頼朝の後悔
政子と結婚し、北条家の婿として認められた頼朝はその晩、夜半にふと目が覚めた。
月夜が煌々と辺りを照らしている。
彼は、妻を得て長女も生まれ、生まれて初めてと思えるほどの心穏やかな日々を送っていた。
妻は田舎育ちで気が強く、嫉妬深いという欠点はあるが、頼朝を心から愛してくれている。
以前にできた子供は無惨に殺された。
その分、今の娘は愛おしい。
(次は男の子が欲しいものだ。
平氏全盛の今の世ではあまり価値がないが、源氏の嫡流を伝えていけば、平氏の勢いが衰えれば朝廷も源氏を思い出し、昔のように源平並んで競うことにもなろう。
わしはこの伊豆の辺境で生を終えることになるだろうが、源氏の血を繋げ、武士の棟梁としての教えを子供に伝えねばならぬ。
それがわしの仕事だ)
そんなことを思いながら、隣で眠る妻の政子、娘の大姫を眺める。
頼朝が伊豆に流されて早十八年となる。
当初は京都に戻りたくて仕方がなかったが、すっかり伊豆暮らしにも馴染んだ。
(思えば、武士の棟梁とは恐ろしい世界だ。
常に武を誇り、敵や部下に威を見せねばならん。
所領の争いも激しく、貴族や寺社との関係も大変だ。
何よりも嫌なのは源氏の宿痾、一族の抗争、殺し合い。
父子、兄弟、叔父甥の間でも隙を見せれば殺される。いや、一族故に他以上に血を流す。
それが行き果てて、我が父義朝は祖父為義をはじめ血族を殺し尽くした。
その挙句が、平氏との戦の敗北だ。
もし源氏が再興することがあれば、血族を大切にし、生まれ変わらなければならぬ。
次に血で血を洗う抗争を行えば、源氏は滅亡する)
何故か今日は眠りに落ちることができず、半ば夢のような中で頼朝は床でとりとめもない思考を巡らす。
そんな頼朝に空からの声が聞こえる。
半夢中状態の頼朝はそれを不思議に思わなかった。
「頼朝、天下を獲りたいか?
親兄弟を殺した平家を滅ぼし、お前を追放した後白河に痛い目を合わせ、日の本に号令をかけたいか?
正直に言ってみよ」
「わしは源氏嫡流の身。
こんな片田舎で生涯を終えたくはない!
平氏にとって代わり、天下に号令をかけたい。
そして、わしを庇いもせずに見捨てた院にも一泡吹かせたい」
布団を跳ね除け、縁側で月を睨みながら、頼朝は心の奥底にあった思いを吐き出した。
「ふっふっふ
冷静そうに見えるが、お前もやはり源氏の一員よ。
ならばお前に選択させよう。
ここにお前の祖先、義家の置き文がある。
読んでみよ」
いつのまにか頼朝の前に置かれた紙には、
『我が九代の孫に生まれ変わりて天下を取るべし』
と書かれ、義家の花押が据えてあった。
「お前が先ほど考えていたように、いずれ平氏は衰退し、源氏が世に出ることになる。
お前は義家の四代の孫。何もしなければお前の子孫は天下を獲り、十五代に渡り日の本を治めよう」
「わしの五代後だと!
遅すぎるわ!
わしに天下を獲らせてくれ」
「これまで河内源氏は始祖満仲から為義や義家、その子孫まで人を虫けらのように扱い、何の躊躇もなく殺しまくってきた。
業が溜まりに溜まり、ついにお前の父の義朝は累代の家臣に殺されたのだ。
そして反省のためにお前はここに流された。
あと五代、行いを慎み、祖先の業を減らしていけば天下は自ずと手中に入る」
「我が父祖達の行いは知っている。
だが、ここで一生いるのは耐えられない。
天下を取れるのならばそうさせてくれ」
「世の流れを乱すと、その反動が来るぞ。
お前の子孫は得られるべきものを失うかもしれない。それを覚悟の上か」
「構わぬ。
わしはこの伊豆の田舎で一生を過ごしたくはないのだ!」
「己しか考えないのは源氏の血か」
空からの声はため息の声にも聞こえた。
「よかろう。
その望み、叶えてやる。
その置き文をもう一度見てみよ」
頼朝が目をやると、それは『四代』と変わっていた。
つまりわしは天下を取れる!
