【地底芸人 モスクムオル】第2章
第1話『さらば、萱島商店街』
萱島商店街のアーケードに、しっとりとした空気が漂っていた。雨は降っていないのに、どこか濡れたような匂いが風に混ざっている。「UP TO ME」は、演出も告知もなく、静かにそのシャッターを下ろした。モスクムオル、地底芸人と呼ばれた三人は、何も言わずにその前に立っていた。殿下は口を真一文字に結び、無言のまま一点を見つめていた。ジーサンは団扇を手に顔を仰ぎながら、じっと看板を見上げていた。
先生は少し猫背になりながら、ため息を一つついた。「これで、本当に終わりやな」ジーサンが呟くと、先生が笑おうとして失敗したような声を出した。「いやいや、終わりじゃなくて、始まりですよ。たぶん。いや、願望かな?」殿下は何も答えず、スーツのポケットから飴玉を三つ取り出した。ひとつは自分の口に入れ、残りを無言で二人に差し出した。「これで、“甘い”未来に行こうってか」先生がそう言ったが、誰も笑わなかった。その場に笑いはなく、しかし沈黙だけが残るわけでもなかった。
三人は無言でゆっくりと背を向けた。それぞれの“地底”へ向かって、バラバラの方向へ歩き出した。殿下は京阪電車の車窓から流れる街並みを眺めながら、スーツの襟を指先で直した。小さく深呼吸し、目的地の駅名を誰にも聞かれない声で呟いた。天満橋。川沿いの柵に肘をつきながら、殿下は空を飛ぶスズメとハトに向かって語りかけた。「芸はな、空ばっか飛んでても磨かれへん。落ちて、落ちて、地べた這うて、やっと笑えるねん」鳥たちは餌をついばむのに忙しく、彼の言葉に耳を貸す者はいなかった。夜になり、殿下はビルの清掃員に紛れ込んでいた。誰もいない廊下の端で、モップを手に一人芝居を始める。「誰が在庫処分の神様やねん!」その声は白い壁に跳ね返り、しばらく残響のように漂った。
ジーサンは河内長野の寂れた町並みを歩き、かつて豆腐屋だったという廃倉庫にたどり着いた。倉庫の入り口に手作りの看板を吊るす。「前衛紙芝居館」。倉庫の中には、舞台も幕もない。あるのは段ボールで作った小さな机と、自作の紙芝居だけだった。演目のタイトルは『血まみれたおもちつき』。ジーサンは野良犬の前で演目を始めた。「ええか、今日はな、命をかけたもちつきや」犬はジーサンの声に反応せず、紙芝居の一枚をくわえて走り去っていった。ジーサンは肩をすくめて言った。「ま、客一匹ってことでええか」
先生は十三の「ふれあい歌声ホール」と貼られたドアを開け、ゆっくりと中に入った。カラオケ機器の音量を調整し、テーブルに“恋愛相談”の札を置いた。訪れたのは、地元の熟女たち。「先生ぇ、うちの旦那が仏壇に向かってウインクしてくるんですぅ」「それは祟りか、愛か、ですね。どちらにしてもロマンはありますよ」先生は真剣な顔で答えながら、笑みの端に少しだけ哀しさを滲ませていた。夜、客が帰った後のマイクを手に、先生はひとり歌を口ずさんだ。♪ さよならだけが人生さ、誰の手も握れないまま音程は外れていたが、心だけは調律されていた。
その夜、三人は別々の空の下で、同じ時間に夜空を見上げていた。どこからか、誰かが彼らを呼ぶ声がしたような気がした。「モスクムオル…」その言葉は風に乗り、街の屋根をすり抜け、誰の心にも届かないまま、どこか遠くへ消えていった。
第2話『誰かが、笑っていた』
殿下は靴の泥を落としながら、公園のベンチに腰を下ろした。夜明け前の空は薄い灰色をしていて、まるで洗われすぎた舞台幕のようだった。鞄の中から、小さなノートを取り出す。そこには短いセリフがびっしりと書き込まれていた。すべて、誰にも見せたことのない一人芝居のネタだった。「あかん、これじゃ“笑い”やなくて“独白”や」殿下は頭をかきながら、それでもページをめくり続けた。捨てられたセリフたちは、彼の胸にだけ残っていた。遠くで鳩が鳴いた。それが拍手の代わりに聞こえたのは、錯覚だった。
