしいですよ」そう声をかけたのは、新人レフェリーの男だった。殿下は笑わずに頷いた。「やっぱ“電撃”なんやな。地底と正反対や」壁の鏡に映った自分の姿。レスラーパンツに赤いマント。誰が見ても、どこかズレていた。だがそれが、彼の「笑い」だった。マットの上で「ズレたまま倒れる」こと。それが、いまの殿下にとってのツッコミだった。


その頃、ジーサンは高架下の廃劇場で、新たな演目の仕込みをしていた。タイトルは《ねじれた干支と、うしろ向きの正月》。前衛紙芝居というより、ほぼ前衛そのものだった。台本はない。観客もいない。ただ、傍らで野良猫がこちらをじっと見ていた。「ほな行こか、世界。ちょっとだけ裏側見せたるわ」そうつぶやいて、彼は紙芝居をめくった。誰にも見られなくても、芸は芸だった。


先生は、梅田の地下街で「一分間人生相談」というブースを出していた。占いと間違えて入ってきたOLが「恋がうまくいかない」と泣き出すと、先生はいつも通りの口調でこう言った。「そらな、地上で愛を探すからや。いっぺん地底に埋めてみてん」わけがわからず笑いながら、OLはハンカチで涙をぬぐった。「なんなんですか、それ」「ボケです」「泣けるボケ、ですね」先生は笑った。ほんの少し、寂しそうに。


夜、プロレス会場の照明が落ちる。「第4試合!地底より現れし孤高の芸人レスラー!その名も“殿下!”」スポットライトが殿下を照らす。マイクを握り、リング中央で言った。「おまえらー!地上は面白いかーっ!」誰も意味はわかっていない。だが何かが、心に引っかかったようだった。対戦相手の“電撃パパ”に投げ飛ばされながら、殿下は叫んだ。「ツッコミはなァー!まず自分にするんやぁー!」その言葉が、なぜか客席の一角から拍手を呼んだ。それを、十三のカラオケ喫茶で栗尾鞠子は静かに見ていた。笑っているのか、泣いているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、こう思った。「…まだ、終わってへん」


第3話「紙芝居とスパイスとあなた」


廃劇場にかすかに差し込む朝の光が、埃の舞うステージを照らしていた。ジーサンは、大きな紙芝居の一枚目に「無題」と墨で書いた。内容は未定。観客もいない。だがそれでよかった。「芸は、誰にも見られんでも、発酵するんや」そう言い聞かせるように呟いた。その日の午後、ひとりの女性が劇場に足を踏み入れた。細身のパンツスーツ。くたびれたトートバッグ。栗尾鞠子だった。「ほんまに、やってたんや」「おう。誰も見にけぇへんけどな。…よう来たな、鞠子」


彼女は何も言わずにベンチに腰を下ろした。ジーサンが紙芝居を一枚、ゆっくりとめくった。《タイトル:スパイスの効いた別れ話》「むかしむかし、辛口のツッコミと、甘口のボケがいました。ある日、ふたりは中辛で別れました。中途半端が、いちばん辛いんやて」鞠子は、吹き出した。「なにそれ。中辛って、別れの温度なん?」「せや。“ちょうどええ”なんて、芸にはいらん」ふたりの間に、静かな時間が流れた。かつてUP TO MEで語り合った夜のことが、そっと戻ってくるようだった。


鞠子は小さく切り出した。「殿下、プロレスやってるよ」「ああ。聞いとる。投げられとるらしいな」「それが、ちょっとずつ人気出てきてるみたい。なんか、“自分にツッコむレスラー”とか言われてる」ジーサンは頷きながら団扇で顔を仰いだ。「あいつ、地底ちゃう方向に行きよったな。ええこっちゃ」「寂しい?」「そらな」そう言ったジーサンの目に、少しだけ涙がにじんでいた。それを見て、鞠子はハッとした。「この人、いちばん“モスクムオル”にいたかったんや」「もう一回、三人集まることって、あるんかな」