「せめて忠告してやる。
後の報いを少なくしたいのであれば、できるだけ流す血を少なくすることだ。
血を流せば流すほど、それは己やその子孫に跳ね返るぞ。
特に源氏同士の殺し合いは避けることだ」
それを最後に声はしなくなったが、夢でない証拠に置き文は残った。
頼朝はそれを誰にも見せずに密かに隠す。
深夜一人になるとそれを眺める。
すると、天はわしを天下人に選んでいるという自信がみなぎる。
初陣の石橋山で敗れた時も頼朝は少しも動揺を見せなかった。
その悠揚たる態度を見て、三浦や千葉などの大豪族は、この人こそと臣従を申し出る。
それからはとんとん拍子で、頼朝は坂東の、鎌倉のあるじとなった。
家庭生活も順調である。
念願の嫡男を、その後も男女の子供を得る。
(これで源氏の嫡流、そして天下を継がせることができる)
頼朝の人生は順風満帆であった。
富士川の戦いで戦わずして勝ち、頼朝は念願の上京を目指したが、坂東武者の反対で取りやめる。
その一因には、天から聞かされた、流血を避けよということもあった。
(このまま勢いに任せて、西に進めば配下の坂東武者は戦を好み、多くの血を流すであろう。
ここは慎重に、朝廷や平氏と交渉して、昔の源平並び立つ形を目指そう。
ちょうど都合よく義経や範頼という弟も出てきた。
暴れるだけが能の坂東武者を率いさせ、彼らを後方からコントロールすれば良い)
しかし、木曾義仲という男が現れてその目論見は外れた。
頼朝がじっくりと腰を据えている間に、義仲は上洛し、平氏を西国に追い出す。
(このままでは源氏の嫡流の地位を奪われる!)
頼朝は義経に命じて坂東武者を率いて上洛させ、木曾義仲を討伐させた。
義経は容易くそれを成し遂げ、義仲は敗死した。
(必要なことだ)
頼朝は己に言い聞かせる。
しかし、思わぬことが起きた。
名目は大姫の許婚、その実は人質であった義仲の子息、義高が逃げ出したのだ。
今のところ、頼朝は彼を殺すつもりはなく、寺にでも入れるかと考えていたが、逃げ出したのを見過ごすわけにはいかない。
放った追っ手は先走りして義高の首を持ち帰った。
捕えるなど面倒と思った坂東武者らしい対応である。
許婚を失った娘、大姫は泣き叫び寝込んだ。それを見た家族思いの政子は激怒した。
頼朝の最初の暗雲であった。
(これが流血の報いか?
これ以上の血は避けねばならん)
頼朝は平氏と交渉するが、朝廷の元で両家並び立つことについて、清盛に痛い目に合わされた後白河院は許さなかった。
「頼朝、平氏を滅ぼせ!」
そう言って院宣を送る。
院の思いは両者の相打ちによる院政の復活。
源平の戦いで後白河が気にするのは三種の神器のみであった。
頼朝は事態をコントロールし、安徳帝と三種の神器を取り戻しつつ、源氏優位の下での平氏の生き残りを構想する。
しかし、後白河に甘言で誑かされた義経と猪武者揃いの坂東武者は平氏打倒に突っ走る。
唯一の頼朝の理解者である梶原景時の意見は義経に無視される。
壇ノ浦まで追い詰めたと聞いた頼朝はそこで平氏を降伏させるように求める。
『それができなければ、せめて安徳帝と女達はその命を助けよ』
頼朝の願いは虚しく、義経から誇らしく届いた書状には、平氏一族はもちろん、安徳帝と二位の局などの女も海の藻屑となったと記されていた。
「馬鹿が!」
この国の神々を司る天皇、それも天の加護が強い無垢の幼児を殺して、無事でいられるものか!