ジーサンは倉庫の中で、紙芝居の枠を磨いていた。観客はいないが、手は止まらない。彼にとって、準備は舞台そのものだった。ふと、扉が軋む音がした。誰かが覗いている気配がある。だが、気配はすぐに消えた。「まさか、子どもか?」外に出てみたが、誰の姿もなかった。ただ倉庫の裏手に、ひとつのメモが落ちていた。“あなたの『地底』、応援しています。”―ナナメナナメ ジーサンは眉をひそめた。どこかで聞いたような名前だったが、思い出せない。「新手のストーカーか? いや、宣伝? いや…ファン?」彼はその紙をそっとポケットに入れた。 こんなメモ一枚でも、地底芸人には十分すぎる贈り物だった。
先生は商店街の喫茶店で、冷めたコーヒーにミルクを垂らしていた。それが白くにじんでいくのを見ながら、恋の予感を妄想していた。「彼女、来ないな」栗尾鞠子。元・劇場「UP TO ME」の店主。3人の名付け親にして、地底の母。最近は連絡もない。どこかに消えたように、SNSからも姿を消していた。「ま、俺のことなんか忘れたんやろな」カップを口に運ぼうとした時、店の入り口のベルが鳴った。
入ってきたのは、見知らぬ若者だった。男は店内を一瞥し、先生の前に無言で座った。「あんた、先生さんですよね? モスクムオルの」先生はカップを置いた。「そうだけど、今は休業中です」男は笑わなかった。その瞳の奥には、なにかの執着があった。
「俺、ナナメナナメってコンビ組んでて。あんたらに、一度だけ会ったことある」先生は黙ったまま、その若者を見つめた。コーヒーの香りが、急に薄れていった。「次、出てもらえませんか? オーディションに。俺ら、主催します。あんたらがいないと、笑いが完成しないんですよ」「笑いって、完成させるもんなん?」先生の言葉に、男は何も返さなかった。
その夜。殿下は再び川のほとりに立ち、 ジーサンは廃倉庫の隅で紙芝居をめくり、先生はカラオケのスクリーンを見つめていた。それぞれが別の場所で、同じ言葉を呟いた。「ナナメナナメ?」風が舞い、空はどこまでもナナメに続いていた。
第3話『ナナメに生きる奴ら』
ジーサンは紙芝居の枠を抱えて、久々に河内長野を離れた。向かった先は、福島のライブハウス「ねじれ電波館」。ナナメナナメの主催する、お披露目ライブがそこにあった。客席には十人ほどの観客。その大半が関係者と見られる無言の中、ステージに二人の男が現れた。一人は、鋭い目をした背の高い青年。黒のタートルネックに、ピンマイク。名前は坂巻レオ 。もう一人は、背の低い眼鏡の青年。 小刻みに震える声でネタを始めた。名前は野洲トモキ 。
「どうもー、ナナメナナメでーす」レオが観客を睨むように見渡し、トモキがふにゃりと笑う。「今日も、ナナメに切って、ナナメに滑ります!」最初の一言で、観客に戸惑いが走った。ナナメナナメ。それは“社会の断面図を斜めに斬る”をコンセプトに掲げた、どこか不穏で、しかし妙に引っかかる芸風のコンビだった。だが、笑えるかどうかは別問題だった。
たとえば、ある日のネタ。タイトルは「タクシーに乗る猫」。一人が猫耳をつけて登場し、タクシーを呼ぶしぐさをする。もう一人が、無表情のまま運転手として現れる。「どちらまで?」「行き先は、“理解”まで」意味のあるようでないやり取りが、ゆっくりと繰り返される。理解って、カーナビに出ます?」「出ません。自分で探して、歩いてきました」「それじゃあ、乗る意味ないですね」最後には、運転手が一言。「理解に着きました。が、あなたが理解できたかどうかは、知りません」