鞠子の問いに、ジーサンは答えなかった。ただ、団扇を置き、もう一枚紙芝居をめくった。《タイトル:つながってるけど、会えない人たち》「そこに、あいつらが出てくるんやろ?」「かもな。出てこーへんかもな。でも紙に描けば、なんでも呼べる」「すごいな。芸って」「芸やからな」


その夜、先生の“ふれあい歌声ホール”にも、変化があった。いつもの常連たちに混じって、動画クリエイターを名乗る若者が現れたのだ。「YouTubeで、“先生の人生相談、まとめたい”んです」「ほう。ネットって、カラオケより響くんかいな」「はい。バズらせます。たぶん」先生は、ふと微笑んだ。「“たぶん”ってええな。未来があいまいやから、夢が生まれんねん」若者はその言葉をタイトルにした。《たぶん、未来。〜ふれあい先生の100のことば〜》思わぬところで、三人の名前がふたたび世間に小さく流れ始めていた。


夜、鞠子はジーサンからの紙芝居の一枚を持ち帰り、台所の壁に貼った。その横には、まだ色あせぬ「UP TO ME」のチラシが残っていた。ふと、彼女は呟いた。「どこかでまた、あんたらと同じステージ、作れる気がするわ」その声に、紙芝居の中のボケとツッコミがうっすら笑ったように見えた。


第4話「リングの外にもマイクはある」


殿下は、プロレス団体「OSAKAゴング」に所属して三ヶ月が過ぎていた。派手な衣装に身を包み、リングネームはそのまま「殿下」。芸人時代と変わらない姿でリングに立ち、マイクパフォーマンスで会場を沸かせていた。「おまえの攻撃、ツッコミになっとらんのじゃい!」相手レスラーのドロップキックを受けてマットに沈みながらも、マイクを離さず笑いを取る。プロレスか芸か、その境界は殿下自身にももう曖昧だった。


だがその夜、控室のベンチに座りながら、殿下は自問していた。「おれ、なんでここにおるんやろ」かつてUP TO MEで披露していた一人コント。照明の揺れるステージ。栗尾鞠子の静かな視線。あの夜々の、ほの暗くあたたかい空気が、ふと胸を刺した。「プロレス、うまなってきたな」背後から声がした。振り向くと、栗尾鞠子だった。「…来たんか」「リングサイド、5列目。最初はな、笑って見てたんよ。でもな、最後、ちょっと泣いたわ」「泣くとこあったか?」「あったよ。リング降りて、花道のとこで、マイク下ろしたやろ。あれ、あんたが“芸人”に戻った瞬間やった」


殿下は黙ったまま、手元のマイクを見つめた。「もう一回、UP TO MEのステージ、作ろうか」鞠子の言葉に、殿下は首を横に振った。「ちゃうねん。もう“UP TO ME”は、戻らへん。俺が作るとしたら、地底のリングや」「リング?」「せや。地底芸人は、お笑いやなくて、“魂”で立つんや。場所はリングやけど、マイクは芸人のものやろ」それは言葉というより、決意に近かった。


その頃、ジーサンは相変わらず客の来ない紙芝居館で、廃材を集めて手作りの人形劇セットを作っていた。先生は“ふれあい歌声ホール”がバズったおかげで、関西ローカルの深夜番組に呼ばれ始めていた「“恋と地縛霊の相性”について、どう思いますか?」という質問に、「まあ、地縛されるほど、愛が重いってことですわ」と答え、スタジオに微妙な空気が流れた。それでも、三人の名前はまた世間に、小さな波紋を広げ始めていた。


夜。 鞠子は一人、自宅で殿下の出ていた試合の録画を見返していた。画面の向こうで、殿下は相手レスラーの関節技に耐えながら、こう叫んでいた。「俺の人生、UP TO MEや!!」その叫びに、鞠子は思わず声を漏らした。「…あかんわ。やっぱり好きや」その言葉は、誰にも届かない深夜のリビングに、小さく溶けていった。