頼朝の怒りは爆発した。
得意満面の義経を冷遇し、わざと後白河院の院宣を出させて頼朝討伐に立ち上がらせる。
そして、たちどころに義経を討伐する構えを示し、彼を京都から追い落とす。
「バカめ、坂東武者はわしの飼い犬よ。
お前に付けと命じたからお前に従っていたのだ」
ようやく念願の上洛を果たすと、自らを思わぬところに追いやった元凶である後白河院を追い詰めた。
「もはやこの国は朝廷のものではない」
流血を避けよという天の声に叛いてしまった頼朝は、もはや天に頼らずに、坂東武者を掌握し、源氏の天下を盤石とすることを目論む。
そのためになりふり構わず、御家人や守護地頭として配下の坂東武者を優遇し、敵となりそうな奥州藤原氏は義経とともに皆殺しとした。
更に、我が子の障害となるかもしれない範頼や甲斐源氏の一条忠頼を殺す。
(わしの手は血塗れだが、せめて我が子は幸せになってほしい)
長女大姫を天皇の妃とするために必死で働きかけるが、大姫は義高を殺した父を許さずに、自殺のような衰弱死を遂げる。
次に次女三幡の入内を考えるが、それからまもなく彼女も突如高熱を発して倒れた。
三幡の祈祷を行う高僧は、やがて死相が現れ、「お赦しを」と叫びながら昏倒した。
「三幡様の背後には、平氏一門、源氏の殺された人々、更にその奥には子供の様相をとった真っ暗の恐ろしい存在がおられた。
あれはどのような高僧でも叶わぬ」
僧侶はそう言って息絶えた。
三幡は高熱に苦しみながら死んだ。
二人の娘を失った政子は頼朝のことを恨むような目で見る。
更に政治に忙しくしている間に、長男の頼家は比企家に囲い込まれ、次男の実朝は妻の実家、北条氏に庇護される。
頼朝が死ねば、両者の血で血を洗う争いは必至であろう。
(天下を得たのに、何故こんなに苦しいのだ!)
夜、人払いして一人になった頼朝は心の支えである義家の置き文を探した。
それを読むと、自分こそが天下人になる資格があると自信を得られるのだ。
「ない、ない!
どこにいった?」
探す頼朝の耳に、あの時の声が聞こえた。
「阿呆が、忠告をことごとく聞かなかったな。
お前の行った流血の報いは、お前だけにとどまらず、子孫に及ぶ。
頼家は母や家臣に背かれ、伊豆の僻地の浴室で睾丸を潰されて死に果てるぞ。
そういえばお前の親の義朝も風呂場で殺されたな。
因果は巡るか。
実朝は頼家の子、つまりお前の孫に殺され、その孫もすぐに殺される。
源氏嫡流は全滅するのだ」
「待て!
以前、源氏は十五代続くと言ってなかったか?
それはどうなるのだ?」
「心配するな。
お前が捻じ曲げた歴史、まずは平氏の天下分を嫁の実家の北条氏が頂く。
その後を源氏一門の足利が継ぐだろう。
そのためには少し置き文に手を入れねばならん。
もう一人ほど怨念を込めて死んでもらうか」
それを聞いた頼朝は叫んだ。
「わしが苦労した天下を舅や義弟、更に足利などに渡すだと。
明日にでも奴らを殺して、そんな歴史を潰してやる」
「はっはっは
天命尽きたお前にできるかな」
そう言って声は聞こえなくなる。
翌朝、定まっていた橋の新築の行事が始まる。
これを終えたら、北条と足利一門を粛清することを決意して、頼朝は馬で橋を渡るが、途中で馬は大きく転倒し、頼朝は頭から地面に落ちた。
そのまま頼朝は意識を失い、屋敷に運ばれる。
その中で彼は、これからの未来を見る。
それは子供達や可愛がっていた御家人の無惨な死に様と北条の繁栄である。
「せっかくやったチャンスを生かせなんだな。
やはり源氏は源氏か。
二十年近くの反省期間と温かな家庭と穏やかな生活まで用意してやったのに。
次の天下を継ぐ足利は反省すると良いが」
そんな声が遠くから聞こえる。
その後、意識が遠のく頼朝が最後に見たのは、自分が天下を望まなかった将来である。
そこでは白髪の頼朝と政子が微笑む中、大姫と三幡は元気に子供と遊び、頼家と実朝は酒を酌み交わして談笑していた。
(そんな温かな一生もあったのか)
そう思いながら頼朝は意識を手放した。