客席は静かだった。誰にも完全に理解されないことを、彼らは誇りにしていた。彼らのネタは、笑いではなく“距離感”で観客に刻まれる。それがナナメナナメの “狙い” だった。ジーサンは腕を組んで、じっと二人を見つめていた。
その夜、十三のカラオケ喫茶「ふれあい歌声ホール」では、先生が古いマイクを片手に、演歌のカラオケに合わせて独白のような漫談をしていた。そこに、あの若者、坂巻レオが現れた。「先生、あなたの言葉の“ズレ”は、計算ですか?それとも癖ですか?」先生はマイクを下ろし、水割りを口に運んだ。
「癖やったら、こんなに不便な人生送ってへんよ」「じゃあ、それを武器にしてください。僕らは今、“ズレ芸”の流派を作ろうと思ってるんです。あなた方は、その祖。」先生は静かに笑った。「流派って…宗教の一歩手前やんか」「あなたたち、モスクムオルはもう、ただの芸人じゃない。“地底”でしか生きられなかった伝説。僕たちは、その延長線上にいます」その言葉に、先生は少しだけ目を細めた。懐かしさではなく、妙な既視感のようなものだった。
一方、殿下は天満橋で、ハトに説教していた。「だからな、ウケんかったからってエサ投げるのは反則や」隣に立つサラリーマンが、急に話しかけてきた。「モスクムオル…本物ですか?」殿下は驚かなかった。ただうなずいた。「坂巻レオが、あんたらに出てもらえって、もうめっちゃ探してるみたいですよ」殿下は顔をしかめ、ポケットの中の飴玉を握りしめた。「そうか。地上から“ナナメ”に掘ってくるとはな」彼は、飴をひとつ口に入れ、ゆっくりと歩き出した。
その夜。 十三、福島、天満橋。それぞれの空で、雷が遠くに鳴っていた。ナナメナナメ、その奇妙な名前が、モスクムオルの耳に、じわりと残り始めていた。これはただのライバルではない。地底と地上をつなぐ、もうひとつの“ズレ”だった。
第4話『それぞれの矢印』
雨が降るでもなく、晴れるでもなく。そういう日には、栗尾鞠子は気をつけていた。十三の居酒屋「ほてい屋」で、焼酎を三杯目。手帳の端には、黒いペンで書きかけの企画書が広がっている。タイトルは、「地底芸人サミット2025」。 笑えるものではない。少なくとも本人は、本気だった。ふと、誰かの名前を書こうとして、ペンが止まった。その名前「殿下」を書くのが怖かった。気づけば、彼の口癖を思い出していた。「笑いってのはな、最後に残る“矢印”や」矢印。いま自分の胸に刺さっているのも、もしかするとそれかもしれない。栗尾鞠子はふっと目を伏せた。頬を少しだけ紅くして、残りの焼酎をぐいと飲み干した。
一方その頃、殿下は議員会館の地下駐車場でスーツ姿の男たちに囲まれていた。「推薦人が揃えば、次の市議選、無所属での立候補が可能です」殿下は頷きながら、スーツの下から飴玉を取り出した。「笑いや政治、どっちも“スベらん”ように気をつけなな」参謀役としてついてきた元テレビ局員の男がうなずいた。「“地底から政界へ”っていうキャッチ、意外と通じます。弱者の代弁者としてなら、票は取れる」殿下は言った。「票はいらん。“声”が欲しいだけや」彼の声は、地上にも、まだ届ききっていなかった。
ジーサンは、相変わらず紙芝居小屋で犬と一人芝居をしていた。が、その日は珍しく客が来た。「…ええと、こちらで“前衛紙芝居”が観られると聞いて」現れたのは、ナナメナナメの野洲トモキだった。「実は、坂巻が失踪しまして…」ジーサンは手を止めた。「消えた?」「はい。ある日突然、“ナナメじゃ足りない。もっと地下へ”って言って…」ジーサンは深く座りなおした。「そいつ、次に来るで。地底の奥底まで」トモキの顔が曇った。「誰か、助けてくれないと、彼は帰ってこないかもしれません」その言葉に、ジーサンの眼がわずかに細まった。