第5話「そこそこイズム、ゆるやかなる波」


その日、十三の小劇場「YELLOW BOX」は満席だった。舞台に登場したのは、若手お笑いコンビ、 “そこそこイズム”SNSを起点に、わずか数か月で注目を集めた異色のコンビだ。ステージ中央に立つのは、大杉リク。鋭い目つきに痩せた輪郭、声に張りがある。その横には、淡々とした語り口を持つ前川ツカサ。浮世離れしたその雰囲気は、観客の緊張をじわじわとほどいていく。ふたりは、かつて「UP TO ME」の舞台で爪痕を残したコンビ「ナナメナナメ」に強く憧れていた。社会に馴染まず、笑いにも馴染まぬ、ナナメの“距離感”。彼らはその背中を追い、今、自分たちの「地上戦」を始めようとしていた。


「なあツカサ、お前さ、電柱って好きか?」「まあ、物としての価値はあると思います」「いや俺、最近気づいたんよ。電柱って、見てると人生やなって」「今のところ、お前の人生、ただの柱やで」どこか哲学的で、どこかすっとぼけていて、それでも観客は笑い声を重ねていく。最後のネタが終わると、ふたりは深く礼をした。そしてリクは、短くマイクに語った。「地底の匂い、まだ忘れてへん。でも、俺らはもう、掘り進むんちゃうねん。上に上がって、空、見たいんや」その言葉に、観客の拍手がひときわ大きくなった。


そのライブの映像は、翌日YouTubeにアップされ、ジーサンの元にも届いた。「 “そこそこイズム” やないか」古びたタブレットの画面で、笑顔を見せる若いふたりを眺めながら、ジーサンはひとつ咳払いをして立ち上がった。倉庫の奥から引っ張り出したのは、ずっと使わずにいた金属フレームの枠。そこに、かつて使っていたボードを組み合わせる。「よし。今夜は、あれや」演目のタイトルは『そこそこに跳ねる笑い』。自分の中の彼らを、紙芝居にして返す。それがジーサンなりの応答だった。


その頃、先生は神戸で開催される「深夜劇場トークセッション」に出演していた。テーマは「笑いと霊感と恋の交差点」。元々キャンセルになったスピリチュアル芸人の代打だった。観客の質問に答える形で、先生は話す。「愛って、見えへんでしょ? でも、見えないから信じるやん。笑いも一緒ですわ。オチまで見えないから笑えるんです」司会者が尋ねた。「地底芸人って言葉、ご自身の中でどう受け止めてます?」先生は少し考えてから、ゆっくりと答えた。「たぶん、地底ってな、穴やないんです。人が降りるとこやなくて、誰かが“置いていった場所”なんちゃうかなって。ほんならそこに、おもろいもん、落ちてるんですわ」会場がしんと静まり、少しして笑いが起きた。


夜。殿下は、稽古帰りに十三の高架下で、ばったり先生と出会った。「うわ、なんでお前おんねん」「十三って、俺らの地元みたいなとこやからな」「プロレス、順調か?」「怪我は増えた。でも、マイクは生きてるで」ふたりは缶コーヒーを片手に、並んでベンチに座った。何も言わず、しばらく黙っていたが、先生がふと呟いた。「そこそこイズム、見たわ。売れてるな」「うん。ちょっと、悔しかった」「俺もや」その言葉をきっかけに、ふたりは同時に小さく笑った。「次、なんかせなアカンな」「せやな。でも急がんでええやろ。地底、そういうとこやし」ふたりの笑い声は、夜の高架に静かに溶けていった。