その夜。 鞠子は、十三の橋のたもとにいた。スマホに表示されたニュースには、こうあった。《異色の新人、元お笑い芸人“殿下”、次期市議選へ》彼の顔が、小さく映っている。それはもう、UP TO MEにいたころの、地底の男ではなかった。「…ちがうな」鞠子は呟いた。「変わってへん。あの人、今も笑いと一緒におるんや」気づけば涙がにじんでいた。けれど、そこにはどこか懐かしい温度があった。その夜、殿下のポケットには、投票依頼の名刺と鞠子が渡したまま、開けていない手紙が、まだ入っていた。
【挿話】『地底の途中で、ひとつ消える』
千早赤阪村。かつて鉱山として掘られた斜面の奥に、崩れかけた坑口があった。草に覆われ、立入禁止の札は風で倒れている。その入口近く、地面に落ちたスマホの画面が、ぼんやりと光っていた。開きっぱなしのメッセージアプリには、未送信の文章が残されていた。「坂巻が、もし許してくれたら…“沈黙のフォークダンス”として、もう一度だけやり直したい。今度は、ちゃんとナナメのまま、ちゃんと向き合いたい」送信ボタンは押されなかった。指は、届かなかったのだろう。
その夜、ジーサンのもとに封筒が届いた。差出人はなかった。中には、二人の舞台写真が一枚。ナナメナナメのラストステージ。肩を寄せるでもなく、背を向けるでもなく。空白の“間”がそこにあった。裏には、こんな走り書きがあった。《トモキは、笑ってました。最後まで。あの間を、信じてました》
翌朝。ジーサンは紙芝居小屋の裏で火を焚き、写真をそっと火にくべた。隣で丸まる犬を見下ろしながら、独り言のように言った。「あいつ、まっすぐすぎたんや。ほんまに笑いたいもんは、ナナメにしか届かへん。…せやけど、ナナメに走りすぎたら、たどり着けへん場所もある」遠く、山のふもとから鐘の音がひとつだけ響いてきた。ジーサンは、まぶたを閉じて、もう一度、呟いた。「トモキ、お前のフォークダンス、届いとるで。ほんまやで」それから、誰もトモキの名を語らなくなった。その日以降、野洲トモキの名前が語られることは、ほとんどなかった。ただ、UP TO ME跡地の貼り紙の端には、小さな文字でこう書かれていた。《“沈黙のフォークダンス” 野洲トモキの名に捧ぐ》
第5話『紙芝居の奥、ナナメの果て』
坂巻レオは、河内長野の山の中腹にあった。誰もいない寺の裏。廃材で組んだ粗末な舞台の上。 彼は立ち尽くし、何も語らず、ただ遠くの山並みを見ていた。「笑いは、まっすぐすぎると人は傷つく。でもナナメだけじゃ、届かへんのやな」かつて「ナナメナナメ」と名乗っていた男の口から、それだけが漏れた。
坂巻の手には一枚の紙 “ジーサンからの手紙”があった。《紙芝居は、見せもんやなくて、“捨てもん”や。捨ててでも、見せたいものを探せ。お前には、それがあるはずや。―ジーサン》それが、坂巻レオを再び地底へ引き戻した。ジーサンは、紙芝居小屋の床下で、木枠を磨いていた。そこに、坂巻が現れたのは夕暮れだった。「紙芝居、見に来ました」ジーサンは顔も上げずに言った。「ナナメの奴が、まっすぐに来よったか」坂巻は、紙芝居の横に静かに立った。「今夜、一緒にやらせてください。“血まみれたおもちつき”の続き、ありますよね」ジーサンはようやく顔を上げた。老いた目の奥が、微かに揺れた。「ほな、“地底合作”やな」
彼らは、地底で再び共演した。観客は、野良犬二匹と、小学生一人。それでも、ふたりは真剣だった。紙芝居のラスト、坂巻が叫んだセリフはこうだった。「誰かが捨てた笑いでも、俺には宝やねん!!」犬が吠え、小学生が拍手した。ジーサンは、静かに、しかし確かに笑っていた。