第6話「光らんとこで咲く花」


栗尾鞠子は、ずっと気づかぬふりをしていた。UP TO MEが閉店してから彼女は商店街を離れ、淀川を越えた場所で、ひっそりと文筆業を始めていた。「笑いに咲く花」という連載のタイトルは、かつて彼らの舞台の片隅で落ちていた、誰にも拾われなかったボケの断片から取られたものだった。ある日、出版社の編集者が、ぽつりとつぶやいた。「この“Dさん”って人、本当にいたんですか?」栗尾は答えなかった。ただ、ページを閉じ、次の原稿に取りかかった。Dはもちろん、殿下のことだった。


殿下は今、リングの上に立っていた。大阪城ホールの小イベントステージ、試合前のマイクパフォーマンス。「おい、聞いとんか!芸人のツッコミなめたらあかんで!」観客は半分がレスラー目当て、半分がよくわからず来てしまった格安チケット層。だが、殿下のマイクには、なぜか少しだけ「間」があった。それが、場を支配した。試合が終わり、汗だくの殿下が楽屋で水を飲んでいると、一本の封筒がスタッフから手渡された。


差出人は、「栗尾鞠子」。手紙には、たった一行だけ書かれていた。あなたの“地底”を、私はずっと見ていた。殿下は読んだその場で、笑った。泣きそうになった。だが次の瞬間、封筒の裏に走り書きされた追伸に気づく。今さら、何言うてんねやろな。忘れてください。


その夜。殿下は、ふらりと十三のカラオケ喫茶「ふれあい歌声ホール」を訪ねた。先生がバーカウンターの奥で、トロピカルジュースをかき混ぜていた。「なんや、誰か追いかけてきたんか?」「いや。…たぶん、追いかけられてる方や」殿下は封筒を差し出したが、先生は中身を見ずに、ただうなずいた。「ええ恋やったんちゃう? わからんけど」「なんも始まってへん。地底は片思い専門や」「それ、俺が先に言うたかったやつや」二人は笑い合い、グラスを鳴らした。


一方、ジーサンは、前衛紙芝居のアーカイブ化を進めていた。「紙芝居で人生が語れるか選手権」と題して、自らの過去の作品を自費出版していた。売れるわけがない。だが、一本の注文が入った。差出人は「K・M」とだけ記されていた。封筒には、短い手紙が添えられていた。昔、あなたの紙芝居で笑ったことがあります。あれから、笑えない夜が減りました。ジーサンは、棚から一冊の本を取り出し、そっと自分の名前を書き入れた。そしてふと思った。地底、見てる人、おるんやな」


夜、栗尾鞠子は、かつての舞台の記憶を頼りに、ひとり河川敷を歩いていた。舞台の音、ネタのズレ、観客の沈黙、メンバーの沈黙。全部が、今となっては懐かしかった。彼女は小さなメモ帳を取り出し、走り書きをした。光らんとこで咲く花がある。それは誰にも気づかれへんかもしれへんけど、風にはちゃんと揺れとる。それが、次の連載の冒頭になると、彼女はまだ知らなかった。


第7話「リングの向こう、紙芝居の影」


殿下は控室の鏡を見つめていた。レスラーパンツに赤いマント“プロレスラー芸人”という珍妙な肩書きが、いまの自分のすべてだった。笑いも、痛みも、流血も、全部ネタにできると信じていた。けれど最近、その“笑い”が、リングの上で霞む瞬間があった。「お前は芸人か、レスラーか?」それは、ある試合で対戦した現役選手が放ったヤジのような一言。殿下は無言で受け止めたが、本当に痛かったのは、その問いに自分で答えられなかったことだった。


同じころ、河内長野の紙芝居小屋に、見慣れない来客があった。20代後半ほどの女性。派手なジャケットに、どこか妙な緊張感をまとっている。「ここが、“地底の紙芝居”って呼ばれてるとこですか?」「誰に聞いたんや」「うちの師匠が言うてました。“ジーサンってやつの紙芝居、笑いより深さがある”って」「師匠?…なんて名乗っとる?」「そこそこイズムってコンビ、ご存知?」その名に、ジーサンの目が細くなった。「UP TO ME」の舞台で一度だけ、その背中を見たことがある。ナナメナナメの系譜を継ぎ、あれからもう、何年も経ったはずだった。


女性は静かに、一本のポスターを差し出した。そこには、こう書かれていた。『地底 vs そこそこイズム ― Re:UP TO ME ―』「ジーサンさん、どうかお願いします。夜だけでも、舞台に立ってください。師匠がずっと願ってた対話なんです」ジーサンはポスターの文字をしばらく眺めたあと、ひとことだけ言った。「紙芝居はな、夜にやるもんや。夜の空気が、話を運ぶ」


その頃、十三。先生は「ふれあい歌声ホール」のステージで、歌ではなく“朗読”を披露していた。タイトルは『恋と冷蔵庫の間に』。恋愛相談を受け続けるうちに、自分の感情を閉じすぎた。それを溶かす手段が、こういう形になったのだ。


終演後、楽屋で待っていたのは栗尾鞠子だった。「久しぶりやな、先生」「なんや、朗読盗みにきたんか?」「そういうの、たまには真面目に受け取ってくれへん?」そう言って、彼女はバッグからノートを取り出した。中には、先生・殿下・ジーサンの三人について書かれた長編エッセイの草稿があった。「“地底”って、ただのステージやと思ってた。でもな、今は、ちょっと違う」先生はゆっくりとページをめくり、ひとつの端をそっと折った。「この話、もうちょいだけ続けよか。あいつらにも言うたら?」


夜。ジーサンのスマホに、殿下からメールが届いた。《そっち、なんか始まるらしいやん。見に行くだけやで、出えへんけど。…たぶん。》ジーサンは小さく笑った。「地底ってな、やっぱ地面より下にあるんや。でも、音だけは、上に抜ける」そしてその週末。薄暗い照明の中、「地底vsそこそこイズム」の文字がゆっくりと浮かび上がった。まだ誰も舞台には立っていない。けれど、会場の隅にそっと並べられた3つの椅子だけが―確かに、“待っている”ことを告げていた。


第8話「笑いはリングに落ちている」


殿下は、観客席の端にいた。ライブハウスの照明がまだ完全に落ちきる前、彼は一人で座席に腰を下ろし、腕を組んでステージを睨んでいた。「地底vsそこそこイズム」その文字だけで、昔の血が騒ぐかと思っていたが、心の中は静かだった。ジーサンはすでに袖でスタンバイしていた。あの廃倉庫から紙芝居の道具一式を持ち込み、特別演目「地底花火」を準備している。「こけてもええ。でも、音だけは鳴らすんや」そうつぶやいていた。


先生は、なぜか舞台袖でギターを持っていた。「今日は恋愛相談ちゃうで、初披露の“地底ソング”や」半ば冗談のつもりだったが、栗尾鞠子は真顔で応援に来ていた。鞠子は最近、モスクムオルの足跡を綴る連載を雑誌で担当するようになり、編集部からも「そろそろ本にしましょう」と言われていた。「モスクムオルが、まだ生きてるなら、ちゃんと見届けなあかん」そう言って彼女はメモ帳を胸元に挟み、観客席の端に陣取っていた。


ステージが暗転し、照明が一点に集まる。その中央に立っていたのは、殿下だった。客席がざわめく。「出えへん言うたんちゃうんかい」袖からジーサンの声が飛ぶが、殿下は応えない。代わりに、ポケットから一枚の紙を出して読んだ。「これは、俺の履歴書や。地底芸人、プロレス芸人、掃除のおっちゃん、そして、ツッコミ。今日、ここで笑ってもらえへんかったら、全部ウソになる」その瞬間、照明が三つに分かれた。ジーサンの紙芝居が広がり、先生のギターが鳴った。観客は、何が起きたのかわからないまま、じわじわと笑い声を漏らし始めた。