その夜。十三。栗尾鞠子は、小さな花屋の横に貼り紙をした。《地底芸人サミット2025 開催告知 場所:元・UP TO ME跡地 参加資格:笑いに捨てきれない何かがある者》鞠子は、貼り終えたあと深く息を吐いた。「誰も来んかもしれへん。でも、それでもええ」そう呟いた時、後ろから声がした。「俺は、来るで」振り向くと、そこに殿下がいた。いつものスーツ。ネクタイは少し緩んでいた。「選挙はどうしたん?」「地底の演説、誰も聞いてへん。けど、あんたの声は、届いとった」殿下はポケットから飴玉を出し、手渡した。「甘いか苦いか、試してみいひんか。鞠子」鞠子は笑った。たぶん、泣いてもいた。
そして、その頃。ジーサンの小屋では、坂巻レオが一枚のポスターを貼っていた。《地底芸人サミット2025》彼の目が光っていた。ナナメではなく、前を見据えていた。モスクムオル、 ばらばらだった3本の“地底の矢印”が、また交わろうとしていた。
第6話『地底サミット、再会は笑えない』
「これ、誰が来るんやろな…」栗尾鞠子は、UP TO ME―かつてのあの場所の跡地、今はコインパーキングになってしまったその隅に、仮設の舞台を作っていた。照明は、近くの喫茶店から借りた間接ライト。音響は、十三のカラオケ喫茶「ふれあい歌声ホール」の中古スピーカー。舞台の幕は、かつてジーサンが使っていた紙芝居の背景布。準備に走り回った鞠子は、服の袖をまくりながら、最後の看板を掲げた。《地底芸人サミット2025 ―捨てられなかった笑いの、その続きを―》
夕暮れ。 京阪電車がガタンと音を立てて駅を通過していくころ、その音に混じって、スーツ姿の殿下がやってきた。「ちゃんと来るとは思わんかった」鞠子が言うと、殿下はふっと笑った。「約束やしな。あの飴玉、思いのほか苦かったわ」鞠子は黙って笑った。ほどなくして、河内長野からジーサンと坂巻レオも現れた。坂巻は“ナナメナナメ”の名札を外していた。「ジーサンに、言われました。“名前より、声が届くほうが芸人や”って」ジーサンは何も言わなかったが、目を細めていた。
3人が並び立つ。久しぶりの再会。だけど、どこか、ぎこちない。最初に舞台に立ったのは、殿下だった。政治家を目指していたときの演説ネタをそのまま笑いに変えた。「地底からの陳情」シリーズ。だが、受けはイマイチだった。次は、ジーサンと坂巻の紙芝居コント。奇抜なストーリーに子供は笑い、大人は首をかしげた。最後に先生が歌まじりの“相談漫談”を披露したが、途中で近所の熟女が割って入り「うちの夫が毎晩ホタルに話しかけるんです」と言い出し、ぐだぐだに。
誰も大きくウケなかった。誰も、泣くほどスベることもなかった。ただ、観客の中に、一人。じっと見つめる男の姿があった。その目はどこかで見たことがある、と鞠子は思った。「誰…?」彼の存在が、この先に波紋を生むことになるのは、まだ誰も知らなかった。
夜。片付けを終えたあと、殿下と鞠子は、駐車場の端で缶コーヒーを飲んでいた。「なあ鞠子。あの頃、俺らって…なんやったんやろな」「“あの頃”て、いつの?」「UP TO MEが、あって、ネタやって、バカやって…あんたが、俺らを見て笑ってた、あの時」鞠子は少し目を伏せた。「好きやったよ、あの時間。でも、今は、あんたがどこ向いてるかわからん」「俺も、わからん。ただ、今は鞠子の隣、ちょっとでも歩きたいだけや」
沈黙が流れる。照明が一つずつ落ちていくなか、鞠子は小さくつぶやいた。「歩いてみよか、ちょっとだけ」その時、暗がりにひときわ鋭い声が響いた。「お前らだけが“地底”やと思うなよ」見れば、舞台の影に立っていたのは、新たなコンビ「ラブホ暗渠」の片割れだった。モスクムオル、それぞれの“道”は今、再び交差した。だが、そこに待つのは、懐かしい地底ではなく新たな戦場だった。
第7話『笑いの埋設管』