「地底って、なんやと思います?」先生が演目の終盤で言った。「“上に上がるためにある”って、誰かが言うたけど、俺ら、上がる気、もうないんちゃいますか?この場所が、もう十分“上”なんかもしれんってな」その言葉に、客席が静まり返った。でも、次の瞬間、殿下の顔面に紙芝居の紙が飛んできて、それをジーサンが「ちゃうねん!」と突っ込んだことで、爆笑が起こった。


ステージ終了後。三人は、袖に集まって座り込んでいた。「ほんまに、またやるんかいな」ジーサンがタバコを吸いながら言い、先生はギターの弦をいじりながら答えた。「まあ、また“呼ばれたら”な」殿下は、まだ汗を拭きながら、小さくうなずいた。「おもろかったな。今日だけは」その帰り道、鞠子はノートにこう書いた。「彼らが笑いを投げる場所に、“地底”は自然と生まれる」そして次のページには、タイトルだけが書かれていた。『モスクムオル再臨―地底を歩く理由』


第9話「地底、それでも前へ」


朝、空は抜けるように晴れていた。京阪・萱島駅の高架下、立ち並ぶ商店街のアーケードは、今日も静かだった。「UP TO ME」はもうない。跡地には、白いシャッターと、かすかに残る貼り紙の痕だけがあった。殿下はそこに立っていた。手ぶらだった。手ぶらで来たのは、何かを持って帰るつもりがなかったからだ。「ここ、まだ“ステージ”に見えるなあ」独り言にしては、少し照れた声だった。


先生はその日、昼から十三の喫茶店でライブだった。だが、リハーサルを終えると、こっそり電車に乗ってきていた。ギターを背負って、ふらりとシャッター前に立った。「うわ、殿下も来てるやん。やっぱり、気になるよな」殿下は振り返らず、ぽつりと返した。「ギャラ発生せんけどな、今日は」「芸人の動機なんか、だいたい“損”やで」笑って言う先生の声に、どこか懐かしさが混じっていた。


そして、最後に現れたのはジーサンだった。紙芝居の枠組みも持たず、うちわだけを手にぶら下げていた。「終わってへんと思たけどな。来てみたら、やっぱり終わってへん」三人は、言葉を交わさず並んで立った。街の人々が何人か足を止め、彼らの姿を見ていた。中には、かつての観客だった者もいた。笑い声ではなく、静かな視線が、彼らを包んだ。


そのとき、不意に聞こえた声があった。「あの、もしよかったら、うちの児童館で…」若い女性職員が、パンフレットを差し出していた。「お楽しみ会のゲストに」と書かれていた。先生が「マジで?」と苦笑しながら手に取り、殿下は無言でうなずいた。ジーサンが一番先に返事をした。「子どもにも伝わる紙芝居、ちょうど考えとったとこや」


その日の夕方。栗尾鞠子は、彼らを見送りながら手帳にこう記した。「地底は、這い上がるためのものじゃない。歩くための道。誰にも見られない場所でも、芸が鳴っていれば、それでいい」ノートの最後のページには、大きくタイトルだけが書かれていた。『地底芸人モスクムオル ―前へ、歩く』


翌月、ある児童館で。段ボールで組んだ即席ステージに、三人の影が立つ。子どもたちの前で、先生がギターをかき鳴らし、ジーサンが紙芝居を広げ、殿下が「ツッコミどころどこやねん!」と叫ぶ。そのとき笑い声が、確かに地底から湧き上がった。


【エピローグ】 「地底のその先へ」


―ジーサン、絵筆を置く ―


河内長野の古い長屋。ジーサンはそこに一人で暮らしていた。元・中学美術教師。定年退職後に「芸人になる」と宣言し、UP TO MEのステージに立ったのは、もう何年前のことだったか。今、彼はもう紙芝居をやっていない。ある日、いつものように自作の紙芝居を広げたところ、観客の小学生に真顔でこう言わAれた。「ジーサン、それ、“おもろい”って言ってもらいたいん?」その言葉が、彼を貫いた。その夜、押入れの奥から、学生時代に使っていたスケッチブックを取り出した。誰にも見せたことのない風景画が、静かに眠っていた。


それから半年後。ジーサンは「斜段五郎しゃだんごろう」という名前で詩人として再デビューを果たす。詩集のタイトルは『階段に咲く、椅子』。“人は、座る場所を探して、登る。”それは、地底で笑いを探した男の、最後の“作品”だった。


― 殿下、土を捏ねる ―かつて「正解パンチ」というコンビ名で活動していた殿下。ツッコミとして芸歴10年を重ね、相方の失踪をきっかけにUP TO MEへと流れ着いた。紆余曲折を経て、地下での笑いを置き去りにしながら、殿下は少しずつ“土”へと向かっていった。殿下は大阪・能勢の山あいで、陶芸の工房を開いた。作務衣姿でろくろに向かう彼を、かつての観客は知らない。けれど、彼の作る湯呑みには、どこか“ツッコミの間”のような絶妙なゆらぎが宿っていた。


作品に名をつけることだけは、芸人時代のクセが抜けなかった。「言い訳の壺」「わりとええ線いった皿」「おかわり自由の徳利」─展示会でそれらの名前を見た客が「くすっ」と笑うとき、殿下は小さくうなずいた。


ある雨の日、工房に訪ねてきたのは、栗尾鞠子だった。かつてUP TO MEで受付をしながら、3人を見守っていた女性。「昔ね、ステージに出るの怖かってん。でも、今も夢に出てくるねん。“あの空間”が」殿下は、濡れた床を拭きながら言った。「せやな。俺も、夢でばっか漫才してるわ」二人のあいだに、湯気の立つ緑茶の湯呑みが並んだ。言葉は少なかったが、そこに“笑いの間”は残っていた。


別れ際、栗尾は傘を差しながらふと呟いた。「わたし、たぶん、あんたのこと…好きやったと思う。でも、よう言わんかったな、ずっと」「俺もや」と殿下は言ったが、そのあと、どちらもそれ以上、何も言わなかった。二人はそれきり会っていない。けれど、栗尾の家の食器棚には、名前のない小さな皿が一枚ある。歪んでいて、少しヒビが入っているが、なぜか捨てられない。まるで、笑い損ねた昔話のように。


― 先生、舞台を降りる ―


十三のカラオケ喫茶「ふれあい歌声ホール」には、先生の専用席があった。“老人ホームのレクリエーション担当”でありながら、なぜか“恋愛相談師”として人生を語り、演じていた。ある日、突然、彼はこの世から去った。交差点でタロットカードを追いかけて、転倒した。誰にも見せたことのなかった「人生最後の占い結果」は、風にさらわれ、戻ってこなかった。


通夜の席には、彼を慕う中年女性たちが集まり、泣き笑いながら、こんな言葉を語っていた。「“愛って、家庭より先に香水に出るんですよ”って、よう言うてたなあ」「先生の言葉、全部占いみたいやったな」遺影の先生は、どこか飄々と笑っていた。殿下とジーサンは、かつてのUP TO ME跡地に、ひっそりと花を供えた。「先生、結局なんやったんやろな」「“なんやったか”って言い出したら、俺らもやで」そして、二人は別々の電車に乗った。


― 夜の底に、声が響く ―


月が出ていた。風がゆるやかに吹く夜、どこかの街の屋根の隙間を抜けて、ある声が流れていった。「モスクムオル…」それは、地底にいた三人の名。もうステージも、シャッターも、照明もない。けれど彼らの言葉と空気は、今も誰かの胸の奥で、笑いの“間”を刻んでいる。UP TO MEがなくなっても、地底は、そこにある。

―完―

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