「お前らだけが“地底”やと思うなよ」その声に、殿下、ジーサン、先生、そして鞠子が振り向いた。舞台の影に立っていたのは、白いスーツに深紅のスカーフを巻いた男と、全身黒づくめの長身の男、新進気鋭の芸人コンビ、「ラブホ暗渠」だった。白いスーツの男が不敵に笑う。「どうも。元・地下アイドルで今は地底芸人、シュウジです」黒ずくめの男は、深く頭を下げた。「そして私が元・演劇科の落ちこぼれ、タダヒロ。二人合わせて、ラブホ暗渠。芸の管は深く、時に詰まり、時に流れる」
「ちょっと意味わからん」ジーサンがボソッとつぶやいた。数日後、「ふれあい歌声ホール」でのリハを終えた先生の元に、一本のDMが届いた。《地底最強決定戦・地下-1グランプリ、出場要請》 《主催:ラブホ暗渠プレゼンツ》先生は苦笑しながら、ジーサン、殿下にもメッセージを送った。“出る?やめとく?”その日の夜、鞠子は殿下に会いに来ていた。政界進出に向けての準備を進めていた彼の部屋には、笑いとは程遠い書類の山があった。
「出るん?」「地下-1?……出たほうがええんかな。もう、あんなとこ戻らん思ってたけど」「やっぱり、笑いより、政治なんやな」鞠子の言葉に、殿下は一瞬言葉を失う。「そう思わせてるなら、俺の負けや」「負けでええやん。地底にいたって、勝ちなんかないよ」殿下は黙って、部屋の隅の古いスーツケースを取り出した。そこには、ネタ帳と古びた飴玉の缶が入っていた。「ひと勝負、しよか。捨てるもんがないなら、拾いに行くしかないやろ」
地下-1グランプリ当日、モスクムオルは再集結した。「コンビ名、どうする?」「モスクムオルやろ」「名前だけはな、強いねん」予選の会場は、大阪・某ライブハウスの地下2階。壁にはカビ、照明は裸電球。地底感、満点だった。対戦カードは、まさかの初戦で、ラブホ暗渠。先攻・モスクムオル。ネタは、かつての名作「隠し芸交差点」シリーズをアップデートした“新作”。ウケは悪くなかった。けれど、歓声は起こらなかった。後攻・ラブホ暗渠。二人は、会話の“沈黙”を武器にした前衛的なスタイルで観客の不安と笑いを同時に引き出した。「みんな、笑ってるけど、どこで笑ってるか、わからへん…」 客席の若者がそう呟いた。
勝者は、ラブホ暗渠。楽屋。静まり返るモスクムオルの三人の前に、シュウジが現れた。「悪くなかったですよ、皆さんのネタ。でも、懐かしさに頼ると、埋まりますよ、すぐに」「笑いってのはな、時代ちゃうねん。地層なんや」殿下がそう返したが、声に覇気はなかった。鞠子は、一人廊下に出て深呼吸した。目に浮かんだのは、UP TO MEの小さなステージ。照明の焦げ跡、めくれた幕、誰も座らなかった三列目の椅子どれも懐かしい。もう閉ざされたその扉の前で、殿下はふと立ち止まる。「どこで、間違ったんやろな…」ふと、誰かの背中が見えた。
坂巻レオだった。 ジーサンの弟子、今はソロ芸人として別大会に出場していたはずの男。レオは振り返り、鞠子に向かって一言だけ言った。「まだ、終わってへんよ」夜、雨が降っていた。ぬかるんだ路地を歩く殿下の足元に、飴玉の缶が転がった。拾い上げると、中は空だった。でも、殿下はふっと笑った。「空っぽから、また始めたらええ」
第8話『笑いと泥と、月灯りと』
十三の夜は、たいてい濡れていた。小雨か、看板から滴る水か、それとも酔客の吐息か。その日も濡れたネオンの下で、先生は一人カラオケ喫茶「ふれあい歌声ホール」の掃除をしていた。「ラブホ暗渠に負けたこと、まだ引きずってるんですか」背後から聞こえた声に、先生は手を止めた。「いや、引きずってるんやない。背負ってるだけや」そう答えながら、椅子を元に戻す。「背負ってどこ行くんですか」「そやな、地底より下“地面”ぐらいちゃうか」それを聞いた坂巻レオは、少し笑った。「俺、もう一回モスクムオルとやりたいですわ。“笑いの使徒”として」「使徒って…お前、そういうとこ昔から重いねん」それでも先生の声には、少し熱が戻っていた。
一方、殿下は京橋の立ち飲み屋で、見知らぬおじさんたちと“政治漫談”を披露していた。テーマは「もし選挙が全員ラップバトルやったら」。「Yo!この票が民意のビート、振り下ろせや政党シート!」一部にウケていたが、大半はポカンとしていた。そこへ栗尾鞠子が現れた。「あんた、まだ笑いの中で迷子やな」「鞠子」「次の選挙、アンタ出るんやろ?」「政界って、結局笑わせたもん勝ちやで。真面目なんて、伝わらん」「それ、ネタで言ってた方がマシやで。あんたの“言葉”は、地底の土の味がするから、信用してたのに」殿下は答えなかった。
鞠子は小さく深呼吸して、言った。「坂巻レオが、またモスクムオルに混ぜてって言ってきてる。あんた、どうするん?」「まずは、誰かに負けるのやめよか。自分とかに」そう言って、殿下は飴玉を一つ取り出した。 以前より小さく、ちょっとベタついていた。
その夜。河内長野の「前衛紙芝居館」に、珍しく客がいた。一人は高校生らしき青年。もう一人は、明らかに間違えて入ってきたおばあちゃん。「今日の演目は『愛と死の焼き芋列伝』や。見逃すなよ。こっからや、イモの声が、聞こえるか?」青年は笑った。おばあちゃんは寝た。ジーサンは、満足げに団扇を閉じた。「1人でも、見てくれたら十分や。地底は広いからな」
そして、その頃、鞠子は夜の淀川の橋の上にいた。鞄の中には、殿下に手渡せなかった手紙が入っている。「“UP TO ME”のときも、あんたらの隣に居れたこと、たぶん、誇りやったよ」小さくつぶやいて、手紙をポストに入れず、そのまま胸に戻した。月が、泥を照らしていた。その光はまるで、埋もれかけた夢を少しだけ乾かすように、やさしかった。
第9話『笑いの遺伝子』
坂巻レオは、かつての自分の“笑い”を、たたんで押し入れにしまった男だった。中学時代、文化祭で即興漫才を披露し喝采を浴びた。その時に組んだ相方は、後に大手事務所へ所属し、テレビの向こうで毎晩滑っていた。レオは、自分の笑いが「育てたのに逃げられた植物」みたいに感じて、以後、芸を封印していた。そんな彼が、再び笑いに火をつけたのは、モスクムオルの敗北劇だった。UP TO MEのステージで見た、あの三人のバカみたいにかっこ悪い敗北。でも誰よりも真剣な空気。あれは、火種だった。
「笑いは、遺伝するんです。俺は、あんたらの“遺伝子”を継ぎたい」先生にそう言った時、先生は煙草をくわえたまま言った。「お前、それ、プロポーズぐらい重いぞ」「なら、なおさら断らんといてください」その頃、殿下は大阪市議会の市民傍聴席にいた。壇上では議員が、小難しい言葉を羅列していたが、殿下の耳には全然入ってこなかった。
「“居場所”って、議場にはなかったんやな」そうつぶやいた時、後ろから名刺が差し出された。「地下芸人の方ですよね。『文化振興部』の外郭団体ですが、今度イベントがありまして」殿下は笑った。「地底の文化も、ついに地上に出るんか?」「いえ、“地底文化”として紹介します。上には上がらせませんから」その言葉に、殿下はなぜか安心した。一方、ジーサンは河内長野の紙芝居館で、若手の紙芝居志望者にレクチャーを始めていた。まずな、“静寂”を恐れたらあかん。ウケへん時間こそ、物語の骨や」そこに訪れたのは、坂巻レオだった。「教えてください。俺、モスクムオルの弟子になります」ジーサンはうちわで顔を仰ぎ、つぶやいた。「弟子やなくて、遺児やな、どっちか言うたら」「じゃあ、地底遺児ってことで」「バカな名前やけど、ええやろ」ジーサンの口元が、少しだけ緩んだ。
十三では、先生がレオと再び組むかどうか、鞠子に相談していた。「どう思う?」「組んだらええやん。あんた一人で“ふれあい”し続けるの、正直見てられへんし」「じゃあ、見といてや。次は、レオが前で俺が後ろ、モスクムオル、改め…」「待って。それ、私に名前つけさせて」「は?」「今度こそ、“私の居場所”でもあるって思いたいから」鞠子は微笑んだ。あの、UP TO MEのカウンター越しに見せていたような、懐かしい笑顔だった。
その夜。ジーサン、先生、殿下、そして坂巻レオが、誰に言われるでもなく、再び同じ場所に集まっていた。淀川の河川敷。「地底でも見える月」というジーサンの言葉で、いつしか集会場所になっていた。「今日から俺らは、何や?」レオが言う。「お前が笑いの遺児なら…」「俺は、地底の亡霊やな」殿下が言う。「前衛の風下」ジーサンが続ける。「なら俺は、“まだ笑われてない人間”でええわ」先生が締めた。風が吹いた。月が照らした。誰もが、一歩踏み出そうとしていた。
10話『地底より愛をこめて』
春が近づいていた。 淀川の土手には、まだ枯れ草の色が残っていたが、空気の温度がわずかに柔らかくなっていた。坂巻レオは、古びた体育館の舞台袖で小さく深呼吸をした。木造の床のきしむ音、埃の匂い、どこか懐かしく、どこか不安だった。「笑いって、どこから来るんやろな」誰に言うでもなく呟いた言葉に、「それ、舞台で言え」と、先生が笑いながら背中を叩いた。「ウケるかどうかは別として」「笑われへんかったら?」「地底まで帰ってこい。歓迎したる」
舞台の上には、再結成された“モスクムオル・リユニオン”の4人がいた。レオが前に立ち、殿下がツッコミに回る。先生とジーサンは、それぞれボケと前衛構成の“異物”として横を固める。観客は少なかった。町内会、通りすがりの親子、元芸人、そして、栗尾鞠子。「こんなもんやで、最初は」先生が袖から言うと、「最初?俺たち、いつも“最初”ちゃうんか」と殿下が返す。舞台袖で、鞠子が手を合わせるように胸に腕を組んでいた。その手には、レオから預かった新しいチラシの試作品がある。タイトルは『地底より、愛をこめて。』
漫才は、ひどい滑り出しだった。レオのツカミはマイクを外し、ジーサンの紙芝居はめくる順番を間違えた。 殿下のツッコミが先生のアドリブに追いつかず、先生が暴走したところに、レオがただただ困惑していた。客席から笑いは起きなかった。ただ、ざわざわと、何かが伝わるような空気があった。その時だった。客席にいた小さな子どもが、いきなり手を叩いて笑った。「おじちゃん、変ー!」それがきっかけだった。 じわじわと、観客が笑い始めた。爆笑ではない。くすくすとした、小さな、小さな笑い。でもそれは、確かに地上へ届いていた。
終演後、控え室の段ボール椅子に座って、ジーサンが言った。「地底から出ても、空は落ちてこなかったな」「落ちてきたら、逆にネタになるでしょ」と先生が肩をすくめ、「いや、それは笑えんわ」とレオが笑った。殿下は黙っていたが、ひとつだけ言葉をこぼした。「お前らと舞台に立てて、俺は“浮上”したわ」その言葉に、誰もツッコミを入れなかった。
夜。鞠子は一人、体育館の片付けをしながら、外の風にあたっていた。そこへ、レオがやってきた。「栗尾さん」「うん?」「地底芸人って、たぶん、あなたのせいですよ」「え?」「“UP TO ME”って、そういう名前やった。あの場所があったから、俺ら、地底におれたんやと思うんです」だから…もう一回、名前をください」鞠子は驚いたように笑った。その笑いには、少しだけ涙が混じっていた。「名前?今度は?」レオは、深く一礼して言った。「“UP TO ME”、じゃなくて…“BACK TO US”。どうですか?」その夜、体育館の片隅。小さなノートに、鞠子はタイトルを書いた。『BACK TO US』帰ってくるべき場所。ページの端には、こう添えられていた。モスクムオル、再始動。202X年 春。